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三章 終わりはいつも雨 流され消える香り

 考え直してほしい。

もの凄く、真剣に、考え直してほしい。

「なんで!?部屋から出るなって、どういうこと!?」

「えっとですねぇ……ペオニサ部屋から出すと、逃げるからって……」

「ええ!?」

ドキッとした。扉を隔てて廊下にいるのはインジュだ。インジュは意味がわからないとしながらも、副官の要請に逆らえないと、説明できないと困っている様子だった。

「インファだよね?」

「あ、はい。お父さん、まだちょっと帰れないって、帰ってくるまでペオニサを監禁しておいてほしいって言っててですねぇ、ちょっとボク、わけわからないんですよねぇ」

困っているインジュが可哀想に思えるが、ペオニサもこれ!といって説明できるわけもない。

「何考えてんのおおおおお!?はっ!オレ、殺されるとか?」

「どうしてですかぁ!?何やらかしたんです?……ああ、香水事件終わってないからですかぁ」

「違う!違わないけど、たぶん違う!インジュ!出して!オレ、ここから出なきゃ!インファの前から金輪際消えないと!」

理由は、十中八九あの邪精霊だ。インファを怒らせた恋愛の守護精霊。あれを生み出したのがペオニサだと、インファは気がついたのだ。ああああ、恥ずかしい!違う、最低だ。自分でも気がつかなかった。インファを恋愛対象として見ていたなんて。信じてくれているセリアにも申し訳ない。

「落ち着いてくださいよぉ。何があったんです?ペオニサにちょっかい出したあの人、自滅したらしいじゃないですかぁ。まだ変なのに狙われてるんです?」

「狙われてるのはオレじゃなくてインファだよ!狙ってるのはオレ!」

「すみません。もう一回言ってくれますぅ?」

「あああああ……自覚ないのにぃ」

「自覚なくどうやって襲うんです?ボクが見るに、ペオニサって、襲われて喜ぶ方じゃないんです?」

「ごめん、インジュ、毒しちゃってごめん!オレもそっちだと思う!」

「じゃあ、問題ないじゃないですかぁ。お父さんが押し倒してくれること、絶対ないですから」

「うんうん、オレもそう思ってる。あああああ、なにこれ、詰んだ!?」

「何がです?新作の展開ですかぁ?」

「そうだったらどんなにいいか!オレ、逃げられない!今更、インジュにバカだって言われた意味に気がつくなんて、ホント、バカあああああ!」

「ちょっ!落ち着いてくださいよぉ!大丈夫です?」

「出して」

「はい?」

「出してえええええ!インファが帰ってくる前にいいいいい!」

「もおおお、わけわからないですよぉ!」

インジュは「出られないと思いますけど、出ないでくださいね!」と言い置いて、埒が明かないと思ったのだろう行ってしまった。

 ペオニサは絶望的な思いに浸りながら、それでも扉にかけられた封印の解読を試みた。

インジュのかけた封印だ。わかっていたことだが、ペオニサ如きではどうしようもなかった。

それにしても、反応が早すぎる。インファは、あの日セリアに扮して自分を襲った邪精霊を産み出した者が、ペオニサだと知っている。

どうやって知ったのだろうか。ペオニサを襲ってきた邪精霊がなんだったのか、未だにわかっていない。状況から見て、レイビーがけしからんファンの女と罵っていた、エカテリーナだと思われているだけだ。実際のところ、誰産の邪精霊かは不明のままだ。

産み出してしまったペオニサも、実感がないのだ。エカテリーナに自覚があったとは思えない。

『ねえ、ここから出られれば幸せ?』

ホワンと、ペオニサのミイロタテハの羽根から、黒い、丸い光のようなモノが抜け出した。小さなモンシロチョウの羽根が生えているのは、花の精霊だからではなく、ペオニサが形を与えたからだ。

「そうだけど……でも、ダメだよ?」

『どうして?インファが怖いの?』

「怒られるとかじゃなくて、インファがオレに幻滅したりとか、ため息つかれるのが怖い。嫌われるのが怖いんだ。あああああ、でも、もう遅いかも……!なんでオレ、こんなかなぁ?」

ペオニサは、ズルズルとその場にへたり込むと、頭を抱えてうんうん唸りだした。

『ねえ、あなたのそれ、恋とは違うの?』

「え?恋……?恋?うーん……オレのこれは理だしなぁ。そもそも、恋ってさぁ相手を求める感情だよね?肉体なのか心なのか、時間なのかいろいろだけど。オレ、インファに求めるモノ、何一つないんだ。ねえ、なんでインファ襲っちゃったの?」

そこに、そのままいてくれればいい。それだけで幸せなのだ。それは、恋とか愛とかいえるものなのだろうか。こちらからも別段何かしてあげたいとは思わない。強いてあげるなら、友達になってほしい。一緒に笑ってたわいない話をしたい。

『インファに向いてる焼け焦げるような熱を感じたの。だけど、向けられてるインファは別の人に向いてて、1ミリも答える気がないような気がして。そこを黒魔導で偽情報掴まされて、不誠実だと思ったから』

「焼け焦げ……!?あわわわわ……そんな強いの?」

『うん。こんな激情初めて見たわ。あんな鮮明な姿で、喋れるくらい自我持てちゃうなんて、初めて!だから納得いかないのよ。ねえ、教えてよ。じゃないとわたし、またインファとリティルに怒られちゃう!』

