愛を知ったから弱くなるの
「お前は妃としての役目を放棄した。――そんなやつをいつまでもここにいさせると思うか?」
「…………」
確かにそれはそうだ。
アビゲイルは妃として一番重要なこと、彼の子どもを産むことを拒否している。
確かにそれだけでも追放する理由にはなるのかもしれない。
……けれど。
「――本気?」
「当たり前だ。俺が嘘でこんなことを伝えると思うか?」
「…………そうね。だからこそ、その真意を問いたいのよ」
アビゲイルがそう問えば、イスカリは若干嫌そうな顔をしつつもため息をついた。
「時には曖昧なままでいいこともあるだろう」
「あなたらしくない。――はっきり言って。どうしてそうなったの?」
曖昧なことが一番嫌なのはイスカリだろう。
なのにそんな言い方をするなんてやはり変だ。
ギロリと睨みを効かせれば、彼はどことなく悲しそうな表情をする。
「…………お前がここにいる意味がないからだ」
「私は……両国のためにと…………」
「わかっている。――エレンディーレとは同盟を結ぶ。フェンツェルともだ。……それでいいだろう」
ああ、やはり。
気づかないようにしていた。
気づいてしまったら最後、どうしたって恨むことができなくなってしまうから。
イスカリの瞳に、愛情が滲んでいることに――。
「…………本当にいいの?」
「聞き方が違うな。――さっさとこの国から去れ。……もう会うこともないだろう」
これはきっと、アビゲイルのためなのだろう。
グレイアムを思い出し涙したアビゲイルのために、イスカリが下した決断。
まさか彼がそんなことをするなんて、思ってもいなかった。
「お前は妃としての責務を放棄した上に、国王毒殺の機会を他の妃に与えた。その責任はとってもらわないといけない。ゆえに国に送り返す」
「…………そう。わかったわ」
「お前は二度とこの国の土を踏むことは許されない。……誰かも会うことも、手紙などのやりとりもだ」
「もちろん」
黙り込むイスカリは、ただ静かにアビゲイルを見つめる。
己と同じ赤い瞳を写しつつも、その先にある感情にアビゲイルは静かに瞳を閉じた。
「…………ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。お前は離婚された哀れな女になるんだ。――それも、他国の国王からな」
そうだけれど、そうじゃない。
これは全てアビゲイルのためだ。
――彼の想いに応えることはできない、アビゲイルのための……。
「以上だ。送り返すためにエレンディーレと連絡を取り合う。国に帰る日までこの部屋から出ることを禁ずる。他の者に会うこともだ」
イスカリはそれだけいうとアビゲイルから視線を外し、後ろを向いた。
なぜだろうか?
大きくて偉大なその背中が、寂しそうに見えてしまった。
「……あなたとも、これで最後なのね」
「――そうだ。もう会うことはない」
そう。
これで最後だ。
ならせめて最後に、自分が思うことをしたいとアビゲイルは彼の背中を優しく抱きしめた。
「あなたがこんなことをするなんて思わなかったわ」
「……俺もだ。くだらない感情とやらに振り回されるのは非常に不愉快だ」
「……そうね。その気持ち、少しわかるわ」
愛を知らなければこんな行動に出ることはなかったのにと、そう思う気持ちはわからなくはない。
アビゲイルも愛なんて知らなければ、ただ憎んで復讐だけを望めたのに。
だからイスカリの不安や不快は痛いほどわかる。
自分の意思とは違う行動をとってしまうことの恐怖や、そうしてしまったことへの不愉快さは誰だって感じたことがあるだろう。
けれどだからこそ伝えたい。
「……これは、あなたの元を去る私からの助言よ」
「――いらん。どうせ無駄なことを言うんだろう」
無駄なことなんてない。
愛を知った彼にはきっと、必要なことのはずだから。
だからこそイスカリに回す腕に力をぎゅっと込めた。
「――どうか気づいて。……あなたのすぐ近くに、愛があるから」
「…………いらん。そんなもの」
「いるわ。知ってしまったなら最後……。手放すことなんてできないんだから」
知らなければよかったのにと思うことがあった。
けれどどれほどつらい思いをしても、その思いが消えることはない。
だからつらいのだ。
そばにないことが。
愛を与え、与えてくれる存在がいないことが。
「だからどうか周りを見て。……あなたのそばに、あなたを心から愛してくれる人がいる。だからきっと……」
あなたも愛せるはず、とは言えない。
人の心はわからないものだから。
けれど本当に愛されていると知れれば、少しは変われるかもしれない。
氷の心が溶けるように、アビゲイルは願う。
「――ありがとう、イスカリ。あなたに会えてよかった」
「……俺はお前に会わなければよかったと、後悔している」
憎まれ口を叩きながらも小さく笑うイスカリ。
――彼と話したのは、これが最後だった……。