空を見上げる理由 3
風が止んでいた。
あれほど騒がしかった羽音も、今はない。空は灰色に沈み、空気には鉄の匂いが満ちていた。
敵の男は、地面に倒れていた。
シラノスの最後の一撃――銀の刃のように鋭い翼が、契約者の鎧ごと胸を貫いた。
そのまま崩れ落ちた敵は、二度と動かなかった。
だが、その一撃の代償は、あまりにも大きすぎた。
「シラノス⋯⋯!」
セラは叫んでいた。
彼の名を、何度も、喉が張り裂けるほど。
瓦礫と血の飛沫が混ざる中、地面に倒れたシラノスは、動かなかった。
黒と銀の羽根が、真っ赤に染まっていた。
血で濡れた地面の上で、彼の胸はかすかに上下していたが――その呼吸は細く、弱かった。
「どうして⋯⋯どうして、庇ったの⋯⋯っ」
セラの手が震える。
震える指で、彼の頬に触れる。冷たい。ひどく、冷たい。
その胸の下には、暴走した敵の刃――“牙なき契約者”の爪が、深く食い込んだ痕があった。
彼は最後の瞬間、セラの前に飛び出して――その身を盾にしたのだ。
「こんなの、約束してない⋯⋯!」
彼の羽根を、抱きしめる。
かつては恐怖の象徴だったそれが、今は、愛しくて、愛しくて仕方なかった。
「あなたがいなきゃ、私は⋯⋯」
涙が、止まらなかった。
戦いは終わった。
敵は倒れた。けれどその代償は、あまりにも大きすぎる。
「起きてよ……シラノス……っ」
唇を震わせ、彼の名を呼ぶ。
けれど応えはない。
セラは、そっと彼の羽根に頬を寄せた。血と風の匂いが混ざったそれに、ぎゅっとしがみつく。
「私⋯⋯まだ、あなたとやりたい事沢山あるのに⋯⋯教えて欲しい事たくさんあるのに⋯⋯!」
声が、かすれる。
彼の心臓の鼓動が、遠ざかっていくような錯覚に、胸が張り裂けそうだった。
――その時だった。
微かに、指が動いた。
セラの頬に、冷たく触れた手が、震えながらも、彼女の涙を拭った。
「⋯⋯セラ⋯⋯泣くな⋯⋯お前の、泣き顔⋯⋯嫌いだ⋯⋯」
かすれた声だった。それでも、彼女には十分すぎるほどだった。
「シラノス⋯⋯!」
セラは顔を上げた。
彼の瞳が、わずかに開いていた。意識は朦朧としている。それでも、彼女を見て、微笑んでいた。
「守れて⋯⋯よかった⋯⋯」
その言葉に、セラは首を振った。
「バカ⋯⋯! そんなことで⋯⋯そんな代償で、満足しないでよ⋯⋯!」
彼女は彼の手を握りしめた。
「私は⋯⋯あなたに生きていてほしいの。ずっと、そばにいてほしいのに⋯⋯!」
涙が再び溢れる。
その頬を伝う雫に、彼の指が触れる。
「⋯⋯なら⋯⋯もうちょっと⋯⋯頑張るか⋯⋯」
それは、かすかな冗談のようで、かすかな誓いだった。
セラは頷いた。
「約束して。死なないって、もう私を、独りにしないって」
彼は、ゆっくりと目を閉じた。応えはなかった。
けれど、セラは信じていた。
彼の羽根はまだ、温かかった。
ギルドへの帰還は、仲間たちの協力のもと、夜明け前に果たされた。
リファは泣きながら応急処置を指示し、バルドは無言で血まみれのシラノスを担ぎ上げた。
「こいつは⋯⋯まだ、戦える」
その言葉が、誰よりもセラの心を支えていた。
月の光が窓から差し込む医務室で、彼の寝顔を見守るセラは、そっと呟いた。
「あなたが“死神”でも、“英雄”でもなくていい。ただ――生きて、また、空を一緒に見よう」
彼の羽根の上に、自分の手を重ねる。
そこにある温もりだけが、今の彼女を支える灯火だった。