「え?あの人達、君をもう手なずけてるの!?」

『怖いのよ!強いし……ペオニサの事いろいろ言ったら、絶対零度ブリザードで。わたし、凍らされて砕かれるかと思ったわ!』

ホントは腰なんかガクガクだったと彼女は訴えた。それを、プライドで乗り切ったとも。

「え?え?なんかそれ、すげぇ嬉しいんだけど!……あああああ、ダメなヤツ!」

『ねえ、このままインファが帰って来るの待ってる?』

「それしかないかなぁ?インファはたぶん、オレの真意を聞きたいだろうし……。全部言えたら、オレ……やっと楽になれるのかなぁ……」

この想いは偽りだ。なぜなら、ペオニサはインファの助けになるように生み出された精霊なのだから。想いがあるとするならば、それは、生存本能だ。ああ、なんだ。強くて当たり前だ。誰だって、死ぬのは怖いのだから。

『どうして泣くの?』

「え?オレ、泣いてる?……ああ、泣いてるかぁ……もう、言い逃れできないなぁ……」

自嘲気味に受け入れたように笑うと、ペオニサは立ち上がった。そして、部屋の中を見回した。

この部屋は、風の城を住処と定めたペオニサの為に、リティルが用意してくれた部屋だ。小説を書くための、ほどよい高さの机と椅子以外、別段こだわりのなかったペオニサは、天蓋付きベッドというモノを、初めて目の当たりにしてテンションが上がったことを思い出した。

その他にもリティルは「小説書くのに、資料とかいるんだよな?」と言って、大きめな本棚と、小物が置ける棚を用意してくれた。実家である太陽の城の自室では、箱に適当に放り込んでいたそれらは、今、整頓されて並べられ、あんなに手狭だったのに、まだ大いに隙間が空いていた。

ここを、出ていくことになるなんて……。

ペオニサはグイッと涙を腕で拭うと、バルコニーへ出られる掃き出し窓に近づいた。

インジュは、ペオニサの性格上、壊してまで逃げるとは思っていなかったようだ。扉にかけられた封印と比べると、こちらの封印はかなり弱い。……弱すぎる?

「あの人、ホント優しいよね」

ごめん……ペオニサは、心の中で笑うインジュに詫びたのだった。


 インジュの封印を破りペオニサが逃亡した先は、クエイサラー城下の出版社だった。

インファとリティルの気配がないことを確認して、そっと忍び込む。2階へ上がると、そこには書類に目を通すレイビーがいた。

彼女はペオニサの姿を認めると、目を丸くしてマグカップを倒す勢いで立ち上がった。

「十華様!」

「しい!ごめん、リティル達に止められてるんだ」

「そうでしょうとも!まだお2人とも捜査中ですよ?」

レイビーはなぜか腰を低くして駆け寄ってくると、190はあるペオニサを引っ張りしゃがませた。

「フェアリアの調香師がどこにいるか、知ってる?」

「なぜ、そんなことを?」

「会いたいんだ」

「でしたら、リティル様にご連絡さしあげます!」

「ダメなんだ。オレが1人で会わないといけないんだ。知ってるなら、教えて!」

「……十華様、インファ様は本当に恋人ではないのですよね?」

「そう見えてるってことだよね?」

「はい。恋人ではなかったとしても、十華様は……」

「好きだよ」

「承知の上で、ですよね?」

「うん。それでも好き。インファが幸せなら、それでいいんだ」

ちゃんと笑えてるといいんだけど。ペオニサは思ったが、レイビーはグッと切なそうに唇を噛み締めて立ち上がると、机に置かれていたファイルの中からメモを取り出し、ズイと差し出した。

「ありがと、レイビーちゃん」

無言でメモを差し出してくれたレイビーに礼を言い、ペオニサは出版社を逃げるように出た。

 とりあえず離れようと早足に歩いていると、「ねえ、ちょっと」と声をかけられた。その声は羽根に匿っている自称恋愛の守護精霊・ノアだ。

「後にして。とにかくここから離れないと!」

『待ってってば!チラッと見えたけど、その住所、この辺よ?』

「え?」

ペオニサは立ち止まると、慌ててメモを確かめた。確かに書かれた住所は、出版社と目と鼻の先だった。

「!」

ペオニサは慌てて振り返り、リティル達の気配がないか確かめると、足早に道を引き返したのだった。

 住所は、出版社から2軒行ったすぐの道を折れ、真っ直ぐ路地を入った先の広場にあった。なんの看板もかけていない、出版社と外見のあまりかわらない、古い石の建物だ。

「ここ?」

自信のないペオニサに「ここよ!」とノアは自信たっぷりに言った。

ノアにとって、件の調香師は”お父さん”らしい。インファのことで泣かせるほど追い詰めてしまったペオニサに責任を感じて、ノアは”お父さん”に会うことを提案してきたのだ。

ペオニサも、調香師のことは気になっていた。ノアはここにいるが、別のノアは日々生まれると言った。香水を使った、本人のしらないところで。ペオニサは、ノアが焼け焦げるような熱と称したその心が、再びノアを生み出してインファを襲うのでは?と恐れていた。

気持ちに変化を感じていないペオニサには、自分ではどうすることもできない。その調香師に、魔法を解いてもらおうと考えたのだ。

 ペオニサは一呼吸の後、呼び鈴を押した。

しばらくして、扉が控えめに開かれた。

「……宝城、十華さん、ですね?」

扉を開けた、四十代くらいの男性が、確かめるように、そのモノクルの奥の気難しそうな切れ長の瞳を細めて静かに言った。

「小説家の宝城十華です。アッシュさん」

緊張気味に返すと、結わえ損なった緑色の長い髪に縁取られたその表情が、フッと懐かしげに緩んだ。

懐かしげ?なぜ、彼の表情を見てそんなことを思ったのだろうか。エメラルドグリーンの瞳には、かすかに笑みが浮かんでいた。彼はペオニサと変わらない身長だったが、猫背であるせいで、少し低く、陰気に見えた。

