「オーラが見える」と言い張る人々のそれは、果たしてすべて虚言なのか?
その昔、『オーラの泉』という番組があった。
美輪明宏と江原某による、ゲストのオーラを鑑定するという番組で、見てはいなかったが、その存在は認知していた。
普通に考えれば、胡散臭い。
事前にゲストの情報を入手し、それっぽいことを言っているだけ。そんな印象で、当時の私は見ていなかったのだが、「そういった主張をする人間」が、いつの時代にも一定数以上存在するのは「いったいどういう仕組みなのか?」が気になり、調べてみた(ひまつぶし)。
◇
オーラが見えるという人々の脳波検査。
人物を見る時、実際に色処理領域(V4野)が活性化しているという報告があった。ただし、これは幻視や想像と似た神経パターンだともいう。
もちろん、実際に「色」として、人間の目が、他者のオーラを知覚しているわけではない。「共感覚」に似た感覚が、オーラが見えると主張している人々にはあるのかもしれない。
ここで気になってくるのが「一致率」だ。
同一人物を対象とし、「見える人々」が果たして「同じ色」を主張するのかどうか。
2012年前後にグラナダ大学(=スペイン)で行われた実験では、色の一致率は「偶然レベルと同様」=近似色で一致したケースは2割未満と報告されている(大規模実験ではないので、あくまでも参考値ではあるが)。
世間一般の人間でも、冷たそうなひとなら寒色、フレンドリーなひとなら暖色をイメージするだろう。もともと人間が持つ「色に対するイメージ」があるのだから、人物にそれを当てはめるのなら、それに準拠する。なので「見える人々」とさほど大した差が生まれないのも、当然といえば、当然である。
◇
さて、これらのことから、筆者が何らかの仮説を立てるとすれば、どのような説が思い浮かぶだろうか?
「見える」と主張している人々は、実際に脳内の色処理領域(V4野)が活性化しているのだから、ここに難癖をつけるのは、ナンセンス。なので、なぜ「見えた気になるのか」となるわけだが、やはりそれは「脳の誤作動」と考えるのが、順当か。
活性化といえば、聞こえがいいが、実際には、さまざまな弊害がある。人間の脳は、ドーパミンが過剰に分泌されると興奮状態に陥り、遮断されると鬱になる。鬱は困るが、興奮状態では、まともな判断も出来ない。
統合失調症患者の多くも、このドーパミンの過剰分泌(側坐核・線条体の過剰活性)が指摘されている。ドーパミンは報酬系とも呼ばれ、羨ましくも感じるかもしれないが、問題は、それらの情動を制御する前頭前野では、逆にドーパミンが不均衡(主に不足)状態に陥っているともいう。
「制御を失った興奮」が、幻聴や幻視を生む。
「見える」という状態は、ある意味で「色覚失調症」という判断もできるのではないだろうか?(イメージの色覚侵食)
◇
実のところ、統合失調症は、悪いことばかりではない。興奮は、情熱ともなりうるので、冷めた筆者からすれば、やはり羨ましい部分もあるといえる(実際に発症した場合、それどころではないのだろうが)。
事実、歴史上の様々な偉人も、診断が下されていないだけで、統合失調症を疑われていたり、親族にそういったひとを多く出し、因子保有者であったのではないか、というのは、よく聞く話。
特にアートのような「他者の感情を揺さぶってなんぼ」の分野においては、あのひとも、このひとも。むしろ「正気で何を揺さぶれるんだ?」てのが、実際のところなのかもしれない。
◇
(本文追記)仮説でいえば、実は全員ちゃんと「同じ色」が見えている説もいける。ただし、個々人が持つ「レンズフィルター」が、その色を偏光させ、誤認し、バラバラになっているという仮説である。ファンタジーとしてなら、こちらが正解か。
みんなが正気の世界では、その水はむしろ濁る。
そういった社会を攪拌する役割として、一定数はそういったひとが生まれてくるように、人類はプログラムされているのかもしれない。
追記)某言語生成AIに読ませてみたら「パレイドリア」や「確証バイアス」についても触れた方がいいよ、と指摘された。ごもっともです。