恐怖と対話 2
断崖の間を吹き抜ける風が、甲高く唸っていた。岩壁に沿って咲く赤い草花が、何かの前兆のように揺れている。
“咆哮の谷”──鳥系魔物の生息地として知られる、危険指定地域。かつて一つの傭兵団が全滅したという噂もあるこの谷に、セラたちは足を踏み入れていた。
「やっぱり⋯⋯いやな場所ね」
ハイネが口元を引き結びながら、岩陰に身を寄せた。背後ではヴェスパーが腕を組み、谷底をじっと見下ろしている。
「気配が濃いな⋯⋯三体、いや四体以上いる」
「情報通り、飛行種の巣があるはず。中央に⋯⋯あれ、骨の塔よ」
セラは任務前にハイネから渡された地図を見ながら、息を整えようとした。
羽ばたきの音がしただけで、手のひらにじんわりと冷や汗が浮かぶ。
「大丈夫、セラ?」
静かに近づいてきたのは、シラノスだった。
黒と銀の戦装束をまとい、背中にはまだ羽を展開していない。それでも彼が近づくだけで、どこか空気が柔らかくなる気がした。
「⋯⋯うん、大丈夫。⋯⋯だと思う」
「怖いのは、当然だよ。ここは“恐怖を喰らう”って呼ばれてる谷だから」
冗談めかしたシラノスの声に、セラは苦笑いを浮かべる。
そのとき、谷の奥から甲高い咆哮が轟いた。
「来るよ!」
ヴェスパーが即座に剣を抜き、ハイネが爆符を準備する。
岩壁の影から現れたのは、全身を灰色の羽毛で覆った大型の猛禽──グレイホーク。鋭利な嘴と爪、そして毒を持つ羽根が特徴の飛行魔物だ。
「三体確認! ⋯⋯いや、増えた! 四体!」
ハイネの叫びを合図に、戦闘が始まった。
ヴェスパーは風を切るように前線へと躍り出る。鋭い爪を剣で弾き、ハイネの投げた閃光符が敵の視界を奪う。
「シラノス、セラを!」
ヴェスパーの叫びに、シラノスは即座にセラの手を引いた。
「こっちだ。安全な場所まで⋯⋯」
だが、谷の中央に差し掛かった瞬間、グレイホークの羽音がすぐ真上から降ってきた。
――バサッ!
その音が、セラの足を止めた。
「あっ⋯⋯」
背筋を裂くような感覚。記憶が一瞬で巻き戻る。
肉を裂く爪。風を切る羽音。逃げ場のないあの広場――
「せ⋯ら?」
シラノスが振り返った瞬間、セラの瞳が虚空を見つめたまま、ぐらりと傾いた。
「やめて⋯⋯こないで⋯⋯」
呼吸が荒くなる。視界が白く滲む。全身が硬直し、動かない。
「セラ⋯⋯!」
迷うことなく、シラノスは彼女の前に立ち、背を向けると――広げた。
黒と銀、そして茶が混ざる彼の大きな羽が、音もなく広がり、セラの体をそっと包み込む。
その瞬間、全ての音が遠のいた。
風も、魔物の鳴き声も、過去の記憶も――何も届かない。
ただ、あたたかかった。
「俺を⋯⋯信じろ、セラ」
低く、静かな声だった。無理に優しさを装っていない。けれど確かに、彼のすべてがそこにあった。
(この羽は⋯⋯怖くない)
セラの唇が、かすかに震える。
(あの時も、このぬくもりだった⋯⋯)
彼の背の奥で、何かが崩れていく音がした。恐怖の鎧が、ひとつひとつ、羽のなかで剥がれていく。
やがて、セラは彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「⋯⋯信じる。⋯⋯だから、そばにいて」
「もちろん。何があっても、君の隣にいるよ」
言葉と共に、羽の隙間から光が差した。
谷の咆哮に対して、彼の羽音はとても静かだった。けれど、その静けさが、何よりも強かった。
彼女の心に、もう一つ、小さな灯りがともった。