「どうぞ」

アッシュは道を空け、ペオニサを家の中へ通した。


 通された部屋は薄暗く、こぎれいにはしてあったが所々に埃が溜まり、本や花の標本、紙の束が雑多に置かれていた。

懐かしいな。そう思って、ペオニサはまた既視感に襲われた。

「香水の匂い……」

そのせいかと、思った。なぜなら、噂の香水「フェアリア」の調香師・アッシュとは初対面のはずだからだ。

「不快な匂いだった?」

背後から声をかけられ、ペオニサは自然と返事をしていた。

「ううん。いい匂いだよ。セリアなんて、瓶も可愛いってウットリしてたよ」

え?オレ今、誰に何言った?笑顔で振り返ってしまい、そこで固まってしまった。色の禿げたソファーの後ろに立っていたのは、先ほど扉を開けてくれた調香師・アッシュだ。アッシュは手に、2つのマグカップを持って、あの、懐かしそうな微笑みを浮かべていた。目つきは悪いが、整った顔立ちの男性だ。物静かで控えめな空気に、誰かを思い出す。ような気がした。

アッシュはソファーを迂回し、テーブルの上にマグカップを置くと、向かいのソファーに腰を下ろした。

「この姿では、初めましてだね。ペオニサ、兄さん」

兄さん?ペオニサは、精霊の名を呼ばれたことにすら気がつかず、アッシュの顔を凝視していた。

牡丹の精霊・ペオニサには、他に10人の姉弟がいる。花の精霊ではない長女のリャリス以外、花の王の子供達は、花の10兄妹と呼ばれている。

ペオニサには、大事にしていた10人目の弟がいた。ペオニサ達は、純血二世といって、精霊同士の交わりで産まれた特別な精霊で、純血二世は12年の幼少期を経て、一人前の精霊となる。成人の日、やっと永遠に変わらないその姿が確定するのだ。

10人目の弟は、成人の時トラブルに巻き込まれ、現在行方不明だ。ペオニサは、彼の一人前となった姿を見ることなく、別れることとなってしまったのだ。

弟はグロウタースのどこかにいる。

根拠のない確信を胸に、ペオニサは弟を捜していた。しかし、見つけられずにいた。あまりに見つからず、魔導に精通していた弟は、魔法を使い遭遇しないように逃げているのでは?そう思った。そう思って、現在の姿もわからず、魔法も使われたのでは絶対に見つけられないと、諦めかけていた。

「アシュデル……ホントに……アシュデル?」

調香師・アッシュは、懐かしそうな微笑みを浮かべながらゆっくりと頷いた。

「あなたの弟、ミモザの精霊・アシュデルだよ。久しぶり」

「久しぶりじゃないよ!今までどこに!ってここか。リティル様にも内緒で、何やってるんだよ!おまえの香水が変な反応起こして、殺人事件まで発生してるし、どうすんの!?」

勢いで立ち上がってしまったペオニサは、嬉しさや聞きたいことが押し寄せて、半分パニックだった。同じくらい背の高いペオニサを、アシュデルは座ったまま懐かしそうに穏やかに見上げて、微笑んでいた。アシュデルとは、いったいどれくらいぶりだろうか。10年?20年?いや……30年以上会っていないんじゃないか?と時の流れの速さに驚愕する。彼を捜しているつもりだった。だが、こんなに長い間見つけられなかった。忙しかったから?違う。楽しくて、あまり、真剣に捜していなかったんだと思った。

「うん。まさか、黒の魔導士に悪用されるなんて、思わなかったな。これでも慌てて、異物混入とか何とかいって、商品全部回収して、今流通してるのは危険はない恋のアイテムだよ」

「一時店頭から消えて、幻の恋のおまじない香水なんて言われちゃった」と、アシュデルは笑った。

「おまえ……冷静すぎ。変わんないね」

幼少期、アシュデルは幼児の姿をしていた。それが、こんなおじさんになっているとは思いもよらなかった。だが、アシュデルだ。彼は、目の前にいる彼は紛れもなく、弟のアシュデルだとペオニサはわかった。

