婚約
「なんの騒ぎだ!?」
大きく威圧的な声に、アビゲイルの肩が飛び跳ねた。
グレイアムの後ろからやってきたのは王太子―ヒューバート―である。
羨ましいほど煌びやかな金色の髪に青い瞳を持つ見目麗しい王子は、その顔を盛大に歪ませた。
「アビゲイル……父上が亡くなったというのにこんな騒ぎを起こして……!」
「……申し訳ございません、お兄様」
「お兄様――?」
「…………申し訳ございません。ヒューバート王太子殿下」
血のつながった兄妹なのに、兄と呼ぶことすら許されていない。
これが現実なのだと、グレイアムにもらった言葉によって浮ついた心が、ゆっくりと落ちていく。
「……久しいな、グレイアム」
「お久しぶりでございます。王太子殿下」
軽く頭を下げたグレイアムに、そういえば彼はヒューバートと友人関係だったなと思い出す。
貴族として最高の地位がある彼は、ヒューバートに選ばれた存在だった。
「…………」
もしかして、これは兄と結託した遊びだったのだろうか?
昔似たようなことがあった。
幼いアビゲイルにたった一人、友人ができたのだ。
侯爵家の令嬢であったある女の子は、王室で一人遊んでいたアビゲイルに声をかけてくれた。
それからアビゲイルの知らないことをたくさん教えてくれて、生まれてはじめてのおままごとやかくれんぼなど、楽しいことばかりだった日々。
――それは、兄によってあっという間に壊された。
『嫌われ者の王女に友だちなんてできるわけないだろ! 本気にして、馬鹿じゃないのか!』
侯爵令嬢は王太子の婚約者候補だった。
彼女はヒューバートに気に入られるために、彼の命令によってアビゲイルに近づいたのだ。
浮かれ喜ぶ姿を嘲笑うために。
あの時の出来事は、アビゲイルの胸に今なお深く突き刺さっている。
「こんなところでなにをしている? ああ、アリシアに会いにきたのか?」
体から力が抜けていくのがわかった。
そういえばそうだ。
確か妹のアリシアがグレイアムに恋をしているとか、二人はいい関係なのだとか、そんな噂を耳にしたことがある。
侍女たちはアビゲイルがそこにいることすらもう気にしていないのか、食事を運んできながらあれこれ噂話に花を咲かせるのだ。
だから王宮で起こったことは、ある程度なら知っている。
(……なんだ、やっぱり)
あれらの言葉は全て、台本の上に成り立っていたものなのだ。
浮かれて喜んで馬鹿みたいだ。
――また、騙された。
「アリシア? いや、違います。アビゲイルに結婚の申し入れをしにきました」
「………………はぁ?」
眉間にシワを寄せたヒューバートは、アビゲイルとグレイアムを交互に見たのち鼻を鳴らした。
「ああ、アリシアと喧嘩でもしたのか? だからその腹いせにアビゲイルに手を出したんだな? 全く……。アリシアには僕から言っといてやるから、早く」
「いえ、アリシアは関係ありません。俺がアビゲイルを愛しているから、結婚の申し出をしたんです」
「…………」
これにはさすがのヒューバートも黙り込む。
同じようにアビゲイルもまた、信じられないという瞳で彼を見た。
「……もう一度聞くぞ? アリシアに結婚の申し出をしにきたんだよな?」
「いいえ。アビゲイルです」
「……嫌われ者の王女だって、知ってるよな?」
「ええ。知っています。それでも俺はアビゲイルを愛しているので、結婚の申し出をしました」
言葉を失ったらしいヒューバートは、信じられないと首を振る。
「……いや、いやいやいや! 友よ! 冷静になれ。いいか? 一旦落ち着いて」
「元より冷静です。国王陛下亡き後、アビゲイルの結婚を承認できるのは王太子であるヒューバート様です。アビゲイルと俺の婚姻を認めてくださいますか?」
「認めるかっ!」
大きな声にアビゲイルの体は震える。
大きな音や声に敏感になっているのは、過去の出来事が原因だろう。
ヒューバートは機嫌が悪くなるとアビゲイルの部屋にやってきては、怯える彼女の前で花瓶を叩き割り、物を壁に向かって投げつけていた。
耳を塞いで部屋の隅で縮こまるしかできなかった記憶は、この体に刻まれている。
無意識にも震え始めた肩に、グレイアムの大きくて温かな手が触れた。
「大丈夫だ」
「……あ、」
優しい温もりは、心を落ち着かせてくれるんのだとはじめて知った。
ぽんぽんと、何度か叩かれればほっと息を吐き出すことができる。
無意識にこめていた力を抜いて、アビゲイルは自分を庇うように現れたグレイアムの背中を見つめた。
「友としてそんな忌み嫌われている女を嫁がせられると思うか!? 悪いことは言わない。今すぐにアリシアと会って……」
「なら婚約で構いません。アビゲイルにはうちで花嫁修行をしてもらいます。いいですよね?」
「…………っ、お前」
苦虫を潰したような顔をしたヒューバートは、しばしの沈黙ののち諦めたようにため息をついた。
「好きにしろ。どうせすぐやっぱりいらなかったと泣きついてくることになるんだから」
「ありがとうございます。じゃあそういうことで」
「ひゃ!?」
またしてもひょいとアビゲイルを持ち上げると、グレイアムはずんずんと廊下を進む。
どこに向かっているのか、なにをしようとしているのか。
(わからないけれど……でも、今は)
この温もりを手放したくないと思った。
彼が本当にこの地獄の鳥籠から解き放ってくれるのか。
アビゲイルという禁忌の存在に愛を注いでくれるのか。
確証なんてないけれど……。
「グレイアム! お前は絶対に後悔する! そんな気色の悪い赤目なんて、必ず捨てたくなるに決まってる!」
こんなところに、いたくない。
そんな自分勝手な欲望だけで、グレイアムから離れられない己の弱さと浅ましさを、アビゲイルは馬車に乗った後でも後悔した。