空を見上げる理由 1
「⋯⋯これは、どういうことだ」
低く唸るような声が、ギルドの会議室に響いた。
その中心に立つのはギルマス・バルド。
手にしているのは、一枚の黒薔薇の指令書――だが、封蝋の色が“漆黒”ではなく“暗紅”であることに、全員が気づいていた。
「これ⋯⋯本物じゃない、のか?」
リファが呟いた。珍しく語尾に“ニャ”がない。
セラは、凍ったようにその場から動けなかった。
その封印の形状。手書きの刻印。送り主の署名。
どれも精巧だが――確かに、彼女がかつて手にしたものとは異なっている。
「偽物の黒薔薇任務⋯⋯」
ハイネが絞り出すように言った。
「じゃあ、私たちが出された任務の中に、誰かが仕込んだ“裏契約”が⋯⋯?」
ギルマスは黙ったまま、その書類を焼き捨てた。
そして、目を閉じる。
「⋯⋯鋼薔薇に潜んでたんだよ。牙を偽った契約者がな」
その言葉に、空気が凍った。
“裏契約者”――それは、ギルドの倫理と信義を裏切り、敵対勢力と通じて情報や命を売る者のことを指す。
「⋯⋯信じられない」
セラがようやく声を出す。
「ギルドは、私に“恐怖と向き合わせてくれた”場所だったのに。シラノスと出会って、みんなと戦って、――信じてたのに!」
叫ぶセラの声に、誰もが目を伏せた。
リファすら、か細い声で「ごめんニャ」としか言えなかった。
だが、そのとき――
「⋯⋯セラ、怒るな」
低く、静かな声が背後から響いた。
シラノスだった。彼の目は、今までにないほど鋭い。
「怒りは正しい。だが、それを向ける矛先を見誤るな。
牙を抜かれ、名前だけで繋がれた仲間たちを、本当に守るなら――俺たちはもっと、冷静にならなきゃならない」
セラはその言葉に、息を呑んだ。
シラノスの口調には、かつてないほどの重さと決意があった。
ギルマスが手を挙げ、全員の視線を集める。
「裏契約者は、3名。既に2名は身柄を確保済みだ。
残る1名⋯⋯“最も危険な存在”が、今もどこかに潜んでいる。
そしてこいつが、黒薔薇マークを勝手に流用していた張本人だ」
「そんな⋯⋯誰が⋯⋯?」と、リファが声を震わせる。
「分かんねぇさ。だが、名前がひとつ、挙がってる。
それも、シラノスの傭兵時代に関わっていた――“紅刃のガルザ”だ」
その名前に、シラノスの瞳が一瞬だけ揺れた。
「⋯⋯ガルザ」
「知ってるのか?」
「俺が傭兵だった頃、仲間だった。だが、奴は⋯⋯」
声が途切れ、拳が震える。
「⋯⋯俺と違って、“殺すこと”を楽しんでいた」
場が静まり返る。
誰もが言葉を失った。
かつて“銀の死神”と恐れられたシラノスでさえ、忌避するような存在。
セラがそっと、シラノスの手に触れた。
「⋯⋯行こう、シラノス。私たちで、その裏切りを終わらせよう」
彼はゆっくりと頷いた。
「ああ。黒薔薇を、本物に戻すために」
そして、ギルマスが最後に言った。
「この任務に志願する者は、いないか?」
沈黙――そして、セラとシラノスが、同時に一歩踏み出した。
「俺たちが行く」
「バディとして。恋人として。鋼薔薇の猟犬として!」
その宣言に、誰かが「おうっ!」と声を上げた。
ギルドの仲間たちが、ふたりを囲んで拍手し、背中を叩く。
ギルドの地下――灯りの少ない訓練室の奥に、静寂があった。
シラノスは、朽ちた木箱の前に膝をついていた。
蓋を開けると、そこには布に包まれた一本の鎌。
長く封じていた、かつての己の象徴。
「⋯⋯銀の鎌」
呟きながら、慎重に布を解く。
刃は月光のように鈍く光り、かつて幾百もの命を奪った気配をまだ纏っていた。
「お前の出番は、もう来ないはずだったんだがな⋯⋯」
背後から、小さな足音がした。
「やっぱり、それ⋯⋯持ってくんだね」
セラだった。灯りに照らされるその瞳は、揺れてはいなかった。
「もう、使わなくていいと思ってたよ。けど⋯⋯」
シラノスは鎌の柄を握りしめる。
「止めなきゃいけない奴がいる。あの技じゃなきゃ、止まらない」
「⋯⋯怖い?」とセラは尋ねた。
しばらくの沈黙のあと、シラノスはかすかに笑った。
「怖いさ。お前の前で、“あの俺”に戻るのが」
セラは、そっと彼の左手を取った。
「なら、大丈夫。わたしがここにいる。あなたの心が壊れないように、ちゃんと⋯⋯つかまえておくから」
鎌の重さではない――彼女の言葉が、今の彼を支えていた。
「ありがとう、セラ。⋯⋯行こう。これは“復讐”じゃない。“終わり”にするための戦いだ」
二人は訓練室を後にし、夜明けの気配が迫る階段を登っていった。
鎌が背に収まり、羽音が静かに鳴る。
“銀の死神”は、もう誰も奪わせないために、再び牙を剥いた。
この戦いは、ギルドの信頼を取り戻すための戦いでもある。
そして、セラが“空を背負って生きる”と決めたその先の、真の証明でもあるのだ。
鋼薔薇の夜が明ける。
ふたりの、最終決戦が、今――始まる。