「そう?ずいぶん変わったと思うけど?」

「姿形なんて、精霊にはあんま関係ない!」

「関係あるでしょ?兄さんは、インファ兄の容姿が三度の飯より好きじゃないか。インファ兄があの顔じゃなかったら、兄さん、彼に近づいた?」

「……近づいたよ。近づきまくったよ!遠慮なく、好きだー!ってぶつかってたよ!」

「超絶美形のインファ兄には、できないの?ほら、関係ある」

アシュデルは揶揄うように笑った。

「!!……超絶美形のインファと、一応美形のオレじゃ、耽美な世界でめくるめく同性愛の扉開いちゃうんだよ!」

そうだ。だから近づかないのだ。うん!とペオニサは遠慮している後ろ向きな気持ちに、無理矢理理由をつけて強がっていた。

「あれ?目覚めた?兄さんは容姿を愛でたいだけだと思ってたけど、性的に触れたくなったの?」

「ちょっ!おまえええええ!」

お、弟のアシュデルの口からそんなこと……!と思って、こんな中年男性の姿で恥じらわれても変だなと思ってしまった。あの頃のような、幼い少年ではないのだから。

「兄さんも変わんないね。あんな小説書いてるのに」

「創作と現実は違うの!インファに、今でも何も湧かない。でも、そう思い込もうとしてただけなのかもなぁ……。おまえの作った香水で、オレ、インファを襲ったらしい」

ペオニサは俯いた。そんな激情が隠れているなんてしらなかった。今でもまったく自覚はない。ないから恐ろしい。

「みたいだね」

「オレ、また襲っちゃう?」

「襲わないよ。そうだよね?」

アシュデルはペオニサの羽根に向かって声をかけた。羽根からノアは現れると、アシュデルの周りをクルリと一周回った。

『襲わないわよ!頼まれてもごめんだわ!』

ノアは否定するように激しく、アシュデルの周りを飛び回った。

「に、しても、こんな薄いおまじないから、自我を持つ守護精霊を造り出すなんて、兄さん、やっぱり凄いね」

「凄くない!迷惑かけ通しで、もう大人しくしてろって、城に監禁されたよ!」

「へえ……インファ兄も過激……」

「違ーう!インファはノーマルだよ!」

「何も言ってないよ?それに、兄さんもノーマルだ」

「インファに限り――」

「そんな気ないくせに。惑わされてはダメだ。兄さんの望みは、肉体とか心とか、そんなものじゃないだろう?思い出して。兄さんがインファ兄に望むモノは、なに?」

「インファに、望むモノ……?………………ないんだけど」

ガクッと美形中年が机に崩れ落ちた。

「いや、だってさ!存在しててくれたらいいっていうか、たまに視界に入ってくれたらいいっていうか、えー?何かあるかなぁ?」

「何を悩むことがあるんだろう……勘違いされたら、もういっそ、開き直ればいいんじゃない?乗ってくれるでしょう?」

あきれ顔でアシュデルが体を起こした。

「え?あー……そうだねぇ……オレが変に意識して、それでおかしくなったような……」

「兄さんが原因なんじゃないか」

アシュデルに咎められ、笑うしかなかった。なんだ。何も変わっていなかった。ただ、周りを気にしてジタバタしていただけだ。

「あっはは。そうみたい」

「インファ兄は受け入れてくれてるんだから、信じてあげてよ。可哀想だよ。こんな変態を友人だって言ってくれてるんだから」

日々妄想している官能小説家。職業とはいえ、端から見たら変態に他ならない。ペオニサの場合、現実の話か空想の話か混同していることもあるのだから。

「返す言葉もないです。そだね。インファと話すよ」

「そうして。インファ兄は嫌なことは嫌だって言ってくれる。大丈夫だよ」

なんでもお見通しのような顔でそう言って、アシュデルは笑った。

「アシュデル……イシュラースには、帰ってこないの?」

「うん。ここも離れるよ。ちょっと騒がせちゃったから、ほとぼりが冷めるまではね」

「またいなくなるのか……」

やっと会えたのに……。寂しいなと思っていると、弟は言った。

「ならないよ。ボクがどこにいるのか、ちゃんと連絡するから」

「ホントにホントだな?」

「ホントにホント。兄さん、今まで連絡しないでごめん」

「まったくだよ!なに?その容姿が原因なワケ?」

「半分は。あとは……」

アシュデルは辛そうに俯いた。

ああ、まだ好きなんだ。ペオニサは察した。これは、よかったのだろうか。アシュデルの想い人に、行方不明になった幼なじみを捜す素振りはない。

彼女は、全力で考えないようにしているように、ペオニサには見えていた。彼女の方も、まだきっと好きだ。ただ、2人は、成人後1度も会っていない。今会って、今の2人を目の当たりにして、幼少期の恋心がどうなるのか、それは誰にもわからない。

「あー……行くなら、オレも付き合うけど?」

でも、彼女は待っている。アシュデルが訪ねてきてくれることを。捜さない彼女の心に、アシュデルは大切に、今でもいるのだ。

「その時は頼むよ。まだ今は、その勇気がないから」

弱気に笑う彼は、ペオニサの知っている末の弟そのものだった。


 ペオニサが逃亡したという知らせは、クエイサラー城下にいたインファとリティルの耳にすぐに入った。ラスが捜しているが、すでに彼の気配はイシュラースにはないと結論が出ている。

リティルがため息を付いた。

「ペオニサのヤツ……まだこっちは危険なのにな。想定済みかよ?雷帝」

「想定していたうちの1つです。この結末には、なってほしくなかったんですが……」

「あいつ、何考えてる?」

「オレに嫌われたと思っていると思います。フフ、オレの愛情、そんなにわかりにくいですか?」

自暴だ。誰かこの思いをわかってほしい。

「言葉が足りねーんだよ。帰れねーからとりあえず監禁しとけは乱暴だろ!盛大に引っかき回されたあいつは今、完全に乙女モードだぜ?」

「オレへの罪悪感でいっぱいでしょうね。信用されていないということを突きつけられると、傷つきますね」

「無自覚なだけだぜ?インジュもインジュだよ!わざと一箇所だけ手抜きやがって!」

怒り心頭のリティルの口を塞いだのは、不意にノックされた音だった。インファが「どうぞ」と声をかけると、神妙な顔のレイビーが顔を覗かせた。

「十華様が来ましたわ。フェアリアの調香師を捜していると。あの、本当によろしかったのでしょうか」

レイビーには、十華が来たら件の調香師のことを教えてほしいと頼んであったのだ。

「ありがとうございます。調香師とは話がついていますから、問題ありません」

「あの……十華様とあなたは……その、本当に?」

彼女が疑うほどそんなふうに見えるのか。興味深いとインファは思ってしまった。

「友人です。オレはこんな容姿で、彼はオレの容姿が好みなんです。オレはあまり器用な方ではありませんから、十華に気兼ねなく愛でてくださいと言えなかったんです。今回、オレと恋人関係を疑われたことで、思い詰めてしまったようですね」

「はあ……バカだな……あいつが変態なのは今に始まったことじゃねーのにな。今更遠慮するとか、ねーよ!」

リティルは呆れた声を出した。父がこんな調子だから、インファも惑わされないで済んでいる。

「十華様は普段、あなたに、直接的な言葉を使っていましたか?」

「ん?好きとか、愛してるってヤツか?」

「呼吸するように好きだと言われていましたね。今更です。なんならオレの方から、愛していると、囁けばよかったですかね?」

「死ぬなー。あいつ、自分で言うのはいいけど、インファ兄に言われるのは無茶苦茶抵抗あったからな。はあ……行くか?あの恋愛脳の変態を迎えにな!」

「ええ、調香師のところから逃げられると、厄介ですから」

気にしていない。インファはそんな態度を貫いていたが、そんな息子を、リティルが心配しているとは気がつかなかった。

 ペオニサとインファの関係は繊細だ。

勘違いされることがわかっていて、関わりたくはなかっただろう。しかしながら、インファは、姿を晒してしまった。リティルが守ったのにもかかわらず、ペオニサとレイビーが襲われたあのとき、来てしまった。自分の担当する保護精霊が心配なのはわかるが、インファの行動は冷静さを欠いていたと思う。

