恐怖と対話 8
風が吹き抜ける高地の斜面。
断崖の下は切り立った谷、霧が立ちこめ、底は見えない。
「くそ、ここまで足場が悪いとはな⋯⋯!」
ヴェスパーが牙を食いしばりながら、崖沿いの獣道をにらんだ。
風が強く、細い道のすぐ脇は奈落のように続く断崖だ。
「シラノス! セラが──!」
ハイネの叫びに、黒と銀の影が弾かれたように走る。
シラノスは羽を抑えながら、斜面に滑り落ちかけていたセラの元へ駆け寄った。
「っ、きゃ⋯⋯!」
セラの足元が崩れ、彼女の体が空中に投げ出される。
瞬間、風の音が途切れた気がした。
――ごうっ。
シラノスの背から、一対の大きな翼が音を立てて開いた。
「セラ⋯⋯!」
羽ばたきと共に宙を舞い、セラの腕を強く引き寄せる。
そして二人は、断崖のすぐ上でふわりと静止した。
「っ、う⋯⋯ぁ⋯⋯!」
セラは目をぎゅっと閉じ、腕を必死にシラノスの肩へ回していた。
自分が今、空にいるのだと気づいたのは、その温かい腕の中でだった。
「だ、大丈夫⋯⋯!?」
「うん、セラは無事だ。俺も⋯⋯ぎりぎり」
彼の声は息が少し乱れていたが、それでも安堵に満ちていた。
翼が地面に降り立ち、ふたりは安全な場所へと運ばれる。
シラノスの手は震えていた。だがその震えは、恐怖ではなく――彼女を救えたことへの安堵のものだった。
セラは、彼の胸元に顔を埋めていた。
(⋯⋯怖かった。けど、落ちなかった。助けてくれた⋯⋯この羽で)
鳥の羽音が怖いはずだった。
羽ばたく風の音は、過去の記憶を呼び覚まし、身体をすくませた。
けれど今は――
「⋯⋯怖く、なかった⋯⋯」
小さくつぶやいたその声に、シラノスはゆっくりと目を細めた。
「それなら⋯⋯よかった」
肩の力が抜け、彼の膝が崩れる。
彼女を傷つけまいと、限界まで力を使ったのだ。
「シラノス⋯⋯!」
セラはすぐに身を寄せ、彼の肩を支える。
その手は、もう震えていなかった。しっかりと、彼を支えたいと思った。
「俺の羽が⋯⋯怖くなかった?」
彼の問いに、セラは少し考えて、首を振った。
「怖くなかった。⋯⋯むしろ、安心した。包まれるみたいで⋯⋯あったかくて」
ふわりとシラノスが笑う。
その笑顔は、まるで長い夢の終わりを迎えたような穏やかさだった。
「そっか⋯⋯ありがとう、セラ」
彼は、その場に座り込んだまま、空を見上げた。
谷の上には、澄んだ青が広がっていた。
「俺、空が好きだった。けど、誰かと一緒に見るのは久しぶりだな⋯⋯」
その声に、セラの胸がきゅっと締めつけられる。
今までは、恐怖に縛られ、自分の心ばかり見つめていた。
でも彼はずっと、自分の羽根で、彼女を守っていたのだ。
(私も、守りたい。今度は私が⋯⋯)
「ねえ、シラノス」
セラは小さく、でもはっきりと呼びかけた。
「⋯⋯私も、あんたを守っていい?」
シラノスの目が、驚いたように大きく見開かれる。
けれどすぐに、優しい笑みに変わった。
「⋯⋯もちろん」
彼はそう言って、そっとセラの頭に手を乗せた。
その掌の温もりに、セラは静かに目を閉じた。
その後ろで、少し離れた岩陰からふたりの様子を見守っていたハイネが、にやりと笑った。
「ふーん。ようやく進んだね、あの二人」
「⋯⋯でも、まだ完全に終わっちゃいねえさ」
ヴェスパーがぼそりと呟き、牙をかすかに見せた。
「羽根の温もりに勝てるかどうか、俺の牙も試してやる」
ハイネは呆れたように肩をすくめた。
「ま、せいぜい“恋の谷底”には落ちないようにね」
二人の背後で、風が再び吹き抜ける。
その音は、かつてセラが恐れていた羽音と同じ――けれど、もう彼女の頬には、柔らかな笑みが浮かんでいた。




