鋼薔薇の猟犬 1
ギルド掲示板に黒薔薇の印が貼られた瞬間、セラは素早く物陰へと退避した。
朝の食堂に流れていたのどかな雰囲気が、一瞬にして緊張に染まる。
「うわ、鳥任務来た!」という叫びと共に、受付嬢リファが資料を掲げながら足早に現れた。
「黒薔薇任務発生ニャ! 該当者は速やかに受付まで来るニャ!」
――やばい。見つかる。
セラは椅子の影に素早く滑り込んだ。
背中を丸め、椅子と壁の間に上手く体を収める。
このギルドに入ってから、鳥任務から逃げるルートは完璧に体に染みついていた。
「セラ。息してる?」
ひそひそと声をかけてきたのは、親友のハイネだった。
水色の瞳が心配そうに覗き込む。
「⋯今、全力で空気になってるところ⋯⋯」
「うん、酸欠の空気だね」
冷静なツッコミをよそに、セラは無音で匍匐前進を続ける。
あと数メートルで裏口。そこまで逃げきれれば⋯⋯!
――ガチャン。
突然、目の前に金属音が落ちた。鉄のマグカップ。
見上げると、そこには“犬の大将”こと、ギルドマスター・バルドが仁王立ちしていた。
「逃げんじゃねぇぞ、ガキ」
まるで審判のような声だった。
バルドの手には、犬の落書き入り任務報告書。
灰色の髪をかきむしりながら、彼は舌打ちをひとつ。
「めんどくせぇ⋯⋯お前、また鳥任務から逃げてたな」
「い、いや! あの、私はですね、あの、鳥に恐怖を感じてですね!」
「知ってる。けどな⋯⋯人生、山あり谷ありだ。今ここで山、登れ」
ドスンと、セラの肩に報告書が落とされる。
「特例発動。今日からお前は“バディ任務”だ」
「⋯⋯バディ!?」
「相棒も、もう決まってる。あっちだ」
バルドが顎で示した先、掲示板の前に立つ長身の男がいた。
その男は、まるで彫像のような佇まいだった。
銀と黒の混じるウルフカット、精悍な顔立ち。
背中には──大きな羽があった。艶のある羽毛は黒と茶、銀を織り交ぜたような深い色。
戦装束の上からは上着を羽織っているが、肩のラインから羽根が一部覗いており、動くたびにふわりと揺れていた。
セラの心臓が、バクンと音を立てる。
(鳥⋯⋯)
その気配、その存在感、その羽音。
反射的に、冷や汗が背中を伝った。
「紹介しとく。今日からお前の相棒、シラノスだ」
彼が、ゆっくりと振り返る。
灰と黄が溶け合った瞳が、まっすぐセラを見つめた。
「⋯⋯君が、セラだね?」
微笑みは穏やかだった。
けれど、セラの視界は羽根の揺れで霞んでいた。
「オレはシラノス。ハーピー族で、元傭兵だった」
「は、はあ⋯⋯はーぴ⋯⋯えっ!? ハーピー!?!?!?」
慌てて一歩、二歩と後退るセラ。
「でも、安心して。今はもう“死神”なんて呼ばれてないし⋯⋯そういう仕事は、卒業したんだ」
シラノスはやや申し訳なさそうに言ったあと、羽を少しだけすぼめた。
だが、消えるわけではない。
セラは“死神”など物騒な言葉を聞き逃すほどそれどころではなかった。
「⋯⋯羽⋯⋯」
セラの口から漏れたかすれ声に、シラノスの表情がほんの少しだけ揺れた。
「⋯⋯ごめんね。怖がらせた。羽を隠すの、苦手で⋯⋯でも、必要なら頑張ってみるよ」
その一言に、なぜか胸がちくりと痛む。
羽のせいで怖いのに。逃げたいのに。
なのに、この人の声だけは──優しく、どこか懐かしく聞こえる気がした。
「シラノス。こいつの鳥恐怖症、知ってるな?」
バルドの言葉に、シラノスは頷いた。
「ええ。だから、無理はさせません。 でも⋯⋯オレが、ちゃんと隣にいますから」
その言葉に、セラはまた一歩引いた。胸がざわつく。
「⋯⋯や、やめて。そういうの、重い」
震える声で言い放ったつもりだったのに――
「じゃあ、もっと軽いやつを今度持ってきますね」
くすっと笑って返された。
この人、何なんだろう。
鳥なのに、全部が怖いわけじゃない。
むしろ、どこかで会ったことがあるような⋯⋯
その違和感こそが、すべての“始まり”だった。