それが、薄氷か、細い糸のような繊細な2人の関係を壊した。

狙ったのか?とも思えなくもないが、まだ、覚悟を決められないペオニサが自滅するのは目に見えている。彼は精霊的年齢はインファと同世代だが、生きてきた時間を考えるとまだ若い精霊だ。インファやリティルのように、長い時を生きてはいない。

導きが必要だ。

リティルは、導いてやるつもりだった。曖昧に向き合っているペオニサの理と、真っ正面から向き合わせるつもりだった。

それを、なぜかインファに邪魔された形だ。もしかすると息子は、恐れてしまったのかもしれない。見てればわかるだろ?と思える、ペオニサの過ちを。

リティルが思うとおりのことを、過去にペオニサがしてしまっていたとしても、ペオニサは完成された精霊だ。その心は、変わることはないと、リティルは確信している。

それを、2人が信じられるかどうかだ。

ペオニサを、友人だと繰り返すインファが、言い聞かせているのではなく、真にそう思っていると信じたい。

 件の調香師――ミモザの精霊・アシュデルは、このクエイサラー城下に居を構えている。そして、ペオニサの出版社から目と鼻の先だ。それはたぶん、故意なのだ。

ミモザの精霊・アシュデル。リティルもよく知る、風の王夫妻の3人目の娘、闇の王、翳りの女帝・イリヨナの幼なじみだ。ペオニサが面倒を見ていた、ペオニサとは特別な絆のある兄弟で花の王・ジュールの末の息子。

彼に会ったリティルは驚いた。アシュデルも驚いていた。

リティルは唯一、成人したアシュデルの姿を知っていた。工房の扉を開き現れた彼に、リティルは思わず「おまえ、こんなところで何してるんだよ!」と叫んでしまい、姿を知らないインファに「知り合いでしたか?」と驚かれた。

「どうしたの?香水を悪用した黒の魔導士なら、影にタレコんでおいたから、もう始末されてるはずだけど?」

彼の話では、一連の殺人事件は終わっているという。産み出された邪精霊は、一晩しか存在できないような儚い存在らしく、香水を回収し、処分した今、もう産まれることはないとのことだった。現在出回っている香水は、悪用されないように手を打ってあるという。

彼は、リティル達が手を拱いている間に、キチンと手を打ち、早々に解決を図っていたのだ。ペオニサの事件と他が違っていたのは、別の思惑からなる、別の事件だったからだと判明した。

それも、エカテリーナが犯人ということで決着はついている。「報告してくれよ!」と叱ると、アシュデルは「そうだね。ごめん」と風の精霊が動いているとは知らなかったと素直に謝り、風の監視下に入ること約束してくれた。

イシュラースへの強制送還や断罪などの処置も考えられたが、本人が事態を1人で収拾し、解決に導いていることと、リティルもよく知る身元のしっかりした精霊だったことで、このままグロウタースでの活動を許したのだった。

「兄さんが、巻き込まれたんだね?」彼にとって兄弟と呼べるのは、ペオニサだけだ。哀しみのような怒りのような、悔やむような複雑な表情を浮かべていた。

「ペオニサが香水を使い、オレが襲われました」とインファが告げると、アシュデルは「あり得ない」と呟いた。

「安心してください。ペオニサを手放す気はありません」インファの言葉にアシュデルは驚いた顔をしていた。そして彼は、大きなため息を付いた。

「何も心配はいらないね。兄のことを、よろしくお願いします。インファ兄」と深々と頭を下げるアシュデルに、インファは当然とばかりにニッコリ微笑んでいた。

ペオニサは、変わり果ててしまった彼の事を、弟だと気がつくだろうか。それにも興味があるリティルだった。

 リティルとインファは、アッシュの工房の玄関が見える位置に立って、ペオニサが出てくるのを待っていた。

ペオニサが風の城から逃げてすぐ、インファはアシュデルに連絡していた。彼はため息とともに「兄さんはインファ兄が絡むと変になるから」と苦笑して、インファと話すように説得すると言ってくれた。

「おい」

「なんですか?」

「おまえ、城で待ってた方がいいんじゃねーか?」

「逃げると思っているんですね?」

「ああ。おまえに会いたくねーんじゃねーか」

「そうでしょうね」

「捕まえるのかよ?」

「ええ。逃がすつもりはありません」

「どういうつもりだよ?あいつ、自分を見失ってるぜ?恋人になってやるつもりかよ?」

「あり得ないということを、思い出してもらうだけです。ペオニサは、違えませんよ」

「だといいけどな」

「大丈夫です」

「わかったよ。協力してやるよ。ただし、城へ連行してやるだけだぜ?」

「十分です」

本当に大丈夫かよ?どうしてインファまで余裕がないんだ?とリティルは不思議だった。

風の王であるリティルが捕まえれば、ペオニサは抵抗しないだろう。リティルはこんなナリだが、風の城の主だ。一家の一員となったペオニサの主君だ。花の王の息子である彼は、風の仕事に関わっていないとしても、誰に従わなければならないのかは承知している。

