恐怖と対話 4
谷に静寂が戻ったあとも、セラはその場から動けなかった。
風が頬を撫で、ほんの少し冷たさを含んだ空気が、熱くなった目元に心地よい。
(思い出した⋯⋯あの時、助けてくれたのは⋯⋯)
目の前の男。優しい声と、包み込むような羽の感触。
幼い自分が流した涙に触れたのも、この人だった。
「セラ、大丈夫か?」
そっと名前を呼ぶ声に、セラはゆっくり顔を上げた。
焦げ茶の瞳が、まっすぐに自分を見ている。嘘も、言い訳もなく。すべてを受け止めるように。
その瞬間、心の奥がじんわりと熱くなった。
「⋯⋯あなたが⋯⋯あのとき⋯⋯」
言葉に詰まりそうになる。
それでも——
「あなたが助けてくれたのね⋯⋯!」
セラは、抑えきれなかった。
感情が溢れ、理屈も立場も関係なく、ただ本能のままに動いた。
次の瞬間、彼の胸に飛び込んでいた。
「⋯⋯っ」
シラノスは驚いたように少し肩を揺らしたが、それでもすぐに両腕と羽で彼女をしっかりと包み込む。
その腕の中は、あの日と同じだった。
怖くて、痛くて、誰にも頼れなかったあのとき。
唯一、自分の存在を守ってくれた温かさ。
「⋯⋯怖かった。ずっと、怖かったんです」
震える声で、セラは呟く。
「誰が助けてくれたのかも思い出せなくて、逃げてばかりで⋯⋯でも⋯⋯」
涙が、ぽたりとシラノスの黒い服に落ちた。
「でも⋯⋯あなたの羽は⋯⋯あのときと同じだった。だから、わかったんです⋯⋯」
シラノスは何も言わず、彼女の背を優しく撫でた。
それだけで十分だった。
少しして、セラが顔を上げた。
涙の痕を残したまま、まっすぐにシラノスの目を見る。
「⋯⋯あなたは、ずっと私のこと、覚えてたんですね?」
シラノスは、ゆっくりとうなずいた。
「うん。最初に見たときから、たぶんそうじゃないかって思ってた。でも⋯⋯怖がらせたくなくて、言えなかった」
「じゃあ、あのとき⋯傷を見たときも⋯⋯」
「⋯⋯ああ。間違いないって、確信した」
セラは小さく息を呑んだ。
(じゃあ、ずっと⋯⋯)
気づかれないように、優しく距離を取ってくれていたのだ。
彼女の過去も、傷も、記憶の欠片も——
全部わかっていて、けして無理強いせずに、見守っていた。
「どうして⋯⋯黙ってたんですか?」
セラの問いに、シラノスは少しだけ目を伏せる。
「君が“俺じゃなかったらよかったのに”って思うかもしれなかったから」
その声には、わずかな苦笑が混じっていた。
「でも、今なら⋯⋯言ってもいい気がした。思い出した君が、俺の前にいて、ちゃんと立ってるから」
セラは驚いたように目を瞬かせ、そして少し頬を染めながら、ふっと笑った。
「⋯⋯そんなこと、思いません」
そして、小さく、けれどはっきりと囁いた。
「ありがとう、シラノス。助けてくれて⋯⋯そして、忘れないでいてくれて」
彼は答えの代わりに、また一度だけ彼女の髪を優しく撫でた。
その指先はとても丁寧で、まるでセラの心の傷ごと、優しく包み込むようだった。
やがて、後ろから草を踏む音がした。
振り返ると、ハイネとヴェスパーが少し離れた場所で立っていた。
「ようやくか。長かったな、こっちとしても」
ヴェスパーが口元を歪めて笑うが、その声に刺々しさはなかった。
ハイネはくすっと笑って、「今の、ギルドの誰かに聞かせたかったわね」と冗談めかす。
それでも、セラは胸を張って答えた。
「でも、ようやく言えました」
「なんて?」
「——ありがとうって」
小さな声だったけれど、谷に吹く風がそれをさらい、空の高みに舞い上げていく。
あの日の記憶と、今の自分を繋ぐ言葉。
赦しと、再会の証。
セラの目には、もうかつての怯えはなかった。
ただ、信じた人の背を見つめる強さだけが残っていた。




