イスカリという男
イスカリという男は、生まれながらに特別だった。
生まれて半年後には己の足で歩み、一歳になる頃にはぺらぺらと喋れるようになっていた。
それを見た周りの大人たちは彼のことを神童と崇め讃えたことにより、彼という性格ができがったとも言えるだろう。
事実他にもいた兄弟たちをものともせず、イスカリはチャリオルトの王太子として生きてきた。
そしてそれは、父が亡くなり自身が国王となるまで揺らぐことなく続いた。
彼が国王となることが、神によって決められていたのだ。
「殿下は神様に愛されているんですね」
口々にそう言われれば神とはどれほどのものなのか気になるのも必然だろう。
ゆえに調べた。
自国他国可能なかぎり調べ尽くして、結果わかったのは人間の身勝手さだった。
神話だけじゃない。
歴史というものを好き勝手書き換え、己たちの都合のいいようにする。
その傲慢さには呆れ果てたものだ。
「結局神であっても、人には敵わないのか」
そんな不遜な考えを持ちつつも、イスカリは気になる神話を見つけた。
それが終焉の神と新生の神、そして癒しの神の物語だ。
愛憎渦巻くそれは、女が好きそうな物語だと鼻を鳴らした。
くだらないと一蹴しつつも、この国の始まりに大きく関わる物語だ。
特に地下にある神殿には、何度も足を運んだ。
終わりを司る神が全てを失うことになるなんて、なんと憐れなんだろうか?
そう思うと、愛だの恋だのという感情が、ものすごく弱いもののように思えた。
人を惑わせ堕落させ、さらには脆弱にする禁忌の感情。
その言葉には嫌悪感すら抱いた。
だからこそイスカリは誰かを愛することはない。
それは関係を持った女性や、自身の部下たち、さらには兄弟、そして父母に対してもだった。
友愛、慈愛、敬愛、親愛……。
言葉にすれば無限にありそうな愛情を全て、持つことを自ら手放したイスカリはやがて暴君となった。
しかしその手腕はさすが神童と歌われた人、と手放しで絶賛される。
ゆえに彼の歩みを止めるものは少なく、ただ前を向いて進んでいればよかった。
――よかった、はずなのに……。
「わたしを呼ぶなんて珍しいですね」
「…………聞きたいことがあってな」
執務室にやってきたのは、イスカリが呼び出したはずの男、フェンツェル国王オルフェウスであった。
秘密裏にやってきてくれたであろう彼に酒を出しつつ、イスカリは目の前にいるオルフェウスを睨みつける。
「――なにやら楽しそうだな」
「あなたの変化に驚いているんですよ。そんな顔をなさるような方ではなかったでしょう?」
「…………」
自分の顔がどんななのか興味もなかったが、そう言われると思い当たる節があり、イスカリは思わず舌打ちしそうになってしまう。
「そのなんでも知ってるような顔が死ぬほど腹立つな」
「そんな男に頼るんですから、そう邪険に扱わないでください」
全くもってその通りなので、イスカリはむぐりと口をつぐんだ。
なぜこんなことになったのだと、額を抑える。
「…………俺は、選択を間違えたのか?」
「……アビゲイル王女のことですか?」
「――今は俺の妻だ」
「話を続けてください」
完全に主導権を握られてしまっている。
そのことに苦々しい顔をしつつも、仕方ないかとため息をついた。
「……起きたことを伝えたら流れた」
「それで伝わると思ってるなら、あなたの周りは優秀な人が多いんですね」
「…………公爵が目覚めたことを伝えたら、涙を流しながら責められた。なぜそんなことを伝えるのだ、と」
あの時のことを思い出すたびに、胸がぎゅっと苦しくなる。
あの強いアビゲイルが、ボロボロと涙を流しながら叫ぶように言うのだ。
あんなに取り乱した姿は初めてみた。
「喜ぶかと思った。……目覚めたことを伝えたら……」
「……アビゲイル王女は強いですが、弱いところがないわけではないんですよ。必死に思い出さないようにしていたものを、よりにもよってあなたに知らされたのなら、そうなってもおかしくないかと」
「――アビゲイルはあの男を愛しているんだな……」
「彼女にとって、愛を与えてくれた人ですから」
愛だの恋だのくだらない。
あんなものに狂わされるなんて、人間としての恥だ。
理性を失った猿になるなんて、そんなこと絶対にないと思っていたのに……。
「………………どうするべきだ?」
「……どうしたいですか?」
「もちろんこのままだ。……願いはな」
このままいついつまでも、ただそばに。
そうすればいつかは彼女の心にも変化が訪れるのではないか?
そう願わずにはいられないイスカリに、オルフェウスは告げる。
「――あなたはそれでいいと? ……いつかを願い続ける日々を送るんですか? ……つらくとも、わかっているはずですよ」
「………………――」
イスカリはそっと目を閉じる。
この胸に渦巻く悲しい気持ちはなんだろうか?
認めようとしても、認めるなと頭の中から声がする。
あまりの不愉快さに眉間に皺を寄せた時だ。
固い蕾が花開くように、気づいてしまった。
「――ああ、そうか……。これが愛か」
離れるべきなのに離したくない。
そばにいたい。
触れていたい。
これが愛なら確かに、知るべきではなかったのだろう。
「……くだらないな」
花開いたそれは、誰にも知られることはないのだから……。