オレだけなら、ペオニサは胸の内を語るんじゃねーのか?と思う。しかし、インファがいては何も言えないだろう。

何考えてるんだ?聞かれて困ることでもあるのか?リティルは、次々に浮かぶ疑問を、ぶつけようか迷ったが、結局ぶつけられなかった。

目の前の玄関から、ペオニサが出てきたからだ。

 どうやら、彼とは話せたらしい。その顔は、晴れやかだった。

「十華!」

気がつかないペオニサに、リティルは声をかけて駆け寄った。

「わあ!リ、リティル様?ああ……そうだよね……すぐ見つかっちゃうよね……」

「はは、そんな落ち込むなよ!ちゃんと話せたか?」

「……うん……もう、ここを離れるって言ってた……」

ペオニサは寂しそうだ。それはそうだろう。アシュデルの幼少期の12年を、ほぼベッタリすごしていたのだ。顔にこそ出さなかったが、何も言わずに姿を眩ませてしまったアシュデルに思うところもあっただろう。

「ああ、そう言ってたな。心配するなよ!グロウタースでの生き方、教えといた。今回みてーにもう利用されねーよ」

教えることはほぼなかった。彼は、1人で香水殺人事件の幕引きを、風にも知られずにやってのけたのだ。ペオニサが巻き込まれなければ、インファが風の城の応接間で悩んでいる間に、事案は解決していたはずだ。

「うん……ありがと……グロウタースで、生きてもいいんだ……」

「オレの監視付きだぜ?放浪の精霊を、本当は許しちゃいけねーんだ。今回みてーに、本人にその気がなくても利用されちまったりするしな」

「でも、連れ戻さないの?なんで?」

「……アシュデルには、必要だと思ったんだよ。いつか、傷が癒えたら、オレに連絡くれるって、信じてた。それよりも早い再会になっちまったけどな」

アシュデルが別れを告げに来たとき、彼は、死ぬかもしれないと思った。だが、リティルは行かせた。風の王は、命の行く末を見守る者。すでに心を決めていたアシュデルを、引き留めることはできないと、本能が告げていたのだ。

ジュールやペオニサが、アシュデルを捜していることを知っていた。しかし、行き先も通信手段もなく行かせたリティルには、居場所はわからなかった。

グロウタースへ行かせたことに、後悔も葛藤もあった。アシュデルは、風一家ではなかったが、リティルにとっては末娘の夫となるかもしれない、家族になるかもしれない人だったのだから。ペオニサほどではないが、リティルにもアシュデルは大事な人だった。

今、こうして、アシュデルに再会できて、リティルもホッとしているのだ。

「そんな生き方……」

「そんな生き方選べるのかって?オレにもリスクはあるぜ?もし、おまえがその生き方を選んで、この世界の民を巻き込むような事件起こしたら、オレとインファが、おまえを殺す」

「うん……そうなるよね……」

「いろよ」

「え?」

「おまえは、風の城にいろよ」

「リティル様……」

「悪いな。手放せねーよ」

「なんで……?」

「言わせるのかよ?好きだからだよ」

腰に手を当て、胸を張って言い切ったリティルに、ペオニサは目を丸くした。

「ええ?」

利用価値……があるのかわからないが、花の王に頼まれているとかそういう答えを思っていた。それを見透かされたのだろう。リティルは苦笑した。

「バカだな。おまえもオレのこと、好きだろ?」

「あ、うん。好き」

「そういうことだろ?オレ達が一緒にいる理由なんて、それだけで十分だ。そろそろ戻ってこいよな!ペオニサ」

ドンッとリティルに背を押され、ペオニサは蹌踉めいた。顔を上げたペオニサの視線の先に、彼がいた。

 石畳の上で食事していた青灰色のハト達が、一斉に飛び立った。その向こうから歩いてくる彼の姿から目が離せなかった。

そんななんでもないことなのに、彼の姿は1枚の絵のようにペオニサの心に刻まれる。

「インファ!約束破って、ごめん!」

ペオニサは、笑顔のないインファに笑って見せた。

話をしようとは思っている。けど今は、目を見張ってから、フッと優しく微笑んでくれた彼の表情筋を緩ませよう。

それが役目じゃないか。一緒に笑おう?と言って、インファに近づいたことを、ペオニサは思い出していた。インファとの関係を誰にどう誤解されようと、怖いモノなど初めからなかった。インファはペオニサが際どいのを承知で、一緒に笑ってくれているのだから。

逃げてどうするんだ?追いかけさせてどうするんだよ?許してくれるインファに、ペオニサは駆け寄ろうとした。

仲直りできると思った。もう、元通りになれると思っていた。


 ペオニサを見て、油断してしまった。彼のためには、インファが揺らいではいけない。いけないのに、慣れない状況に戸惑うばかりだ。それでも、手を放すわけにはいかない。安全ではないのに、ここでインファは、ペオニサのことしか見えていなかった。

「っ!?」

インファは咄嗟に顔の前に腕を上げていた。斜め下から飛んできたそれは、インファの右脇から頭までを濡らしていた。遅れてやってきた灼けるような激痛に、奥歯を噛み締め耐える。咄嗟に目を閉じた為に、目は無事だが、液体に触れた頬や額が爛れたのがわかった。

「インファ!」

血相を変えたリティルとペオニサの姿、そして、女性の悲鳴、唖然とする人、逃げる人様々な人々の行動が目に入った。チラリと見ると、庇った腕の、剥き出しだった手の甲が、白いかすかな煙を上げて皮膚が溶けていた。強い酸性の液体をかけられたことだけは辛うじてわかった。

戦い慣れたインファであっても、怪我を負えば苦痛を感じる。冷静なつもりだったが、2度目の攻撃を防ぐことができなかった。チクッと僅かな痛みを背中に感じ、体の力が不意に抜けた。倒れ伏したインファの隣に、気配が立った。

