恐怖と対話 3
鳥の羽音が、空を満たしていた。
それは怒りでも、威嚇でもなく——ただ、命の存在を伝える音だった。
「セラ、下がって!」
シラノスの声が届くより先に、風が巻いた。
咆哮の谷。鋭い岩肌が並ぶ谷底に、空から舞い降りるのは鋭爪の猛禽。毒を帯びた灰色の羽根を広げた《グレイホーク》が唸り、鋭く啼く。
その鳴き声が——羽音が——心を引き裂く。
「う⋯⋯あ、あぁ⋯⋯っ」
セラは耳を塞ごうとしたが、動けなかった。脳の奥に焼き付いた「何か」が、眼前の現実と結びつき、呼吸を奪ってゆく。
視界が霞む。耳鳴りが広がる。意識が落ちかけたその時。
「セラ!」
その声だけが、底から引き上げた。
目の前にいた。銀黒の髪、広げた羽、まるで盾のように自分を守る存在。
「大丈夫、オレがいる。⋯⋯ちゃんと見て、セラ」
その声は、昔も聞いたことがあった気がした。
——あの時も、この声だった。
記憶の扉が、軋んで開く。
広場。騒めき。檻の中から現れた、凶暴な鳥の魔物。
小さな自分。腕に鋭い痛み。あれは——あの魔物が突っ込んできた瞬間。
逃げられなかった。
足がすくんで、声も出なくて。迫る嘴と、翼の影に包まれて、ただ泣き叫んで。
でも——
「大丈夫、もう大丈夫」
その声が聞こえた。
空から舞い降りる影。背中に感じた柔らかい羽毛の感触。
——君を、守るよ。
黄色と灰の混じった、優しい目が、そこにあった。
「⋯⋯思い、出した⋯⋯」
セラは震える声で呟いた。視線の先にいるのは、あの日と同じ人。あの少年が、大人になった姿。
「⋯⋯あなたが、助けてくれた⋯⋯」
その言葉に、シラノスがゆっくり目を細める。
「——ああ、やっと思い出したんだね」
その瞬間、セラの中で何かが静かに、解けていくのを感じた。
あの恐怖と、あの傷と。
逃げ続けた過去の中に、確かに「誰かに守られた」記憶があった。
「⋯⋯シラノス⋯⋯」
彼の名前を呼ぶ声に、涙が混じっていた。
自分でも気づかないうちに、肩が震えていた。
そのすべてを包み込むように、彼の羽が、そっと背中を覆う。
「泣いていいよ。⋯⋯怖かったんだよな」
優しい声音が、心に染み込んだ。
そしてセラは初めて、自分の中にあった「恐怖」だけでなく、「救われた温かさ」もずっと心に残っていたのだと、気づく。
(——私は、怖いだけじゃなかった)
空を見上げるたび、泣いていた自分。
でも今、目の前にいる彼の翼の中で、ようやく空が「怖くない場所」になっていく気がした。
上空では、ヴェスパーが戦闘を制していた。獣の残骸が風に流れ、やがて谷には静寂が戻る。
「おーい、こっちは片付いたぞー」
ハイネの明るい声が谷に響いたが、二人はすぐに返事を返せなかった。
「⋯⋯シラノス」
小さく名前を呼ぶと、彼は「ん?」と首を傾げた。
セラは目を伏せたまま、囁くように言った。
「⋯⋯ありがとう」
シラノスは、いつものように微笑んで答えた。
「また一緒に、空を見上げよう。今度は——笑って、な」
その言葉が、空に優しく囀るように響いた。
それはもう、ただの記憶ではなかった。今ここにある、確かな“想い”だった。




