ひとりの春(2)
退院してからしばらく経った4月上旬。今日は電車に揺られて公園を訪れていた。桜木公園という名の通り、ここには桜の木が多く生えている。普通なら、花見スポットとして有名になっていてもおかしくないくらいだ。だが、近くにもっと大きな公園があるせいで、こっちの公園に来る人は少ない。広報誌やSNSでも取り上げられるのも、もっぱら大きい公園の方だ。俺はその大きい方に行ったことがないから、そこの桜がどのくらい綺麗なのかを知らないが、俺の中ではこの桜木公園の桜が一番のお気に入りである。そのため、毎年この公園で花見をすると決めていた。 以前は家族で来ることもあったが、最近は必ず一人で来ている。今日もそうだ。正晴はバイト、両親は仕事があって一緒に来ることができない。それに、俺はこの風景を見ていると情緒が不安定になりがちなので、あまり一緒に来たくなかった。
桜の木が見えやすいところにレジャーシートを敷いて、その上にゆったり座る。周りを見れば、俺以外にも花見をしている人がいた。いくら認知度の低い公園とはいえ、桜が満開になる頃だ。そこそこ人は集まっている。花見をしている人達は、嬉しそうだったり、悲しそうだったり、はしゃいでいたり、さまざまな反応を示していたが、きっとその誰もが桜を綺麗だと思っている気がした。
周りの人達から視線を外して、俺も桜を見上げる。薄桃がかった白い花びら、力強い太い幹、しなやかに伸びる枝。俺の少ないボキャブラリーをどれだけ集めたって表せないほど美しい。一千年も昔の人々も桜を愛でたという。当然だ、これだけ美しいのだから。つい大きくため息をついてしまった。恐れか、感動か、全く別の感情か、よく分からないものが俺の心を満たしている。今、この瞬間ここで見ているからこその美しさが、その桜にはあった。写真で残そうが、頭にインプットしようが、今味わっているこの不思議な感情は今以外には得られない。これほどの美しさも、やはりリアルでないと感じられない。
俺はもはや、桜から目が離せなくなっていた。この美しさを逃がすまいと頭が働いているのだ。ふいに涙が頬を流れた。自分でも涙が出てきそうだと気づいていなかった。悲しいのではない。悔しいのでも、辛いのでもない。だからといって嬉しいのでもない。なんで泣いているのかなんて、自分でも分からない。きっとどんな感情も一定のラインを超えると、本人の意思とは別に表に出てきてしまうのだろう。それが今は涙だったという話だ。自覚した後も、涙は拭わなかった。もし仮に、親や正晴や知り合いがいたら拭っていたかもしれない。見られまいとしたかもしれない。だが、今はひとりだ。そんな必要はなかった。嗚咽するでも、しゃくり上げるでもなく、ただただ流れ続ける涙。そこには俺の全てが含まれている気がした。不安も、恐怖も、弱さも、全て。
やがて、涙は自然と収まっていった。顎のあたりに残った滴だけは、手のひらで雑に拭う。果たして俺は、来年の春もこの景色をを見ることができるのだろうか。ふと、そう不安になる。今のところ眠ってしまうのは冬だけだが、もしかしたら冬以外にも眠るようになってしまうかもしれない。春になっても目覚めないかもしれない。俺の体質は治る見込みがないだけでなく、悪化する可能性を秘めている。だから怖い。
俺はそんな考えを振り払うように、自分の頬を軽く叩いた。これからまた新しい生活を始めなくてはならないのだ。ずっとネガティブではいられない。改めて、空に向かって咲く桜を仰ぐ。小さい花なのに、堂々と自分の生を誇っているように見える。その姿はやはり美しい。俺は一時間ほど花見を続け、その公園を後にした。涙を流したせいだろうか。公園を出る頃には、心と頭が若干すっきりしていた。
それから春の間、俺はバイトをしたり、どこかへふらっと出掛けたり、正晴と遊んだりした。バイトは、叔母さんの営んでいる喫茶店でやっている。去年から始めたバイトなのだが、人見知り気味な俺には初めは結構大変だった。今年は二回目ということもあってか、戸惑ったりせずに動けていると思う。正晴と約束したスイーツ専門店には無事に行くことができ、思う存分苺スイーツを堪能した。彼とは他にも遊園地に行ったりして、一緒に遊んだ。もちろん、のぞみの見舞いにも頻繁に行った。バイトは週4だし、他にも空いている日には単発の仕事をしたりしているが、それでも暇な時間は結構ある。退院の前日に言っていた通り、いつ行っても歓迎してくれた。
のぞみの見舞いをするようになったことを除けば、今までと変わらない春。しかし、のぞみと出会ったことはとても大きい気がしている。他愛のない話をしているだけだが、楽しいと思うことが増えて、ほんの少しだけ前向きになってきた感じがするのだ。それはのぞみも同じようで、初めて会ったときより目の輝きが増したように見える。 少しずつではあるが、きっと俺たちは互いに影響しあっていた。
そして、季節は飛ぶように過ぎ、俺たちは夏を迎える。