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二章 甘き香りに官能小説家は青息吐息

 インファは、水路の鉄の柵に両肘を置いて、それにもたれて立っていた。

道行く人々が、チラチラと視線を送ってきたが、無視していた。幸い、話しかけてくる者はいず、平和だった。

「インファー!お待たせ」

出版社から出てきたペオニサに、インファは微笑を浮かべて答えた。

「おまえいるか?オレがいればいいんじゃねーのか?」

ペオニサの後ろからひょいと顔を覗かせたのは、リティルだ。彼は、あからさまに不満そうな顔をしていた。

「十華が喜ぶので、いいではありませんか」

「うん。すげぇ嬉しい」

嬉しそうに笑うペオニサと、答えて微笑むインファを見て、リティルは俯いた。

「ちぇ、オレが邪魔者かよ」

「あああ、そんなことないから!パーフェクト彼氏のリティルはいなくちゃダメ。妄想掻き立ててくれないと、次の小説苦労するから!」

「もう、妄想で書けるんじゃねーのかよ?そういえばレイビー『花嵐の約束』と『宝月戦記』の主人公のモデルがインファだって知って、舞い上がってたな」

行こうぜと、歩き始めたリティルを真ん中に、2人も歩き始めた。

「彼女は独特ですね。お互いに主役になろうとは思わないんですか?」

「オレとってこと?そうならない()を、選んだんだよ。各支部の隊長はみんなそういう()。中でもレイビーちゃんは特別だけど、恋愛感情は湧かないなぁ」

「……あなたは――いえ、何でもありません」

「違うから。オレ、インファにもそういうふうに心は動かないからね!」

そう言うとペオニサは、彼には珍しいくらいインファを睨んで、先へ行ってしまった。

「おまえ」

「わかっています。ただ、状況が状況なので――最低ですね、オレは」

縁結びの力のあるペオニサは、恋愛感情とそれに付随する欲望を論理的に理解している。自身に、恋愛感情も欲望もあるのだが、その論理が邪魔をしてその手の感情に支配されることがないだけだ。本気になればなるほど、のめり込めばのめり込むほど、冷めてしまうのがペオニサだ。

あんなに仲がいいレイビーと恋仲に進展しないのは、彼女にペオニサを異性と見る気がないということもあるのだが、ペオニサのその特性も関係があるのだろう。

だからといって、男色だと言ってしまうのは乱暴以外の何者でもない。

ただインファは、そんなペオニサの矜持を壊してしまうかもしれないと、危惧していた。壊してしまったら、あの一緒にいて楽しい友人は、そばにいてくれなくなってしまう。それが寂しいのは、手放しがたいのは、インファの方だ。

 ペオニサの背中を見つめるインファを見上げて、リティルはため息を付いた。

「おまえのそれ、恋なんじゃねーのか?」

「セリアとインジュには、その相手がペオニサならいいと、許されていますね」

「はあ!?あいつら、何考えてるんだよ!」

「早く、なんとかしなければなりませんね。オレのせいで、彼のプライドを踏みにじりたくはありません」

気兼ねなく接することのできないインファの態度が、皆に誤解を与えている。

リティルが「恋か?」と言ってみたのは、傍目にそう見えると、忠告したいがためだった。だが、それは必要なかった。インファも、それを自覚していたのだから。

あからさまと見える、際どい態度のペオニサと、もろに意識して見えるインファ。互いに、惹かれあって見えてしまう。同性だというのは、この際関係ない。

明るいペオニサが、副官として重圧を強いられるインファを救っていることは、誰の目から見ても明らかなのだから。同性でもいいなんて、精霊とは緩い生き物だ。

「人命救助なら、オレ、男でもキスできるぜ?」

「オレもできますよ?」

「おまえのそれは、人命救助なんだよな」

「彼に人命救助が必要なようには、見えませんが。……行きましょう。せっかくインジュが譲ってくれたんですから」

インジュは相手の命を奪えないが、防御と治癒を操れる。攻撃特化で切り込み隊長なリティルの戦闘スタイルの補佐には、インジュが適任だった。

インファは攻撃も防御もそつなくこなし、リティルとは魂で繋がっているような親子だ。相棒には申し分ないが、治癒を操れない。自身の怪我はリティル共に超回復能力で癒やせるが、他人の怪我は癒やせない。

レイビーも守らなければならない今、少しだけ弱点があるのだった。

インジュとラスは風の城に戻っている。四天王がこぞって城を空けなければならないほどの事案でもないし、件の香水の分析もしなければならないからだ。

風の城のナンバー1とナンバー2が関わっているだけでも、手厚すぎる事態だった。

「ねえ、インファこっちにいていいの?オレ、もう、1人じゃ絶対動かないよ?」

追いついてきたインファに、振り向いたペオニサは言った。その顔は、まだ怒っているらしかった。

「謝りますから、怒らないでください。ただ」

言葉を切ったインファを、何?とペオニサは僅かに見下ろした。

「セリアとインジュが、あなたならいいというもので、微妙に意識してしまっただけです」

「………………!?あ、え?あんたの奥さんの頭ん中どおなってんの!?もおヤダ!帰ってよ!インファ!」

「おいおい、十華……インファ兄も、それ言うか?」

リティルは、再び怒って離れようとするペオニサの腕を慌てて掴んだ。端から見たら痴話喧嘩にしか見えないと、リティルは内心苦笑いだった。

「十華、今日は帰ります。リティルの言いつけに背いてはいけませんよ?」

感情のこもらない声が背中にかけられ、インファの気配が遠ざかった。

もう、無理なんじゃないの?そんな、近しい人から初対面の人にまで、誤解されちゃって。なんで、オレってこうかなぁ?ベタベタと気安いのに、インジュは誰からもそんな誤解をされないのに、決して触らず言葉責めなペオニサは誤解されてしまう。それはもう、ペオニサの精霊としての理が作用しているとしか思えなかった。

レイビーは、彼女は特殊だ。宝城十華の1番の読者で1番の理解者である彼女は、ペオニサと同じ世界の住人だ。同性愛だろうがなんだろうが、現実だろうが非現実だろうがトキメけばなんでもいい。

違う。ペオニサが恐れているのは、インファの妃であるセリアや、2人の息子でペオニサの友であるインジュのような、生物的に普通の感覚をした者達に誤解されてしまうことだった。ペオニサの持つ異常性に、インファが、巻き込まれてしまうことが我慢できない。かといって、離れられない。

