鋼薔薇の猟犬 2
朝の空気は少し湿気を含んでいて、窓から差し込む光がぼやけていた。
セラはギルドの休憩室で、小さくため息をついた。
目の前の木製テーブルには、見慣れない分厚い任務書類。
その表紙には、はっきりと黒薔薇の印が刻まれている。
「⋯⋯逃げられなかったか⋯⋯」
逃げ癖は、もう癖では済まない。
ギルマス直々の命令で、バディ任務への強制参加。
しかもその相手は、昨日初めて顔を合わせた──“シラノス”。
(やっぱり、思い出せない⋯⋯)
彼の声。仕草。匂い。
なにもかもが優しげで、穏やかで⋯⋯それなのに、心の奥で何かがひっかかっている。
特に──あの羽が、静かに揺れるのを見るたびに。
「お待たせしました、セラさん」
扉をノックする音と共に、聞き覚えのある声が届いた。
入ってきたのは、銀黒の髪に深い茶色の上着、黒の手袋を嵌めた長身の男──シラノス。
その背には、今日も大きな羽があった。
昨日よりも畳まれているものの、椅子に座れば背もたれにかさなるその存在感は、どうしたって消せない。
「⋯⋯敬語、似合わないですね」
思わず、口から出てしまった。
しまった、と唇を噛んだ時、シラノスはくすりと笑った。
「じゃあ、やめましょうか。オレはシラノス。あらためて、よろしくね」
差し出された手は、予想よりも大きくて、体温を持っていた。
羽のせいか、彼の動きにはどこか風を孕んだような柔らかさがある。
「⋯⋯セラです。よろしく、お願いします⋯⋯」
自分でもわかる。声がこわばっていた。
けれど、シラノスは気にした様子もなく、にこりと目を細めた。
「準備はいい? 今日の任務は軽めの護衛。無理のないやつから始めようって、ギルマスが言ってたよ」
(あの人がそんな優しい気遣いをするなんて⋯⋯)
嘘だ。
たぶん、“まとめて片付けたかった”だけに違いない。
「⋯⋯あの、シラノスさん」
「“さん”もやめていいよ。バディなら対等、でしょ?」
さらりとした言葉。
それに戸惑いながらも、セラはどこか安堵していた。
彼の声は、鳥族のはずなのに──羽音が聞こえない。
その静かさが、少しだけ恐怖を和らげてくれる。
けれど。
「あなたって⋯⋯何者なんですか?」
不意にこぼれたその問いに、シラノスはほんの一瞬だけ間を置いて、微笑んだ。
「今は、ただの冒険者さ。少し前までは、傭兵だったけどね」
その言葉に、心臓がトクンと跳ねた。
「⋯⋯『銀の死神』って呼ばれてた、って⋯⋯聞いたこと、あります」
あれは、戦場に舞い降りる死神。
羽ばたく音もなく、命を刈り取る──そう語られていた男の名。
「⋯⋯昔のことだよ。忘れられるなら、それが一番だ」
そう言った彼の瞳が、ふと陰った。
その横顔に、セラはなぜか胸を締め付けられるような痛みを覚える。
「⋯⋯忘れたくても、忘れられないことってありますよね」
その言葉に、シラノスが目を見開く。
けれど何も言わず、代わりにふわりと微笑んでみせた。
「行こうか、セラ。今日は、空がきれいらしいよ」
空──。
その言葉に、また心がざわついた。
“空を見上げたら、怖くて涙が出るんです”
昔、誰かにそう話した記憶があるような。
けれど、声も、相手の顔も思い出せない。
でも確かに、何かが胸の奥で目を覚ましかけている。
その“なにか”が、目の前のこの男と繋がっている──そんな予感が、どうしようもなく離れなかった。