【二章】いざ!
肌をなぞる潮風に、アビゲイルは鼻をすんっと鳴らす。
嗅いだことのない香りというのは、なんだかとても興味深かった。
頭に被る帽子を飛ばさないように抑えつつも、アビゲイルは揺れる船の上からひょっこりと顔を出し、海を見つめる。
――フェンツェルへの旅行。
自国を出たこともないアビゲイルにとって、生まれて初めての体験だかりだった。
まずは船。
こんなに大きく積載量もあるだろうものが、どうして海に沈まないのか不思議だ。
そしてなにより海。
あまりにも気になり指先で触れてみれば冷たくて、さっと手を引っ込めた。
ただ好奇心が勝り少しだけ舐めてみるとしょっぱくて、アビゲイルが顔を顰めている間にララによって手が拭かれていた。
そんなこんなで船に乗りやってきたのは隣国、フェンツェル。
隣国とは言っても土地自体は離れているため、移動手段は船しかない。
生まれて初めて船に乗ったけれど、特に船酔いすることなくアビゲイルには楽しい航海だった。
かわいそうなのはリリだ。
アビゲイル付きとして共にやってきた彼女だったが、船から降りるその時まで部屋に篭りっきりだった。
フェンツェルについてもそれは変わらず、ララと共に先に宿に向かわせたほどだ。
そんなわけでアビゲイル、グレイアム、エイベルの三人で少しだけフェンツェルを見て回ることになった。
アビゲイルは帽子から垂れる黒いヴェール越しに、自分が乗ってきた大きな船を見上げる。
「アビゲイル。疲れてないか?」
「ええ。大丈夫よ」
後ろから声がかけられて振り返れば、そこにはグレイアムがいた。
彼の後ろには荷物を馬車に乗せているエイべルもいて、知らぬ土地なのに見知った顔ばかりで安心する。
「すごいわね。私本当に……あの国を出たのね」
「……世界は広い。君が見たいというのなら、俺がどこまでも連れていく」
「…………ありがとう」
確かに、グレイアムと二人で世界旅行なんていうのもいいかもしれない。
きっと自分が抱えている悩みなんて、小さなものだと思うのだろう。
楽しそうだ、なんて笑っていると、そんなアビゲイルを見てグレイアムが眉を寄せた。
「本当によかったのか? その……」
「これ?」
グレイアムが気にしているのはこれだろうと、アビゲイルはひょいと目の前にある黒いヴェールを摘む。
顔を隠すように垂れているそれは、アビゲイルが望んでつけたものである。
「この国でも赤は目立つんでしょう? なら隠したほうが動きやすいじゃない」
「……だが、せっかくその瞳がいかに綺麗なのかわかる機会なのに…………」
グレイアムはアビゲイルの赤に対する認識を変えたいようだ。
彼の気持ちはありがたいと思いつつも、アビゲイルはくるりと周りを見渡す。
「わかってるわ。あなたの言いたいことは。でも大丈夫よ」
右を見ても左を見ても、その瞳は赤いままだった。
ここは本当にエレンディーレではないのだと、よくわかる景色だ。
「――だってここには、こんなにたくさんの【赤】があるんだから……!」
道ゆく女性は赤いリボンを髪につけ、その隣にいる紳士は赤いネクタイを纏う。
露店の花屋には赤い花が咲き誇り、装飾品店には赤い宝石が目立つ。
ここでは赤は、普通の色なのだ。
エレンディーレでは絶対に見ることのない光景に、アビゲイルは口角が上がるのを止めることができないでいた。
――これが、グレイアムが見せたかった光景。
心がすっと軽くなるような気分に、アビゲイルは深く息を吐き出した。
「……私この光景、一生忘れないわ」
「……君にとってこの旅がプラスになったのなら嬉しい」
「プラス以上よ。……今ならなんでもできそうな気分」
潮風を浴びつつ背伸びをするアビゲイル。
そんな彼女を見て優しく微笑んだグレイアムの背後から、不意に声がかけられた。
「君がそんな顔をするなんて。やはり恋は人を変えるんだねぇ」
涼しげな声色にアビゲイルが視線を向ければ、そこには長身の男性がいた。
薄茶色の長い髪を一つに結い帽子を被った紳士は、グレイアムへと近づくと脱帽する。
緑色の美しい瞳を持った美丈夫は、パチリとウインクをしてきた。
「やあ、グレイアム。君に会えて嬉しいよ」
「シリルか。今回のこと、面倒をかけたな」
グレイアムと握手をする男性。
彼を見てアビゲイルはすぐに彼が誰だかわかった。
フェンツェル王国侯爵、シリル・ウィンベル。
グレイアムの友人であり、この国でのアビゲイルたちの身元保証人だ。
彼がいたおかげで、エレンディーレと関係悪化しているフェンツェルにくることができたのだ。
「エイベルも久しぶりですね。お元気そうでなによりです」
「お気遣いありがとうございます。シリル様もお元気そうで」
エイベルとも知り合いらしい彼は、気さくに握手を交わす。
そしてその後、流れるようにアビゲイルへも手を差し出してきた。
「そしてこちらが噂のグレイアムの婚約者殿ですね」
「――アビゲイルです」
「はじめまして。シリル・ウィンベルです。お見知りおきを。麗しのレディ」
そういって微笑むシリルの顔はキラキラと輝いていた。