「十華様!見えまして?醜くおなりになったこの人を、まだ愛していると言えるのですかぁ?」

――エカテリーナ……

顔を上げることはできなかったが、声に聞き覚えがある。

「くっ……」

グイと長い髪を引っ張られ、上半身が持ち上げられた。血が、綺麗なままの左の顔に流れ落ちる。

「この人をお好きなのは、美しいからでしょう?」

楽しそうな声に、彼女の精神がもう壊れていることが伺い知れた。

マズイ……非常にマズイですね。インファは力の入らない瞼を無理矢理上げ、ペオニサの姿を捜した。瞳を見開いて立ち尽くす彼を、すぐに見つける。揺れる霊力の波。怒りなのか哀しみなのか、負の感情が彼を飲み込むのを、薬を注射されたインファは、見ている事しかできなかった。

「インファああああああああああ!」

ペオニサの背に、ミイロタテハの鮮やかな蝶の羽根が咲くように現れた。しかし渦巻く力が、金色を帯びていく。

「ペ、オ――ニ……サ……!」

止めなければ!そう思うのだが、指1本動かせなかった。

彼がこのまま、激情に飲まれて殺人を犯せばどうなるか。あまりいい方向へは転ばない事は目に見えていた。

死に急ぎますか。インファは、彼女を斬ることを決めた。エカテリーナは初めから、風の得物ではない。起こした事象が、とても個人的な事だったからだ。風が介入するのは、人知を超えた、もしくは、イシュラースの民が不利益をもたらしたときだけだ。

その2つ共に、彼女には当てはまらない。そんな時は、グロウタースの民と法に裁きを委ねることになっている。所詮は、異世界のことだからだ。

風の精霊は、世界の刃だが、世界が壊れないか、輪廻の輪の流れに影響がなければ動かないのだ。どんなに凶悪な犯罪者だとしても、どんなに善良だとしても関係がない。風の仕事でないと判断すれば、その時点で手を引く。介入がすぎれば、歪みを生むからだ。

 だが、降りかかる火の粉は払う。引導を渡されたにも関わらず、攻撃を仕掛けてきたのだ。世界は、風一家を守るため、命を狩ることを許可してくれる。

風の精霊は正義ではない。世界を今の姿に保ち、輪廻の輪を正常に回すことが仕事なのだから。

さて、どう狩りましょうか?

翼を具現化すれば容易いが、騒ぎになりすぎている。まずは結界を敷き、野次馬をこの場から締め出さないことには力を振るえない。力を暴走させていくペオニサを抑え込んでいるリティルが、こちらに視線を送っている。

「待て」はい?とインファは父の送ってきたメッセージを、読み間違えたか?と二度見してしまった。

早く動かなければ、ペオニサの正体が露見してしまう。この島では、魔導士は珍しくないのは救いだが、あまり知られていいことではない。

なぜならペオニサは、この先もここでも宝城十華として生きていくのだから。

リティルの瞳が、スイとリティルの背後に送られるのを、インファは見た。

「そんな感情、似合わないよ?兄さん」

パチンと指を弾くような音が響いた。辺りが、翳ったように薄暗くなった。辺りから、人の気配が消える。

 キイッと軋む音を立てて、ペオニサを押さえつけるリティルの背後の扉が1人でに開いた。世界が変わってしまったかのような空気に、さすがにエカテリーナも戸惑っていた。彼女の目が、開いた扉に注がれた。

ヌッと出てきたのは、俯いた猫背のひょろりと背の高い男性だった。その背には、鮮やかな赤が目を引くペオニサとは違い、青と緑が基調の、落ち着いた色合いのミイロタテハの蝶の羽根が咲いていた。

「リティル様、ボクが責を負います。だから、兄さんをそのまま抑えておいて」

獣のようにうなり声を上げるペオニサの腕を引っ張るリティルは、険しい顔ながら頷いた。

ミモザの精霊・アシュデルは、モノクルの奥、目つきの悪い瞳を更に眇め、やっと自分の置かれている状況に恐怖し始めた女性を見据えた。

彼の手には、いつの間にか一冊の魔導書が開かれていた。アシュデルが書かれた文字を指でなぞると、黒い、薄っぺらな影のような手が魔導書からウゾウゾと這いだし、未だインファの髪を掴んでいるエカテリーナに向かって伸びた。手は彼女の体を掴み、その体を黒く冒していく。

「あ、あ、あ……ぎゃあああああ!」

女性とは思われない悲鳴を上げ、エカテリーナだったものは、ドシャッと地に伏し、光に影が消えるように消滅していった。

 眉1つ動かさずにエカテリーナを葬ったアシュデルは、リティルに腕を掴まれているペオニサに向き直った。

「兄さん、兄さんのやるべきことは何?殺すだけなら、ここにいる誰だってできる。でも、兄さんにしかできないことが、あるよ?」

アシュデルの、カサカサと荒れた大きな男性の手が、狂気と正気の間で揺れる瞳から涙を流すペオニサの頬に触れた。弟の姿も、その目には映ってはいなかった。

「インファ兄を苦痛から解放できるのは、あなたしかいないでしょう?」

「っ……インファ……」

たった1つの名が、邪精霊化していくペオニサに正気を返した。

「謝罪はあと。インファ兄を苦痛の中に1人で置いておくの?」

ペオニサの鱗粉を散らす風が唐突に止んだ。リティルが手を放すと、弾かれたようにペオニサは倒れて動かないインファに駆け寄っていった。

「アシュデル、ありがとな」

フウと息を吐いて、リティルは猫背の男を見上げた。

「気にしないで。元はといえばボクの落ち度だ。それに、あの魔法は魔物変換といって、自分の持つ負の感情にふさわしい存在に変える。あの人は、自分の感情で人間という存在をやめただけだよ。死因は自殺ってことになるね」

アシュデルはそういって、静かに笑った。

「そっか。哀しいな」

リティルは言葉少なく呟くと、視線を前に向けた。


 インファを抱き起こしたペオニサは、ぬるっと、手が濡れるのを感じた。何気なく手の平を見ると、ベッタリと血に濡れていてギョッとしてしまった。下ろせば、瞳を閉じた彼の右側が爛れ真っ赤になっていた。無事な左側は血の気がなく青白い。

