誰にも危害は加えられないストーカー
改札を出て見上げれば、夜空は灰色の雲に覆われていた。月も星も完全に隠れている。
これでは、路地裏の細道などは真っ暗ではないだろうか。幸い、駅前の大通りには街灯が立ち並んでいるので、しばらくは大丈夫だが……。
そんな街灯の白い光に照らされて、電柱の一本に隠れるような、ぼんやりとした人影が視界に入る。
すらりと痩身の男だった。黒いハンチング帽を目深に被り、茶色のトレンチコートも襟を立てている。
よく顔は見えないが、私の方を見ているのは間違いなかった。その証拠に、彼と一瞬、目が合ってしまう。
私は慌てて目を逸らして、家の方へと歩き始めた。
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コツコツコツ……みたいな足音が聞こえたわけではない。
それでも何となく気配を感じて、何度か後ろを振り返ると、その度に同じ姿が見えた。
あのトレンチコートの男だ。あいつが、私の跡をつけてきているのだ。
私のような若い女性を付け回すなんて、あの男、もしかするとストーカーではないだろうか?
そのまま数百メートルくらい歩き続けて……。
右手に見えてきたのは、小さな白い建物。交番だった。
そこにあるのは今までも知っていたけれど、自分には無縁だと思って、あまり意識していなかった。でも今この瞬間、その存在がどれほど心強いことか!
藁にもすがる思いで、私は慌てて駆け込んだ。
「助けてください! 不審な男に、追い回されています! きっとストーカーです!」
受付カウンターには誰もいない。一見すると無人だったが、カウンター越しに覗き込めば、奥の部屋に誰かいるのがわかった。
「無視しないでください! ストーカーです! お願い……」
奥にいる警官は、表に出てきてくれない。
しかし、この時。
「どうしました? 何かお困りですか?」
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背後からの声に振り返れば、いつのまにか私の後ろに、制服警官の二人組が立っていた。
四角ばった顔つきで体格も良い若者と、細身の中年男のコンビだ。私に声をかけてきたのは、若い男の方だった。
見るからに頼りになりそうな彼に、私は頼み込む。
「助けてください! ストーカーに追いかけられています!」
叫びながら、私は指差していた。少し離れた電柱に隠れるようにして、あのトレンチコートの男が、こちらをジーッと眺めているのだ。
「何っ、ストーカー? それは大変だ!」
若い警官は、腰から警棒らしきものを引き抜くと、それを振りかざしながら電柱の方へ向かっていく。
問答無用でそんな対応をするのは、さすがに少し乱暴なのでは……。
私が呆気にとられていると、相方である中年警官も、諫めるような声を上げていた。
「ああ、渋島くん。あんまり手荒な真似は……」
続いて中年警官は、苦笑いを浮かべたまま、こちらを向く。
「彼は立派な若手警官だったけど、ちょっと血の気が多過ぎるのが玉に瑕でねえ」
「あの……。止めなくていいんですか?」
「大丈夫ですよ。渋島くんも、権田原さんも……。ああ、権田原さんというのは、あのストーカーさんですけどね。どちらも他人に危害を加えるような真似は出来ませんからね」
警官が「ストーカーさん」と呼ぶのであれば……。
「あの男、やっぱりストーカーなんですか? 今までも被害にあった女性が……?」
「いや被害というほどでも……。あなた、権田原さんと目が合ったのでしょう? それで権田原さん、自分を見える人だ、って嬉しくて憑いてきちゃったんですね」
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「えっ……? 今『付いてきた』じゃなく『憑いてきた』って……」
「そうです。権田原さん、もう死んでるんですよ。いわゆる幽霊ってやつですね」
衝撃発言を耳にしながら、私の目に映っていたのは、若手警官が警棒で殴りかかる様子。
ストーカー男の頭に当たる距離だったのに、警棒はスカッと素通りしていた。
「ほら、言ったでしょう? 危害は加えられない、って。ついでに言うと、権田原さんだけでなく渋島くんの方も幽霊ですよ」
「ええっ!?」
「ハハハ……。そんなに驚かないでくださいよ。彼ら二人に加えて……」
中年警官は朗らかに笑いながら、とんでもない爆弾発言を口にする。
「……あなた自身も幽霊なんだから」
もう絶句するしかなかった。
「そんなわけないでしょう!?」と叫びたいのに、その言葉が出てこない。
同時に、心の中で、自分の過去を振り返ってみるが……。
何も思い出せなかった。幼少期の記憶どころか、昨日の出来事すら浮かんでこないのだ。
つい先ほど、駅の改札を出たところから。それ以降の記憶しかなかった。
混乱する私を落ち着かせよう、という意図だろうか。
中年警官は、平然と語り続けていた。
「この街って、何故か、成仏できずに彷徨ってる幽霊が多くてねえ。そうなると、幽霊同士のトラブルも……。だから私も、こうして現世に留まって、パトロールしてるわけです。むしろ死んでからの方が、真面目に警官やってるくらいですな」
(「誰にも危害は加えられないストーカー」完)