恐怖と対話 9
夜の帳が下りた谷間のキャンプ地。焚き火がぱちぱちと音を立て、赤い火の粉が静かに舞っていた。
ハイネは気を利かせて席を外してる。
その光に照らされ、セラの表情はどこか決意を帯びていた。
「⋯⋯あの時の気持ちまで、やっと思い出せた」
焚き火の前に座りながら、ぽつりとセラが言う。
向かいにいるシラノスは、黙って彼女の言葉を待っていた。
「助けてくれたのは、あんただった。小さかった私を、抱きしめて、傷を包んでくれた」
火の光に照らされて、セラの瞳が潤む。だが涙は落ちない。
その目はしっかりと、シラノスを見つめていた。
「ずっと逃げてきたの。鳥が怖くて、自分が情けなくて。あの日のことなんて、思い出したくなかった。でも――」
シラノスの手が、そっと膝の上で握られる。
セラは深く息を吸って、そして言った。
「⋯⋯それでも、私は今、生きてる。あんたが助けてくれたから」
その声はかすれていたが、震えはなかった。
「それだけじゃないの。⋯⋯シラノス。私、あんたが⋯⋯」
風が、焚き火の煙を巻き上げる。夜空には星が滲んでいた。
セラの唇が、静かに動いた。
「――好きです」
言った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
けれど、それ以上の解放感が、彼女の心を満たした。
「最初は怖かった。でも、今は違う。あんたの羽の中は、あったかくて⋯⋯安心するの。だから⋯⋯」
もう、逃げない。そう思えた。
しばしの静寂の後、シラノスが顔を伏せた。
「⋯⋯セラ」
その声は震えていた。
「⋯⋯ごめん、オレ、こんな⋯⋯泣くつもりじゃ⋯⋯」
顔を上げたシラノスの目には、確かに涙が光っていた。
「ずっと⋯⋯待ってた。オレの羽が、いつか君を怖がらせなくなる日を」
彼の手が、そっとセラの指に触れた。
その手を握り返すセラの指先は、もう震えていなかった。
「⋯⋯ありがとう、セラ」
その声に、セラの胸の奥がじんわりと熱くなった。
「⋯⋯うん、私も⋯⋯ありがとう」
二人は焚き火の前で見つめ合い、世界が静かに溶け合った。
その時だった。
「⋯⋯やっと言ったか。まったく、遅すぎる」
いつの間にか背後に立っていたヴェスパーが、溜息交じりに言った。
「ヴェスパー⋯⋯」
セラが立ち上がる。彼の金の瞳が、真っすぐにセラを見つめ返していた。
「もう、わかってるだろ。俺が何を言いたいか」
彼の言葉は、いつになく静かだった。
「⋯⋯うん。わかってる。ごめんなさい、ヴェスパー」
セラは、しっかりと頭を下げた。
「あなたのことを、嫌いだったわけじゃない。でも、違うの。シラノスのことが、好き」
その一言に、ヴェスパーはしばらく沈黙した。
だが、やがてふっと目を細め、口角を少しだけ上げた。
「⋯⋯らしいな、お前らしい」
そう言って、彼は空を見上げた。
黒い翼ではなく、静かに風に乗る火の粉を。
「やっぱり、俺は牙しか持たねぇみたいだ」
ぽつりと、どこか寂しげに呟くその背に、セラは一歩近づいた。
「ありがとう。⋯⋯あなたがいてくれたから、私、自分の気持ちを見つけられたの」
「口説いてんのか?」
「違う!」
二人のやり取りに、シラノスが小さく笑う。
その笑みを見たヴェスパーが、肩を竦めて言った。
「ま、安心しろ。これからは遠くで吠える程度にしてやるよ」
「遠吠えってこと?」
「うるせぇ。⋯⋯お幸せにな」
それだけ言って、ヴェスパーは踵を返し、静かに闇へと消えていった。
残された二人。焚き火の火はまだ消えていない。
セラはそっと、シラノスの隣に腰を下ろした。
彼の肩に、自分の頭を預ける。
「⋯⋯好き、って言ったからには、逃げないよ。ちゃんと、向き合っていく」
「うん。⋯⋯オレも」
空を見上げれば、満天の星。
その光の下で、二人の影が寄り添っていた。