「インファ……!ねえ、しっかりしてよ!」

オレのせいだオレのせいだオレの――

「――のせいでは……ありません、よ」

フッとインファの瞳が開かれ、ペオニサを真っ直ぐに見上げてきた。

「ごめん……!ごめん……オレ……!」

「日常、ですよ。知って、いるで、しょう?」

微笑みを浮かべるインファに、ペオニサは愕然とした。

こんな傷負って、人のこと気遣う?ペオニサは泣きたいのを何とか堪えた。

「なんで……なんでこんなときまで綺麗なの!?あんた脅威の顔面偏差値だよ!」

心臓の動きが弱い……よほど強いしびれ薬を注射されたようだ。顔だけでなく、腕、脇、たぶん太ももも、見えない服の下も爛れている。いったい、どこから癒やせばいいのか、肩を抱く手が震えないように、ペオニサは耐えた。

「フフ、半分だけです、けどね」

「綺麗だよ!オレ、舐めてもいいなら舐めれるよ!」

「染みそうなので、やめてください」

「あっはは。やめてほしい理由が、染みるからなの?」

スウッとペオニサは、インファの爛れた顔を、触れるスレスレを撫でた。爛れは治り、血の汚れのみとなる。続き、見えている首も治療する。少しは息がしやすくなるだろう。

「おかしいですか?」

インファは、ハアと痛みに詰めていた息を吐いた。

「うん。普通は舐めるな!って言うと思う」

「そうですね。ペオニサには、変なことを言ってしまうんですよね。オレに触れようと、思わないんですか?」

「思わないよ?今は触っちゃってるけど。あんまりベタベタされるの嫌いでしょ?」

ラスやリティル、最近はペオニサにも気安く抱きついてくるインジュが、インファには抱きついているところみ見たことがない。間合いの近さに定評のあるインジュも気を使っているのだ、ペオニサが触れるわけにはいかないのだ。

「はあ、まあ、そうですね。……ペオニサ」

「なに?」

心臓の鼓動……気になるな……。念のために守りの魔法をかけて、止まらないように保険かけとこう。拙い魔法でもタシにはなるだろうと、ペオニサは魔法を組み立てる。

「風の城に、いてください」

「え?」

永遠に離れることなんて考えていない。ただ少し、アシュデルにくっついて旅に出るのもいいかなぁ?と思っていただけだ。風の城の居候には、滅多に帰ってこない旅する精霊もいるのだ。ペオニサがそういう生き方をしても、許される気がしていた。

「自称恋人で、かまいません」

「え?いやいやいや、ちょっと言えないところに血が集まっちゃうからダメだよ!」

「間違えられたら、自慢してくれていいですよ?」

「超絶美形の恋人最高!って?どうしちゃったの?インファ」

インファは、自分の容姿が嫌いだ。それを前面に出してもいいと言い出すインファが、ペオニサには信じられなかった。

しかも、同性の恋人を許す?唯一無二の愛妻と、信頼する息子がいるのに?そんなことを許して繰り返したら、家族仲に影を落とさないかと、ペオニサの方が戸惑った。

「あなたが拘るからです。グロウタースでのオレ達は、偽りだらけです。最も無理のない関係性を演じます。皆がそう見るのなら、それでいいではありませんか」

父であるリティルが息子のインジュが、インファの弟であるように。

しかし、ペオニサは提案された関係性を、はいそうですかとは受け入れられない。風の3人は、関係性は変わっても血が繋がっていることには変わりはないのだ。

イシュラースにいるときと同じ接し方だとしても、演じさせちゃいけないとペオニサは、表情を硬くした。

「オレが……改めればいいだけだよ。それに、もうオレが関わる事なんて……」

「ペオニサ、っ!」

何かを言いかけたインファが不意に咳き込んだ。

「!とりあえず喋らないで!あんた結構ヤバイよ?」

心臓の鼓動が妙な動きをしてる?これは手に負えないかもしれない。

即座に判断したペオニサは、リティルを振り返った。

「リティル様!」

「ダメだったか!戻るぞ!」

リティルは服の下から、鏡の首飾りを取り出すとグッと握った。インファを抱えて座るペオニサの下にゲートが開き、落ちるようにそれを潜ったのだった。

ハッとゲートに飲み込まれる瞬間彼の姿を捜すと、アシュデルはその場に佇んだまま、口元にだけ笑みを浮かべていた。


 風の城に戻ってからは、バタバタと慌ただしかった。

無限の癒やしで、魂についた傷から致命傷までをも癒やす、風の王・リティルの愛妃、花の姫・シェラは、ニッコリ笑いながら雷帝夫婦の寝室を閉ざしてしまった。

インファとは面会謝絶となったのだ。閉ざされた扉の前で立ち尽くすペオニサの肩を、解散する一家の皆は気にするなと言いたげに、ポン、ポンと叩いて去って行った。

「おまえも休めよ?大丈夫だ。シェラとリャリスがついてる。死なねーよ。うちの雷帝は」

動けないペオニサの腕を、リティルは引っ張り強引にその場から動かした。

「どうして、そこまでできるの……?」

「ん?エカテリーナか?さあな。アシュデルが使った妙な魔法、魔物変換とか言ってたな。存在を、その心にふさわしい存在に変えちまうんだと。それが答えなんじゃねーか?」

「人として理解できる心を、持ってなかった?」

「そうなんだろ?オレ達に獣の心がわからねーように、あいつの心は、誰にもわからねーよ。はあ、インファがあそこまで油断してるのも珍しいんだ。気にするなよ。おまえのせいじゃねーよ」

おまえのせいじゃない。インファもそう言った。

本当に?そう考えてしまうのは、被害妄想だろうか。


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