恐怖と対話 10
夜の風が谷をなでるように吹き抜けていく。
木々の葉がさわさわと揺れ、空には丸く輝く月が浮かんでいた。
その静寂の中、セラとシラノスは焚き火を離れ、丘の上にある岩場に並んで座っていた。
「⋯⋯風、気持ちいいね」
セラが呟くと、隣のシラノスがふっと笑った。
「うん。君の声もね」
「な、なにそれ⋯⋯」
顔が熱くなる。まだ慣れない。けれど、不思議といやじゃない。
その隣にある体温も、呼吸の音も、そよぐ羽音すらも。
かつて、自分の中で“恐怖”そのものだったはずの羽音。
それが今は、まるで子守歌のように心を落ち着かせてくれる。
(怖くない⋯⋯もう、怖くないんだ)
シラノスの羽がそっと広がる。
闇の中でもわかる、黒と銀の入り混じった大きな翼。
それがゆっくりと、セラの背中に触れた。
「⋯⋯こうしても、平気?」
優しく問う声に、セラは小さく頷く。
翼の内側に包まれるように、彼女は身体を預けた。
「あったかい⋯⋯」
「それ、オレのセリフだよ」
どこまでも優しい声だった。
その音色に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「セラ⋯⋯」
そっと名前を呼ばれ、振り返った瞬間、視線が絡まった。
静かな夜、ただ二人きりの世界。
気づけば、唇が触れていた。
優しく、けれど確かに重なる感触。
怖くない。痛くない。
むしろ、心がふわりと浮かぶような、柔らかな――
「⋯⋯ん」
短く声が漏れ、離れた唇の間に微笑みが生まれる。
「⋯⋯これが、初めてなんですけど」
照れながらセラが言うと、シラノスは少しだけ驚いたように目を見開いた。
「⋯⋯オレも、だよ」
「えっ?」
「こんなに、誰かを想ったことなんて、なかったから」
再び重なる目と目。そのまま、そっと額を寄せ合う。
「⋯なんでありがとう、セラ」
「ううん⋯⋯こちらこそ⋯⋯」
その瞬間、頭上で羽音が響いた。
どこからか飛び立った鳥が、月夜を横切っていく。
バサバサッ――という音が、はっきりと耳に届いた。
セラは、びくりと一瞬肩を跳ねさせた。
だが、すぐに落ち着き、笑みを浮かべた。
「⋯⋯驚いたけど、怖くないよ。今は、もう平気」
その言葉に、シラノスの目が柔らかく細められる。
「すごいね、君は」
「すごくなんてない。ただ、信じられる人がそばにいてくれたからだよ」
月明かりの中で、二人はもう一度、静かに唇を重ねた。
──一方、同じ頃。
谷の少し離れた場所。岩に腰掛けて空を仰いでいるヴェスパーの隣に、ひらりと羽根が舞い降りた。
「⋯⋯振られたんだって?」
そう言いながら現れたのは、ハイネだった。
風に揺れる桃色の髪に水色のいたずらっぽい目元。けれどその声は、どこか優しかった。
「お前⋯⋯聞いてたのかよ」
「まあ、だいたいね。っていうか、見てたって言った方が正しい?」
ヴェスパーは眉をひそめて肩をすくめる。
「⋯⋯ったく。どいつもこいつも、野次馬ばっかりかよ」
「でも、悔しがってるわりに、吹っ切れた顔してるじゃん」
「そりゃな⋯⋯あの女、目が真っすぐだった。諦めるしかねぇだろ」
そう言って、ヴェスパーは口元を歪める。
「それに――あいつの羽根を選んだなら、もう俺の出る幕はねぇ」
「ふうん。じゃあ、次はどうするの?」
ハイネの問いに、ヴェスパーはしばらく黙ったあと、ぽつりと答えた。
「⋯⋯さてな。しばらくは、風にでも吹かれてりゃいいさ」
その背に吹いた風が、彼の黒髪を揺らす。
ハイネはふっと微笑み、ヴェスパーの隣に腰を下ろした。
「なら、私も一緒に吹かれてあげようか?」
「⋯⋯お前ってほんと、変な奴だな」
「そっちこそ、ね」
二人の間に流れる風は、どこか心地よくて。
まだ知らぬ未来の始まりを、そっと告げているようだった。