「ううう……」

「おい!落ち着けよ、十華!」

泣き出したペオニサにギョッとして、リティルはキョロキョロと辺りを見回すととにかくその場を離れたのだった。

こんな時でも「ペオニサ」と本名を呼ばないリティル達が凄いと思う。

 クエイサラー城下は、水路と並行した石畳の道が入り組んだ街だ。

複雑な道は、いくつもの広場に繋がる。広場にはそれぞれに特色があり、今自分がどこにいるのかわかるようになっていた。

ここには、大きな仮面をかぶった紳士の石像が建っている。仮面紳士の広場だった。

「落ち着いたかよ?」

水路の脇に置かれたベンチに座らされたペオニサは、紙コップに入ったオレンジのジュースを差し出すリティルに、俯いていた顔を上げた。

「うん……ごめん……」

「ありがと」と礼を言いながら、ペオニサはストローのさされた紙コップを受け取った。

「あれはインファが悪い。叱っといてやるから、気にするなよな」

「いいよ……オレのせいだから……」

「おまえも意識しすぎだぜ?インファ兄はたぶん、いつも通り返してほしかったんだと思うぜ?」

「あ……そだね……マジに返しちゃった……いつものオレなら『なにそれ!?ついに超絶美形のインファがオレの物に!』くらい言ってたよね?」

「はは。それで、インファ兄はどう返してくるんだよ?」

「ええ?たぶん、全力で拒否してくると思うよ?めっちゃいい笑顔でさ」

ペオニサは楽しそうに笑った。そして、顔を歪めて俯いた。

「オレ……壊しちゃう……」

壊れちゃうの間違いだろ?リティルはそう思ったが、言わなかった。もっと、自分本位でもいいと思ってしまう。インファに遠慮しすぎて、恋する乙女のような状態になっているペオニサが、ノーマルなだけに可哀想に思えてならない。

「おまえ、帰るか?あとはオレ達で何とかなるぜ?」

「そのほうが……いい?」

「仕事に関わらせたくねーのは、変わらねーんだ。けどな、おまえ見てると心配なんだよ。オレは関わっちまったし、今更誰かに引き継げねーしな……」

そばにおいておきたい。風の王が自ら守ってくれようとしていることに、感謝しかない。

「ありがと、リティル様。でもオレ、帰るよ。大丈夫。いつものオレに戻るからさ」

また戦闘になったら、ペオニサはただただ足を引っ張る存在に成り下がるしかないのだ。インファがいてくれても、何もできないままただ守られるのは歯痒すぎる。

「インファと、今は離れてたい……」

またこいつは、恋する乙女発言しやがって!いや、ペオニサマジックなのかもな。がたいのいい男なのに、なぜか可愛く見えるペオニサに、リティルは苦笑した。

 飲みきった紙コップを、ゴミ箱に捨て、じゃあ、行きますか!と足を踏み出そうとした時だった。

「十華様!」

不意に名を呼ばれ、顔を上げたペオニサとリティルは同時に強ばった。

声をかけてきたのは、あの、掟破り女・エカテリーナだったのだ。そして、彼女の隣にいたのは

「インファ……なんで……?」

「戻る途中、道を聞かれまして、ここまで案内したんですよ。知り合いでしたか?」

こいつ、マジか?リティルはインファの様子を窺っていた。この女は、ペオニサに堂々と薬を盛った信じられない既婚女性だ。それを、女嫌いのインファが、道を聞かれたからとエスコートするって、なんだ?とリティルは理解に苦しんだ。

「この界隈で、十華様を知らない者はいません。あなたの方こそ、お知り合いでしたの?」

エカテリーナの手が、インファの腕に触れる。

「あ、あ、あ、え、え、と。インファのバカ!なんでオレがいるのに、女の子のエスコートなんかしてんの!?最近忙しいって、構ってくれないくせに、他の、女の子!には優しいんだね!」

「ペ……十華?」

あまりの衝撃に、リティルは思わず「ペオニサ」と呼びそうになって何とか堪えた。

「ごめんね!この人、オレのなんだ!」

ペオニサはその勢いのまま、インファの腕を引き寄せ抱きしめると、逃げるようにその場を去った。置いていかれそうになったリティルも何とか後を追えたのだった。


 心臓が止まるかと思った。

彼女の――エカテリーナの目を見たとき、インファがその場で刺されると思った。

どこで、彼女はインファが宝城十華の知り合いだと知ったのだろうか。見せつけるようにインファに触れた彼女が恐ろしかった。

「ペオニサ」

「わっ!ご、ごめん!」

インファに名を呼ばれ、我に返ったペオニサは、抱きしめたままだったインファの腕を放して機敏に距離を取っていた。あまりの素早さに、インファが呆気にとられてそして苦笑するのを見た。

心臓が躍っていた。鼓動が収まらない。追いついてきたリティルの姿に、恐怖と状況整理のできない混乱した頭と心は限界を迎え、ペオニサは泣いていた。

「どうしたんですか?」

インファが戸惑っている。わかったが、グチャグチャになった心は収まるべき所に収まりそうになかった。

「どうしたじゃねーよ!おまえこそ、なんなんだよ?あれは!」

怒り狂うリティルが、ペオニサに落ち着けと言うふうに背中をさすって、腕を掴んでくれた。どこかへ行ってしまいそうになる意識が、何とかここへ繋ぎ止められる。

「あの女が、十華に薬盛ったり抱きついたりした、既婚者悪女だ!」

「彼女が?……そうですか」

インファが言うには、出版社に戻る途中、前から走ってきた子供を避けた拍子に件の彼女とぶつかってしまったという。大事なかったが、バタフライという店を探しているといわれ、成り行きで案内する羽目になったという。

「あの女……オレが偽りの彼氏だって気がついてたのか?けど、どうしてインファを?」

「――レのせいだ……」

掴んだ手から震えが伝わってきて、リティルはペオニサを見上げた。彼の白い顔が、蒼白を通り越していた。

「オレのせいだ!さっきのあのやり取り、見られて、それで……!オレが、巻き込んだ……」

「インファ……」

両手で頭を抱えて、その場に頽れたペオニサを、抱きしめてやりながらリティルは近づけないでいる息子を見上げた。

「好都合ですね。オレが標的になったのなら、こんな好機はありません。ペオニサ、あなたは王と帰還してください。もう、お遊びは終わりです」

「インファ!」

「帰還しなさい。今のあなたは我を失いすぎです。父さん、オレは明日改めてバタフライに行きます。彼女はおそらく仕掛けてくるでしょう。傀儡にすぎないか、黒幕と繋がっているか見極めます」

「わかった。オレがそばにいてやる。雷帝、存分にやれ」

インファは、片手を胸に風の王に頭を垂れた。

「了解しました」

王と家臣。その2人の姿を見せられ、ペオニサは阻害を感じた。

いつも、対等に付き合ってくれていた2人が、とても遠い世界に行ってしまった気分を、ペオニサは初めて味わったのだった。


 レイビーは、心配そうに窓の外を見やった。

「インファ兄なら、心配いらねーよ?」

背後から声をかけられ、振り返るとそこには、椅子に座ってこちらを見ているリティルの姿があった。

インファは今、5番街にある香水専門店・バタフライに行っている。昨日は行けなかったからだ。

 レイビーは、1人戻ってきたインファから事情を聞いていた。

あの、けしからんファンの女が、性懲りもなく現れて、宝城十華とインファの仲を誤解したあげく、彼を恐怖のどん底に突き落としたというのだ。身の危険を感じたインファとリティルは、十華を本部というところに保護し、彼女の身辺調査と件の香水を調べる為、誤解されたインファが囮になるという。

