イスカリという男
「――どういうことだ、アリシア」
アリシアは驚いたようにイスカリから一歩離れると、ヒューバートの問いに答える。
「実は……。慈善事業の一端で、戦争被害者の看病をしていたんです」
なるほど、アリシアが学院に来てなかったのはそういうことだったのか。
ゲームのアリシアがよくやっていたという慈善事業。
その中の一つでチャリオルトとミュンヘンで、怪我を負った人たちを看病していたようだ。
「そこでローウェルという男性を看病していたんですが……怪我がひどくて……。なんとか助けたいと必死に願った時に……」
アリシアは己の両手を見つめる。
「両手が熱くなって……。気がついたら彼の傷を癒していたんです」
そう言うアリシアがグッと眉間に皺を寄せると、上に向けた手のひらが輝き出す。
優しく温かな光が手のひらを満たすその姿は、まさに癒しの女神と呼べるだろう。
「――……」
ついにこの時が来てしまったのだ。
ゲームの物語が始まってしまう。
アビゲイルの心臓が、大きく跳ねた。
「なのでイスカリ陛下がおっしゃることは正しいかと――」
アリシアが説明を終え、腕を下ろしたその時だ。
彼女の言葉を遮るように、顔の真横を剣がかなりの勢いで通った。
「俺は俺の認めた相手にしか名前は呼ばせない。――お前が癒しの女神と呼ばれてなければ、今ごろその顔は切り刻まれていたと思え」
イスカリの剣がアリシアの頰を裂き、一筋の血を流す。
アリシアを見つめるギラギラと輝く瞳は、もはや宝石などではない。
まさに炎の如きその瞳に、アビゲイルは背筋が震えた。
「…………っ、わ、わたしは……」
「無駄な口を開くな。俺は静かに俺に付き従う女しかいらない。お前が癒しの女神だということはわかった」
イスカリはそれだけいうと剣を腰に携えた鞘に戻し、アリシアの横を通る。
彼が目の前を去った五秒後には、アリシアは崩れ落ちるように地面に膝をついた。
「アリシア! ……怪我は?」
「――なによ、あいつ……っ!」
慌ててアリシアに近寄りその肩を支えれば、彼女は震える体を己で抱きしめながら呟いた。
「アリシアに夢中になるはずなのに――!」
そう悪態をつくが、体は正直だ。
ガタガタと震える体は止めることはできず、アビゲイルはハンカチを取り出すと頰の血を拭う。
「ひとまず傷の手当てをしないと。お兄様」
「誰か。アリシアを医者の元へ――」
「――私が付き添います」
カミラはそう言うと、アリシアの肩を支えながら医者の元へと連れていく。
その後ろ姿を不安そうに見つめるアビゲイルの隣に、グレイアムがやってきた。
「――とんでもない国王だな」
「……続編の攻略対象なんじゃないの?」
「ギーヴやオルフェウス陛下の件もある。主人公だからって無条件にゲーム通りにいけるわけじゃないんだろう」
確かにそのとおりだ。
少なくともギーヴとオルフェウスはアリシアに好意を抱いていない。
アビゲイルはゲームのアリシアを詳しく知っているわけではないが、かなりの努力家だったようだ。
同じように努力をしないと、攻略は難しいのだろう。
「とはいえ、アリシアの能力は解放された。――気をつけないとな」
「ええ。戦争の件もだけれど、解決しなきゃいけないことばかりね」
「暇よりいいだろう」
軽くいうグレイアムに肩をすくめていると、アリシアの件が終わったのだろうヒューバートがやってくる。
「ひとまず王宮の中へ。――始まるぞ」
「……ええ。お兄様もどうぞ、気負いすぎずに」
「僕にはアビゲイルがついているからな。――真っ向勝負だ」
そんな二人の会話を聞いていたオルフェウスも、二人に近付いてきた。
「イスカリ陛下はつまらないことを嫌います。あとは落胆させられることも。我々がなにを求めているか知っているでしょうから、彼に暇を与えないようにしないと」
「……難しいことを言うな」
「できなければ会話は進まず交渉決裂。……簡単なことですよ」
「どこがだ」
ヒューバートとオルフェウスもずいぶんと打ち解けたものだ。
歩き出す二人について、アビゲイルも足を進めた。
「そういえばオルフェウス陛下はチャリオルト国王陛下と親しいんですね? 名前を呼んでいらっしゃいましたけれど……?」
「ああ……。気に入られているというより、嫌われていないと言ったほうがいいかもしれませんね。一応国王として認めていただいているようです」
「それだけでもすごいことですね」
あの国王に嫌われないだけでもすごいだろう。
興味を持ったアリシアにすら、簡単に剣を向ける男なのだから。
「待たせるのもそれはそれで機嫌を損ねますので、急ぎましょう」
「そうだな。急ごう」
頷いたアビゲイルたちは足を早め、会談が行われる会場までやってきた。
部屋の中はシンプルながら整った装飾がされており、全体的に落ち着く深い緑色でまとめられている。
部屋の真ん中には長方形に長いテーブルが置かれており、イスカリは早速扉から一番遠い場所に座り、ワインを飲んでいた。
「ワインは悪くない。……ほら、早く席につけ。――俺を退屈させるなよ……?」
こうして、国の命運をかけた会談が始まった――。