揺れる想いと足跡 9
月明かりが、石造りの回廊を淡く照らしていた。
ギルドの裏庭に面したベンチに、セラはそっと腰を下ろす。
訓練のあと、少しだけ一人になりたくて、けれど“完全な孤独”にはなりたくなくて。
気づけば、ここにいた。
「⋯⋯静かだな」
その声は、闇の中から届いた。
振り返れば、そこにいたのはシラノス。
黒と銀の羽をゆるやかにたたみ、いつものように静かに歩み寄ってくる。
「⋯⋯ごめん、驚かせた?」
「いえ⋯⋯来てくれると思ってました」
自分で言って、少し驚いた。
あんなに恐れていた“羽音”も、今はただの“風の音”にしか聞こえない。
シラノスは隣に座ると、しばらく空を見上げていた。
「セラ。ひとつ、聞いてもいい?」
「⋯⋯うん」
彼の声が、わずかに低くなる。
「夢の中で⋯⋯誰かの“声”を聞いたことはある?」
セラは、はっと息をのんだ。
その声は、確かに知っている。
あの夜、倒れたときに聞いた、あたたかな囁き。
「⋯⋯“大丈夫だ”とか⋯⋯“生きてるから”って、そう言ってくれた声、ですか⋯⋯?」
その瞬間、シラノスの表情がゆるやかにほぐれた。
「それ、たぶん⋯⋯オレの声だ」
セラは、息を止めた。
「十年前。第五区の広場で、暴れた魔物から一人の少女を助けた。 腕にひどい傷を負っていた。その子に、応急処置をして⋯⋯それからずっと、忘れられなかった」
声が、静かに胸に染みこんでいく。
「オレが、あの時の少年です。
君を助けたのは、オレだよ」
言葉の意味は、すぐに理解できなかった。
でも、胸の奥のどこかが、確かに震えた。
「でも⋯⋯どうして、今まで⋯⋯?」
「君が、幸せでいるなら、それでいいと思ってた。
無理に思い出す必要も、言葉にする必要も、ないって⋯⋯」
彼の瞳は、真っ直ぐだった。
けれど、その奥には、深い“迷い”があるようにも見えた。
「でも⋯⋯あの時、君が泣いていた顔が、ずっと脳裏に焼き付いて離れなくて⋯⋯
そしてこのギルドで再会したとき、すぐにわかったよ。あの日の少女だって」
セラの喉が、つまったように苦しくなった。
夢で見た景色。
腕に走った激痛。
空を覆った影と──誰かの温かい手。
記憶の破片が、静かに繋がっていく。
「⋯⋯シラノスさん⋯⋯」
「“さん”じゃなくていい。⋯⋯オレはずっと、君の名前を呼びたかった」
その言葉に、胸の奥が締めつけられた。
風が、夜の空を通り抜ける。
セラは目を伏せながら、そっと自分の左腕に触れた。
そこに残る爪痕──忘れたいはずだった“過去”の印。
だけど今、それは“誰かが自分を救ってくれた証”でもある。
(怖い。でも⋯⋯)
「少しだけ、思い出した気がします」
声はかすれていたけれど、それでも届いた。
「⋯⋯そっか。ゆっくりでいいんだよ、セラ」
シラノスがそう言って、ほんの少しだけ肩が触れる距離に座り直した。
その夜、セラの胸の中に――
“恐怖”だけではない、“何かあたたかいもの”が、確かに灯り始めていた。