「十華とインファ兄の家族――オレもインジュ兄も家族だけど、インファ兄には奥さんがいるんだ」

「まあ、それは知らずにこの前は失礼なことを言ってしまいました」

彼が『花嵐の約束』と『宝月戦記』の主人公のモデルだと聞いて、舞い上がってしまった。インジュもラスも魅力的な殿方で、レイビーは怖かったことなど忘れて、彼等と宝城十華の小説について、お酒を飲みながら語り合ってしまったほど、皆気さくだった。

リティルは、レイビーの謝罪に首を横に振って笑った。

「インファ兄の奥さんは、十華の理解者だ。十華のヤツ、インファの容姿が好きすぎて際どいんだよな。それを、まるっと許して、いいぞ!もっとやれ!って人なんだ」

「なんて……素敵なお方!十華様はあの容姿であの性格です。どこか浮世離れしていて、わたし達とも節度を守って接していらっしゃいます。ので、どこかこの世の人ではないような気がして……ですが、あの方のお友達であるリティル様達に会えて、ああ、この人はここで生きていてくれているんだなとホッとしたのです。それなのに、こんなことで友情にヒビが入ってしまったらと思うと……」

「大丈夫だぜ?インファ兄も、過激な自分をあいつに見せねーから、ややこしくなってるんだ。インファ兄が、甘い顔ばっかりしてるから、十華のヤツ、遠慮ばっかりなんだよな!インファ兄、今回激怒だからな。すげー芝居打つぜ?そういう姿見せれば、十華も自分なんて大したことねーって思うと思うんだけどなー」

リティルは頭の後ろで両腕を組んで、椅子に座ったまま背をそらした。

 激怒。確かにインファは怒っていた。

インファに絶対に触れてこないペオニサが、インファのことを性的に絶対に見ないペオニサの、守っていた一線を越えさせたエカテリーナを、許す気はなかった。

際どい言動を、ペオニサは気にしている。インファがどんなに気にしていない、許していると言っても、インファまで変な目で見られるのでは?と恐れていた。彼女を躱せなかったのは、インファの落ち度だ。それなのに、ペオニサは守ろうとして、インファには絶対にしたくなかったであろう手を使った。

雷帝・インファの為に生まれた精霊――一度インファに受け入れられてしまったペオニサは、もう、インファから離れられない。彼の理が、インファから見放された瞬間、彼を殺すのだ。

インファには、ペオニサを手放す気はない。何があっても。

手放せばペオニサが死ぬからではない。インファが、ペオニサを好きだからだ。もちろん、友愛だが。

 件の香水は簡単に手に入った。

バタフライのオーナーも、話せばわかる人で、調香師の情報も手に入れた。あとは――

「あら、またお会いしましたわね」

来た。インファは、バタフライを出たところで、エカテリーナに声をかけられた。

「あの後、十華様とは仲直りできましたか?わたし、気になってしまって」

表情が、取り繕えていませんよ?インファは思ったが、ニッコリ微笑んだ。

「ええ、へそを曲げられてしまいましたが、わかってもらえました。今日は、詫びの品を買いに来たんです」

十華が買ってこいと言ったので。と、インファは苦笑を浮かべた。手にした紙袋は、かなりの大きさだ。これは、押収に近かった結果で、もちろんペオニサの我が儘ではない。

インファは念のため、フェアリアの香水を一式買ったのだった。

「そうでしたか」

貼り付けた微笑みで頷いたエカテリーナの視線が、インファの左手の薬指にあからさまに注がれた。

この大陸では、婚姻に際し、指輪を贈りあいその指輪を左手の薬指にする習慣がある。インファのこれも妃との婚姻の証だが、精霊は、自身の霊力で作ったアクセサリーを贈りあうことで婚姻が成立するため、お揃いであることも、形状も問わない。インファは、たまたま婚姻の証が左手の薬指にある指輪の形をしていたので、利用することにしたのだ。やはり彼女は食いついてきた。

「十華様はいじらしい方ですわね」

「ええ、そうですね。そんなあの人が、オレは大事です」

既婚者でありながら、同性の恋人がいることを悪びれもしない態度に、彼女の表情が瞬間強ばった。

自分のことは棚に上げるんですね。インファは思った。彼女にも夫がある。それなのに、恋人同伴で訪れたペオニサに堂々と薬を盛っている。リティルはあらゆる事態を想定してくれていた。同行したのがインファだったなら、ペオニサは薬入りのお茶を飲んでしまっていたことだろう。そう思うと、不甲斐ない自分が腹立たしくて仕方がない。

「奥様は、知っているのですか?」

「妻は気がつきもしませんよ。十華が同性だというのは、最高の隠れ蓑ですね」

彼女の夫は、どういう人物なのだろうか。裕福で、昼間に長い時間家を空けていられる自由さを妻に与えている男。

「この前は、掟を破って抱きついてきた女のところへ行くと言うので、驚きましたよ。取り乱して、弟に、監視を頼んでしまいました。十華が、オレ以外の誰かとそういうことになるのは、許せませんからね」

暗に肉体関係にあることを匂わせてやると、彼女は感情をその瞳から消した。

「なぜ、ご自分で行かなかったのですか?」

「外せない仕事があったんです。昨日、やっと時間が取れたんですが、怒らせてしまいました。上手くいかないものですね。まあ、今日はその分甘やかしますが」

恋人のご機嫌取りも大変だ。と、インファは笑うと「では」と言って彼女と別れた。

背を向けると、ヒシヒシと憎悪を感じた。

釣れた。インファはそう確信したのだった。


 風の城に戻されたペオニサは、一家の集う応接間に置かれた専用の机に向かっていた。

しかし、執筆はまったく進んではいなかった。目の前の、ワインレッドの布張りのソファーにいるインジュが、水晶球で真面目な話をしていることも、原因の1つだった。

通信の相手は、インファなのだ。

「突いてくるくせに、表情は三流です?我が儘お嬢様なんです?その人」

『これまでの人生、何不自由していないようには見えましたね。香水はどうでしたか?』

「リャリスが分析中ですよぉ。でも、ちょっと苦労してます。蛇って、強い匂いに弱いんでしたっけ?匂いに酔うって、苦しんでますよぉ」

ボクの奥さん可哀想!とインジュは顔をしかめた。

智の精霊・リャリスは、煌帝・インジュの妃だ。そして、牡丹の精霊・ペオニサの姉でもある。彼女は今、件の香水にどんな秘密があるのかあらゆる観点から分析中だ。

『ジュールに来てもらってください。花の王なら、匂いは大丈夫でしょう』

「わかりました。頼んでみます。魔物狩りはラスとノインが仕切ってるんで、心配しないでくださいねぇ。ボクも、城に常駐してますからね」

『ありがとうございます。そちらの憂いがない分、こちらに没頭できるのでありがたいですね。ペオニサは……いますか?』

「ペオニサです?……いませんねぇ。伝言伝えますけど?」

チラッとこちらに視線を寄越したインジュに、ペオニサはいないって言って!と言ってしまった。インジュは汲んでくれたが、案じてくれているインファを拒否してしまった罪悪感は、計り知れなかった。

