恐怖と対話 7
霧が晴れるように、セラの胸の奥で何かがほどけ始めていた。
だがそれは、すぐに形を持つものではなかった。
シラノスの優しさ。
ヴェスパーの情熱。
記憶を取り戻した安心と、新たに芽生えた戸惑い。
どれもが交じり合って、心は静かに揺れていた。
ギルドの裏庭。
朝の光がレンガの壁を淡く染める中、セラはベンチに腰を下ろしていた。
空は晴れているのに、胸の中には薄く雲がかかっているようで──。
「⋯⋯顔に出てるよ、セラ」
声がした瞬間、隣にすとんと誰かが座った。
ハイネだった。
片手には甘い香りのするクッキー。もう片方の手で、自分の三つ編みをいじっている。
「⋯⋯出てた?」
「バレバレ。眉間、すっごいしわ寄ってるし」
ハイネはひょいとクッキーを差し出してきた。
ありがたく受け取り、セラはひと口かじる。
「うまく言葉にできないの。何が正しいのか、どうしたいのか⋯⋯わかんなくて」
「ふーん。恋って、そういうもんじゃない?」
さらりと返された言葉に、セラはむせそうになった。
「こ、こい⋯⋯っ!? ま、待って、わたし別に、そんな⋯⋯!」
「嘘。動揺してる顔が答え」
からかうように笑うハイネだったが、その瞳は真っ直ぐだった。
「いい? シラノスもヴェスパーも、あんたのこと本気だよ。たぶん、命賭けるくらいには」
「…⋯⋯そんな、重いよ⋯⋯」
「うん、重い。でも、それが彼らの“当たり前”なんだと思う」
その言葉に、セラは思わず沈黙する。
「⋯⋯ねえ、ハイネ。あたし、どっちか選ばなきゃいけないのかな」
問いかけは風に混じって、弱く揺れた。
けれどハイネは、迷いなく首を横に振った。
「選ばなきゃいけないって、誰が決めたの? 時間がかかってもいいし、逃げたっていい。
でも──」
ハイネはそこで言葉を切り、真剣な瞳でセラを見た。
「“ちゃんと見ること”だけは、やめちゃだめ」
「⋯⋯ちゃんと、見る?」
「うん。あんた、ちゃんとシラノス見てる?
あの人、自分のこと後回しにしてばっか。優しい顔して、傷だらけなんだよ」
セラの胸がチクリと痛んだ。
そうだ。彼はいつだって、自分の不安を先に受け止めてくれた。
笑ってくれて、気遣ってくれて、でも──自分自身のことは、何も語らなかった。
「わたし⋯⋯」
「ね、セラ。あんたさ──誰かに“守られること”ばっか考えてない?」
ハイネの声は、優しくも厳しかった。
まるで、頬を優しく打つ風のように。
「シラノスの隣にいるって、簡単じゃないと思う。たぶん、これから先もっとつらいこともある。
それでも一緒にいたいって思えたら、そのときこそ“恋”だよ」
セラはゆっくりと目を閉じた。
彼の翼の重み。羽音の温かさ。あの谷で、抱きしめられたときの心音。
怖くなかった。むしろ、安心していた。
(⋯⋯怖くない)
静かに、そう思えた。
涙がこぼれそうになったが、それをクッキーの甘さがやわらげてくれる。
「ありがと、ハイネ。少しだけ、見えた気がする⋯⋯わたしの気持ち」
「ふふ。じゃあまずは、目をそらさずに“見る”ことから始めなよ。
あいつ、目が合うとすっごく嬉しそうな顔するからさ」
笑いながら立ち上がったハイネが、背後から手を差し伸べてくれる。
セラはその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
空が、少しだけ晴れた気がした。