『では、昨日は軽率なことを言ってしまい、すみませんでしたと。それから、あなたの機転に救われました。ありがとうございますと伝えてください』

「では」とインファは水晶球からいなくなった。

「お父さん、余裕ないですねぇ」

「ホントに、オレがいること気がついてなかったの?」

「はい。気がついてませんでしたねぇ。ダメですよぉ?お父さん、案外脆いんですからぁ。心配事あるなら、言っちゃってくださいよぉ。お父さん、臆病なんで自分からはよっぽどの事態にならないかぎり、聞いてきませんよぉ?」

「臆病って……あれ、当てはまるかなぁ……」

「ペオニサはお父さんの友達ですからねぇ」

「一家の一員だよ?ノインと何が違――って、違うねぇ……。ノイン、あんたの戦闘指南役で、リティル様のお兄さん。オレは、ただの居候」

力の精霊・ノイン。風の精霊だったが転成し、記憶を失ってしまったリティルの兄だ。それからは、立ち位置が微妙になってしまったが、聡明で強くて頼れるところは変わっていない。インファの相棒というが、彼とは友人のような付き合い方をして見える。今でも頼まれれば、風の城の通常業務である魔物狩りの采配を、軍師のインファ並に采配してしまう凄い人だ。

「こっち側に、来たいんです?」

自分の膝に肘をつき、頬杖をついたインジュが、ペオニサを意味ありげに薄ら笑いながら見上げていた。

「え?……許される?オレがそんなこと言い出しちゃったらさ、インファ、またすげぇ負担になるんじゃない?」

「なるかもですねぇ。でも、悪くないかもですねぇ。でも、そうなっても戦闘行為は、やらせられませんけど」

「オレ、そんな壊滅的?」

「いいえ。たぶん、鍛えればラスと並ぶくらいにはなると思いますよぉ?でも、ダメです。戦えるだけなら、この城にいっぱいいますからねぇ。ペオニサには、ペオニサにしかできないことをしてもらいたいんですよねぇ」

「そんなことある?」

「はい。結構重要ですよぉ?」

「なんなの?」

「雷帝・インファの精神的補佐です」

この人、知らないってリティル様言ってたけど、ホントは知ってるんじゃ?と思える発言だった。

「………………それ、恋人になれとかじゃないよね?セリアとあんたが許してるとか聞いたよ?」

「あはは!誰から聞いたんです?お父さんですかぁ?だとしたら、お父さん、ウケますぅ!」

「笑い事じゃないって!それ聞いてオレ、真面目に返しちゃったよ!?ど、どうしよう?インファ、変な誤解してないよね?」

オレが意識してるの丸わかり!とペオニサは青ざめた。

言い出したのは、雷帝妃・セリアだ。その場にはインジュもいたが、あのインファが妃の意図を読み違えて、いや、額面通り受け取って大いに動揺していたことを、インジュは思い出していた。

「オレが愛しているのはあなただけですよ!」と詰め寄られた母が、ゆでたタコみたいに真っ赤になっていて、この夫婦何してるんです?と面白かった。

「今更しませんよぉ。ペオニサはこの城で1番硬いじゃないですかぁ。でも、ボク、別にいいですけどねぇ」

「嘘ぉ……その感覚、ごめん、わからない……」

「宝城十華は、垣根のない官能小説家なのにです?」

「不倫ってヤツ?どっちかが不幸になるじゃない?婚姻まで行ったのに、結ばれたモノが解けちゃうような恋は、オレ、嫌だ。オレが作ってるのは創作。創作の中でだけでも、幸せにしたいんだ」

「そういうとこなんですよねぇ。これからも、お父さんに、愛、囁いてくださいねぇ?」

「囁いてない!叫んでる!健全、オレ、超健全!」

「あはは、叫ぶっていいですねぇ。あ、ペオニサ、歌、覚えません?」

「え?歌?なんの?」

「ペオニサなら、いけると思うんですよねぇ」

「ねえ、なんの歌?」

「マスターしちゃったら、驚きですねぇ。あはは、お父さんの驚く顔見たいですねぇ」

「おーい、インジュ?戻ってきてー?」

 雷帝妃・セリアは、あの日、インファに詰め寄った。

「あなた、最近変よ?どうしてペオニサを避けてるのよ!」

詰め寄られたインファは、何事?と言いたげにセリアを見上げていた。

「避けていませんよ?今朝もペオニサの挨拶を聞きましたし」

顔を合わせると、ペオニサはインファに綺麗だなんだと、傍目には口説いているような言動を繰り返す。それは最早、名物のようになっていて、ペオニサの挨拶だと皆認識している。

「違うわよ!何かぎこちないのよ!ねえ、わたしに何か遠慮してるの?」

「はい?遠慮していないと思いますが……」

「わたし、ペオニサならいいわよ?インファが望むなら、いいわよ?」

「待ってください!セリア、オレが愛しているのはあなただけですよ!」

普段言わないことを言い切られ、セリアは一拍おいて真っ赤になった。

「ええ!?違っ……違わないけど、違うわよ!」

「どう違うんですか?ペオニサは友人です。オレとのやり取りは確かに際どいですが……肉体関係を意識したことはありませんよ!」

セリアはもう、頭から湯気が出るのではないかというほどで、口をパクパクと開閉していた。ああこれはダメだとインジュは思い、助けを船を出すことにした。

「アハハハハ!お父さん!ウケますぅ!でも、ボクもペオニサならいいですよぉ?肉体関係でもいいですけど、それより向いてるモノ、あると思いますけどぉ?」

「イ、インジュ!これ以上誤解させちゃダメよ!そもそもどうして、エッチな展開になってるのよ!」

「アハハハハ!もしそんなことになったら、ペオニサ泣いちゃいますからねぇ。違いますよぉ。お母さんが言いたいのは、隣に侍らせてていいってことですよぉ。お父さん最近、ペオニサと物理的に距離取ってませんでしたぁ?」

「そんなことは、ありませんよ」

インファには珍しく、嘘が失敗していた。

「ペオニサもなんか、近づきづらそうにしてますしぃ、端から見ると初々しいですよぉ?心配事ですぅ?ペオニサ、特殊ですからねぇ。戦いばっかりのこの城の空気に、当てられちゃってますぅ?でも、留まるも行ききるのも、ペオニサ次第ですよぉ?」

「そういう意味での導きは、ペオニサには必要ありませんよ。ただ……隠し事があるようです。それが、彼を壊すモノではないかと、危惧しているだけです」

「もしかして、それを聞きたいのに聞けなくて、言ってくれないからもどかしくて、そんな変な距離感になってるんです?アハハハハ!お父さん!ウケますぅ!」

「もお!心配して損した!」

怒りながらホッとしている母が、父を本当に愛してるんだなぁとインジュは思って、更に大笑いしたのだった。

だが、確かに2人の様子がおかしいことには、インジュも気がついていた。父のあの様子では、あり得ない事にはなっていないようだが、インファが、何か言いたげにペオニサを見ることがある。ペオニサもそれには気がついている様子だが、戸惑っているようで、そんなときは様子を窺うような素振りを見せた後、軽口を叩いて逃げてしまう。

 なんだかわからないが、そんなインファの様子と、ペオニサの言動が誤解を招きそうな空気を作ってしまっている。

面白いが、そろそろ何とかしないといけないなとは、インジュも思っていた。

インジュのこの目論見がどう転ぶかわからない。だが、せっかく一家の一員として一緒に暮らせるようになったのだ。ペオニサと、これからも面白おかしく生きていきたい。


 二反属性フルスロットル。

それを聞いたとき、ペオニサを風の仕事に関わらせてはいけないと、ラスは強く思った。

旋律の精霊・ラスは、六属性フルスロットルだ。

それは、自然を形作る基本的な力である、光、闇、大地、風、水、火を、常に百パーセントの力で使える事を意味していた。

力には、反する力同士が引き合って均衡を保つ性質がある。風と相性のいい者は、否応なく反属性である大地と相性が悪く、大地の力が使えても弱くなる。

中でも、光と闇は、どちらかしか習得不可能な危ない力だ。六属性フルスロットルのラスでさえ、闇と光を使う際は細心の注意を払う。重ねて使ったり、続けて使っても危ない力だ。

ペオニサの使える4つの力は、風と大地、そして光と闇。すべてがフルスロットルだ。

彼をそれを、どうやら知らない様子だ。偶然知ったインジュも、ペオニサの力に触らない方がいいと断言している。

リティルとインファは、故に、戦いが常に付きまとう風の仕事に関わらせない。

命を奪うには向かないとインジュが断言するが、一家との手合わせではそこそこ戦うペオニサの剣を侮っている者は、この城には実はいない。治癒魔法もあれでいて強力で、血にも怯まないペオニサを治癒係として使ってはどうかと、そんな意見も出始めていた。

そんな声が出始めて、インファの、ペオニサに対する態度がおかしくなった。一家に力を求められ始めたことをまるで知らないペオニサは、インファの微妙な態度の変化を敏感に感じ取った。ペオニサはインファに普段通り絡むが、遠慮するようにすぐに離れるようになっていた。

「ジュール」

ラスが妻の歌の精霊・エーリュと、風の通常業務である魔物狩りから戻ると、応接間のソファーに彼はいた。

「おや、久しいなラス、エーリュ。香水の分析とやらに、呼ばれたのだ」

緑色の波打つ髪の、ずいぶん優しい顔をした見目麗しい二十代後半の男性。キシタアゲハの羽根を持つ彼は、花の王・ジュール。智の精霊・リャリス、牡丹の精霊・ペオニサ姉弟の父だ。リャリスと婚姻を結んでいるインジュとは義理の親子関係にある。

イシュラースの三賢者の筆頭という、賢魔王の異名を持つ精霊だ。

「愚息が迷惑をかけたらしい。すまんな」

「迷惑じゃないよ。ペオニサのおかげで解決できそうだから」

「しかし、仕事を首になったのだろう?インファを怒らせたと聞いたが?」

ソファーにいるのは、インジュとリャリス、そしてペオニサだ。ラスは、チラッとソファーにいる面々を見て、笑みを浮かべるジュールに視線を戻した。

「彼が腹を立てているのは、ペオニサに対してじゃない。ペオニサにちょっかいをかけた女性に対してだ。インファが嫌いなタイプだったから」

「だ、そうだ。よかったなペオニサ」

「よくないよ!インファ、オレの恋人に間違えられたんだよ!?」

「いいじゃないですかぁ。お父さんなら、リティルより甘々な恋人演じてくれますよぉ?お父さん、やるとなったらノリノリなんで、楽しめたと思いますけどねぇ」

「ダメ!リティル様相手でも挙動不審だったのに、インファ相手なんかまともに顔見れないよ!」

「そういう態度が、お父さんの役者魂に火つけちゃうと思います。今頃、どんなシナリオになってるんですかねぇ?」

興味ありません?フフと笑ったインジュの瞳が、ペオニサの腹の内を探るようだった。

「知りたいような……知りたくないような……。あああああ!美味しいって思っちゃうオレはヤバイヤツ!」

「行きますぅ?三兄弟の長兄と末弟なら、十華のことガッチリ守ってくれちゃいますよぉ?」

インジュにグイグイ攻められ、それでもペオニサは踏みとどまった。

「い、行かない!インファには……遊びは終わりだって言われたし……」

「あはは。怒ってますねぇ。楽しそうでリティルが羨ましいです。でも、ボクはこっちなんで」

やっとインジュは引き、ペオニサは胸をなで下ろした。

「ああ、見せてみろ」

「こちらですわ。お父様」

サファイアブルーの真っ直ぐな長い髪の美女は、ジュールを伴って、応接間を出て行った。インジュは一緒には行かず、花の王と妻の背中を見送った。

 ペオニサは、父の姿が見えなくなると、ハアと長いため息を付いた。

「そんな緊張します?自分のお父さんですよぉ?」

「だからだよ……オレは落ちこぼれ次男!……今は長男か」

「ボクに似てますよねぇ。ペオニサって」

「ええ?似てないでしょ!?だって、インジュだよ?風の城の補佐官、煌帝・インジュ様だよ!?姉ちゃんの夫の」

「はい、風の王の補佐官、煌帝・インジュですねぇ。ペオニサのお姉さんのリャリスの夫です。ちなみに、雷帝・インファの息子で、風の王・リティルの血を引いちゃってますねぇ。ボクって実は凄い精霊なんですよねぇ。でも、それは今のボクです。昔のボクはこんな重圧、耐えられるような精霊じゃなかったですよぉ?若いんですよねぇ、ペオニサは」

「あはは。ま、そうだね」

インジュの言に同意してしまって、ラスは笑ってしまった。ペオニサにはジトッとした目で見られてしまった。

「ラスまでぇ。でも、やっぱりオレはインジュには似てないよ。あんたみたいに、力がある精霊じゃないしね」

「そうですかぁ?そう思ってるのは、自分だけかもですよぉ?」

「何それ怖い!でもいいんだ……オレ、落ちこぼれで……あ、ダメ?それじゃ、風の城にいられない?」

「それはない。むしろ、出られない。かな?」

「はい。リティルは手に入れたモノ、手放さないですからねぇ。ペオニサは永遠に風の王・リティルのものですよぉ」

「あ、それ言われた。じゃあ、安心だね!」

「アハハハハ!安心って言えちゃうペオニサはバカですねぇ!」

「うん。そこはバカでいい。リティル様は優しいし、それに、ここには――がいるからね」

フフと笑うペオニサに、インジュとラスはハッと瞳を見開いたが、すぐにその瞳が優しくなる。それを見て、ペオニサは罪悪感の滲んだ瞳をしたが、次の瞬間には彼らしい明るい笑みを浮かべていた。住処にするなら、ここがいい。ここしか選べなかったとしても、ここを選んでよかったと、受け入れられてよかったと思う。

 オレは、どうなるんだろう?それを、何度も唐突に思う。

リティルは、ペオニサを完成された精霊だという。しかし、こんな、自分の事がわからない精霊を、完成されていると言ってしまっていいのだろうか。

ペオニサはただ、この城へ、逃げてきただけだ。両親のいる、生まれ育った城に、居場所をなくし、ここに、逃げてきただけなのだ。


 ジュールは、やっと扉の前から動き始めた。

「満足しまして?お父様」

聞き耳を立てていた父王の様子に、リャリスはサファイアブルーの糸のような切れ長な瞳に、優しげな笑みを浮かべて微笑んでいた。そう言われたジュールは、バツが悪そうに娘を見やったが、小さく息を吐くと、応接間へ入る扉の、廊下を挟んで向かいにある古めかしい木の扉を開いた。

 中へ入ると、1番に目に飛び込んでくるのは、部屋の奥、窓際に置かれた大きな釜だ。釜の隣には、小さなシンクとコンロがある。まるで、小さなキッチンだ。

いつもは、乾燥したハーブなどの草や花の匂いのするリャリスのアトリエだが、今回は、人工的に作られた香りがかすかにしていた。

リャリスは、ジュールに椅子を勧め、自身は雑多に物の置かれた作業テーブルへ向かった。その後ろ姿を目で追ったジュールは、彼女の作業テーブルの上に似つかわしくない可愛らしい小瓶が置かれているのを見つけた。

「ペオニサは、元気か?」

「あら、先ほど会ったではありませんか?」

リャリスは大袈裟に目を見張った。

「あいつは根っからペテン師だ。本心など見せはせん」

「1番お父様に似ていますわね。おじ様が、守ってくださっていますわ」

「リティルか。インファではなく?」

「お兄様は、ペオニサが話さないものですから過剰に心配してしまいまして、今、微妙ですのよ。あの方、存外不器用なのですわ」

リャリスは紙の束と香水瓶を持って、ジュールの待つテーブルへ帰ってきた。

「何があった?」

「ペオニサは、ああ見えて案外やる子ですのよ。一家の皆様が気がついてしまいまして、風の仕事に関わらせようという動きがあるのですわ。花の精霊は大地に近いですから、あの子の持つ治癒の力を当てにされたのですわね。加えてペオニサは、血を見ても笑っていますもの。関係のないことをベラベラ喋りながら治療しますのよ?会話が終わる頃には処置が終わっていて、それがいいのだそうですわ」

リャリスは心配そうにため息をついた。

「あいつが優秀なのは、当然だな」

「お父様」

リャリスの咎める声に、ジュールは首を竦めた。

「そう怒るな。反省はしているのだ。だが、あいつが二反属性フルスロットルという特異体質になってしまったのは、わたしのせいではない」

「どうだか。そのせいで、お兄様とおじ様が苦心していますのよ?偶然知ってしまったインジュが、お父様が何も言わないことで、触らない方がいいなどと言っていますし、ラスもそれに賛同していますの。四天王に辛うじて守られている現状ですわ」

「インファを怒らせたというのは?」

「痴話喧嘩ですわ」

「そんな仲か?」

そうは見えなかったがと、ジュールは真に受けそうになった。

「冗談ですわ。しかし、いい状態ではありませんわね。この城の者はなぜこんなに寛大なのでしょう?」

「それは、インファとリティルがこの城の命だと、知っているからだ。そうか、ペオニサはそんな位置に納まってしまったか」

「納まっていませんわ。ペオニサは抵抗して、お兄様は知ってしまっているだけに自然体でいいと言えないでいるのですわ。その姿が……もどかしくてもどかしくて!ああ!同性ですのよ!?しかも、一方は妻子持ちですのよ!?ペオニサマジックですわ!?あの子、たちが悪すぎですわよ!」

リャリスは悶えた。しかし、妙だなと思う。今日花の精霊以外、特殊な恋愛関係に耐性がある者は少ない。リティルも得意な方ではなかったと思うのだが……妻子持ちで女嫌いのインファとペオニサという組み合わせに、拒絶反応が起きていないのはいささか歪に映った。

恋愛……恋愛……何でも思い通りに人の心を操作できるものといえば……創作の中?今この城は、恋愛小説の中にあるのか?と変なことを考えて、はたとジュールは思い当たった。

「あいつのあれは、固有魔法か?」

「え?といいますと?」

「シナリオを書き、登場人物を踊らせる。あいつは、わたしに次いで縁結びの力が強く、魅了の力は超弩級だ。故に、恋愛という、論理とは真逆の感情に支配されることはない。不自然だろう?今、ペオニサを取り巻く状況は。ペオニサが抵抗しているといったな?リティルとインファは、そのシナリオの外にいるのか。それとも、2人には効かないか。リャリス、インジュとラスに喝を入れろ!踊っている場合ではないぞ?」

「ですが、本当ですの?」

リャリスの戸惑った顔に、ジュールは険しく眉根を潜めた。おかしいと思いながらも心が信じてしまう。違和感は、精神攻撃をされていることに抵抗している証だ。

リャリスは、自分で言って、違和感に気がつかなかったのだろうか。同性で、相手はあのインファだ。だのに、インファを兄と慕い、ペオニサを理解しているリャリスにも恋人のように見えている。こちらからすれば、そんな娘にこそ、違和感しかない。

困った息子だ。魔法の構築は、想像力がモノを言う。ペオニサは、知らず知らずに精神に作用する魔法を、作り上げたのだろう。

世話の焼けるヤツだ。本当に風一家に魔法をかけてしまったのなら、ペオニサを1度手元に戻して、調べなければならないなとジュールは思った。

「インファは仕事か。では、インジュに調べさせろ。ペオニサが自滅する前に、止めてやれ」

「わかりましたわ。まったく、世話の焼ける子ですこと!」

「勝手に追い詰められたのだろうよ。あいつは、存外器用なのだがな、インファの前では子ウサギのように震えてしまう。真価を発揮できん。インファの為にこそ、使わねばならないというのに」

「お兄様に突き放されていますもの。お兄様のそれは、不器用故ですけれど。よく受け入れられましたわね。私の率直な感想ですわ」

「そうか?ペオニサは、一切インファに求めてはいない。それは今も変わってはいないだろう?インファは常に求められる立場だ。好きだと体現しながら何も求めてこないペオニサに、情が湧いたのだろう。しかしインファは、頼られることが生きがいのような男だ。問題を抱えているのに、一向に頼ってこないペオニサにヤキモキしているのではないか?」

 さて、仕事するかと、ジュールはこれまでリャリスがまとめた資料に目を落とし始めた。

「上手くいきませんわね。もどかしいこと!」

ジュールの向かいに机を挟んで置かれた椅子に座り、リャリスはジュールにこれまでのいきさつの説明を始めた。

「ふむ。被害者は皆、香水の匂いをさせていたと?全員が、女誑しの女の敵か」

「はい。そして襲いかかってきたのは、邪精霊だったとおじ様が報告してきていますの」

「邪精霊……」

香水の香りを標的に、邪精霊が対象が殺す?妙な事件だ。香水はグロウタース産なのに、精霊が使役されている。しかも邪精霊とは。本来なら、グロウタースの民になど従う存在ではない。遭遇するか呼び出した時点で召喚者は殺されているはずなのだから。

「サンプルはありませんわ。お兄様が消し炭にしてしまわれましたもの。言い訳は、本体ではないとの事でしたけれど、明らかにやり過ぎましたわね。その場に、ラスとインジュも行きましたのよ?」

「邪精霊1匹に、四天王全員か。フフフフ。愛されているなぁペオニサ!」

風の城で達者でやれているのか、これでもジュールは心配していたのだ。

「笑い事ではありませんのよ!ペオニサが襲われたその場に、秘書の女性もいたとか。今までと状況が違うと、おじ様は慎重ですのに、お兄様ときたら、同性の恋人がいる既婚者男性を演じて、ペオニサにちょっかいをかけてきた女性をターゲットにしていますのよ?」

「そもそも、なぜそんなことになったのだ?」

「ペオニサに、香水の残り香をくっつけた女性に探りを入れることになりましたの。インジュが、言い出したのですわ。もっとも、まったく関係ない男性が同行するのは、おかしいからということからだったのですけれど」

四天王の誰かが、ペオニサについて行くための苦肉の策だった。そして、同行したのはリティルだった。ジュールは当然の人選だなと納得した。

まるで姿の見えない殺人鬼の関わるこの事案に、戦う力を持たないペオニサとその人間の秘書を無防備に関わらせるわけにはいかない。インジュが咄嗟に考えた策は、自然に四天王の誰かがペオニサにベッタリくっつくために、理にかなっていたのだ。

「ああ、ペオニサに同行するなら、自然の流れではその人間の秘書ということになるな。インジュは危険に鼻がきくからな」

「インジュの勘は当たりましたわ。ペオニサったら、お茶に薬を入れられましたのよ?おじ様が演じてくださらなかったらあの子、飲んでしまっていましたわね。おじ様、お兄様をすぐに帰そうと思っていらしたのよ。それなのにお兄様ったら!あげく、ペオニサに誤解を与えるようなことを言ってしまって、お兄様……何を考えていますの?」

「フフフフ。ずっと聞いていてやりたいが、後にするとしよう。これが、その香水か」

ジュールは、雪だるまのような形の薄ピンクのガラス瓶を手に取った。瓶は……グロウタース産の何の変哲もないガラス瓶のようだ。

「成分は、普通の香水と変わりありませんでしたわ。霊力、魔力ともに今のところ感じませんの。けれども、香水の匂いをつけて帰ってきたペオニサからは、力を感じたと、お兄様が言っていましたのよ。偽物なのでしょうか?」

「これは、その女性からのプレゼントだったのだったな?香りは同じだと?」

「ええ、おじ様が証言していましてよ。私、香水の匂いは受け付けないようで、苦心しておりますの」

「そういう話だったな。しかし、おまえはわたしの娘だ。おまえの母も花の精霊なのだがなぁ」

香りは、花の精霊の範疇だ。智の精霊という花の要素のない精霊であるリャリスだが、花の精霊の持つ特色、性的魅了などの恋愛体質に耐性があるはずだった。

ジュールは、香りを確かめようと、不用意に香水瓶の蓋を開けてしまった。


 視界が白い湯気に煙っている。

ペオニサは、なぜこうなったのかと、まったく飲み込めてはいなかった。

ええと、何があったんだっけ?

ペオニサは、キチンと洗え!と叱責されながら、ワシャワシャとジュールに頭を洗われながら思い返していた。自分で洗えるから!と猛抗議したのだが、父は放してくれなかった。

仕方なく身を任せると、なかなかに気持ちいい。「親父、テクニシャンだね!」と褒めると「この状況でそれか?」と父王には珍しく楽しそうな笑い声が背後からした。

隣からは「仲良しですねぇ」と笑う泡だらけのインジュがいる。

3人はなぜか、風の城の浴室で仲良く体を洗っているのだ。

 なぜこうなったのか?ジュールとリャリスがアトリエに行ってしばらくしたころ、ただ事ではない物音がして、何事?と後先考えずに、インジュとラスとともに廊下に出た。

「ペオニサ!来るな!」

廊下に転がり出てきていたジュールが、床に倒れたまま叫んだ。いつも余裕の笑みを貼り付けている父王が、珍しく余裕のない顔でペオニサを見上げていた。あまりの剣幕に一瞬立ち尽くしたペオニサは、香りを嗅いだ。気がした。

「インジュ!香りを封じ込めろ!」

敵の姿が見えないのはインジュとラスも同じだったが、ジュールの声にインジュはすぐに動いた。キラキラ輝く金色の風が放たれたかと思うと、鼻孔をくすぐった香りはすぐに感じなくなっていた。

「ペオニサ!風呂だ!インジュ、付き合え!」

「え?え?な、なに?なんで?」

「はいはい、行きましょう!」

ペオニサになぜか近づけないらしいジュールに指示され、ニコニコ笑いながらインジュに風の城の浴室まで連行されて今に至る。

「ジュールさん、香水本体じゃなくて、香りがダメだったんです?」

隣では、長いそれはそれは綺麗な金色の髪を洗い終わって、顔にかかる髪を掻き上げているインジュがいた。

お湯が滴り、金の髪がその裸体に流れるように張り付いている。優しげなその面立ちと湯煙の魔法で、天女の湯浴みを覗いたようなそんな背徳感が漂っていた。

「うわ!エッロ!」

思わず零れ出た感想に、インジュはキョトンとした。

「こんなこと言ってますけど、ボク、イケてます?」

インジュは腕を持ち上げると、グッと力こぶを作ってみせた。しかし、力こぶは出るものの、逞しいとは言い難い腕の太さだった。

「おまえは格闘家のくせに、細いな」

インジュの筋肉はついているが華奢な体を、上から下まで観察したジュールは、貧弱と称した。

「そうなんですよねぇ。リティルの方がいい体してるんですよねぇ。ペオニサくらいのがたい、あったらよかったんですけどぉ」

いいですねぇ、男らしくて。とインジュにマジマジと体を見つめられ、ペオニサはなんだかわからない羞恥で飛び上がった。

「象を殴り飛ばせるのに、何言ってんの!?」

「迫力ないじゃないですかぁ。ペオニサの方が強そうですよぉ。絶対負けませんけど。そういうジュールさんは……ボクより薄くないですかぁ!?元5代目風の王ですよねぇ?」

「この顔に、筋骨隆々な肉体は不釣り合いだろう?精霊とはそういう生き物だ」

「でも……いい体ですねぇ……いやらしいって、こういうのを言うんですねぇ。さすが、稀代の色欲魔!」

「インファやノインには負けるぞ?」

2人は体型が似ているが、ノインの方がインファより背が高かったと思う。細身ですらりと背の高いノインだが、実は隠れマッチョだ。ペオニサは腕を見せてもらったことがある。ぬ、脱いだら……多分凄い……とペオニサは想像しそうになった。

「あの2人は別格です!腹筋って、ホントにあんなに割れるんですねぇ。ペオニサは一緒にお風呂入っちゃダメです。一瞬で逆上せちゃいますから」

「いや、やめてよ!妄想しちゃうからぁ!で、でさぁ、あの香水って?」

ザバーッとお湯を頭からかけられ、ペオニサは顔に流れるお湯を手で拭いながら問うた。

「ああ、まじないだな。込められた想い自体は、悪ではない」

洗い終わった3人は、フーと息を吐きながら、広い湯船に浸かった。

「だったら、なんであんな慌ててたの?」

「……おまえには、害となると思ったからだ。心に違和感はないか?」

「え?別に、普通だよ?あの香水、クエイサラーで流行ってる恋に効くおまじないのアイテムなんだ。個人の調香師の商品らしくて、出回ってる数は少ないらしいけど、話題になるくらいだから、それなりに流通してるはずだよ?」

「出回ってる数の割に、事件が少ないって事ですかぁ?」

「うん。だからさぁ、香水のせいなのかなぁって」

「おまえはバカだが、鋭いな」

「そうなんですよねぇ。そういうとこなんですよねぇ。ジュールさん、お父さんから追加の香水が届くんで、確かめてもらえません?」

「いいぞ?だが、あの香水が悪用されているとすれば、その調香師に同情する」

優しい花の香り……あの香水には「アカシア」という名がついていた。シリーズ名は「フェアリア」。

アカシア……ジュールは、これでも子煩悩な父親だ。11人いる子供達を愛している。

ジュールには捜している息子がいる。しかし、見つけていいものなのか葛藤しているために、まったく捜索は進んでいない。捜していることを、誰にも伝えていない。

花の王の11番目の子。ミモザの精霊・アシュデル。ジュールのしでかしたことに巻き込まれ、末の息子は失踪してしまった。リティルにはイシュラースを去ることを告げていったらしいが、リティルも彼の居場所を知らない。

ジュールは彼に何の実験も施してはいないが、魔導に類い希なる才能を持つ、秀才だった。将来を期待され、産まれた時からの幼なじみであるリティルの末娘と、婚姻を結ぶはずだった。それをジュールが過去に犯した過ちのせいで、引き裂き壊してしまった。

アシュデルを忘れたことはない。今はただ、平穏無事に生きていることを願っている。本腰を入れて捜せないのは、ジュール自身、彼とどう向き合っていいのかわからないからだ。

「親父が珍しいね」

ペオニサが驚いていた。そうなのだ。ジュールはそういう男だ。

その調香師に同情してしまったのは、きっと、アシュデルを思い出させたからだ。

おまえは今、どこにいる?息災か?無事を確かめたいが、そっとしておきたくもある。

アシュデルの面倒をずっと見ていたペオニサは、弟はグロウタースにいるのでは?と捜していると聞いた。だが、あんなに懐いていた兄のペオニサにも、未だ連絡1つ寄越さない。

そんな末息子の徹底した態度に、ジュールは怖じ気づいていた。

「あれに込められたまじないは、恋愛成就だ。それも、勇気を持てない者の背を押すものだ。作用するのは、つけた本人の心で、嗅がされたほうではない」

あの香水の香りを嗅いだとき、強くアシュデルを思い出した。それは、アカシア――ミモザの香りだったからなのだろうか。それとも、縁結びの願いを感じたからだろうか。

いずれにしても、あれを作ったのは魔導士だ。

 ジュールは気を取り直した。

「え?でも、被害者ってみんな香水の匂いさせてたって……あれって、女性物だよね?残り香?じゃ、じゃあ、犯人は女性って事!?」

「いいえ、犯人は邪精霊です。ボク達は、ターゲットにその香水の匂いをつけて、襲わせてるんだと思ってました。どうしてそんなこと思ったのかっていうとですねぇ、ペオニサが香水の香りを移されて帰ってきたからです」

「なるほど、それで同性の恋人とかいう、冗談のような手を使ったというわけか」

「はい。犯行はいつも夜でしたけど、あの女性が犯人なら女性宅で襲われかねなかったからです。ホントなら、行かせられませんよぉ。でも、やっと掴んだ手がかりだったんで、逃すわけにはいかなくてですねぇ」

すみません。と、インジュは頭を垂れた。

「ちょっと!なんで謝るの!?オレも風一家だよ?構成員使って何が悪いの?」

 インジュは複雑な顔をしながらも、口を開いた。

「ペオニサは一家ですけど、ボク達四天王の中では保護中の精霊って認識なんです」

「保護……?」

「言いたくなかったんですけど、ペオニサ、自分のこと、どれくらい理解してます?自分が二反属性フルスロットルだってこと、知ってます?」

インジュの真剣な瞳に、ペオニサはたじろいだ。しかも、よくわからないことを言ってくるのだ。戸惑いもする。

「なに?もう一回言って?なんのフルスロットル?フルスロットルって、ラスみたいな?」

「ラスは、六属性フルスロットルです。もっといっちゃってます。けど、ペオニサのそれも、かなり危険ですよぉ?ペオニサは、大地と風、光と闇です。ラスも心配してますけど、精霊大師範のお父さんはそれはもう、これでもかってくらい心配してます。でもですねぇ、ペオニサは戦えない精霊って位置づけですし、本人気がついてないみたいなんで、そっとしとこうって、四天王の総意なんですよぉ」

「こんな力、争い以外に役に立たんからな。しかし、おまえの立ち居振る舞いに、四天王以外の一家の者が目をつけ始めたと聞いたぞ?」

珍しく、父王から心配されている気配がした。

「治癒の力にですけどねぇ。強力な治癒魔法使える人材って、貴重なんですよぉ。気がついてますぅ?ペオニサの治癒魔法って、シェラの無限の癒しに匹敵するくらい強力なんですよぉ?シェラ、花の姫ですよぉ?歴代1、治癒魔法の強力なお姫様ですよぉ?」

「え?えええ!?嘘ぉ!」

「花の精霊ですねぇ。治癒魔法は女性の方が得意なんですけどねぇ。その理由、本当は知ってるんじゃないんです?」

ドキッとした。ドキッとしてしまって、ペオニサは言い逃れできないことに気がついた。

「イ、インジュ……あのさ……オレ……」

「待ってください。お父さんはそのこと、知ってますぅ?」

「知っているな」

間髪入れずにインジュに答えたのは、ジュールだった。

「インファが訪ねてきてな、問われたのだ。わたしが教えたのだ。間違いはない」

「そうですかぁ。だったら、ボクは聞きません」

「え?」

「だって、そうでしょう?お父さん、精霊大師範ですよぉ?そんな人が監視してるなら、ボクの出番ないじゃないですかぁ。リティルも知ってますよねぇ?」

「そうだな。一家の者のことを、知らずにいるリティルではなかろう」

「そうですねぇ。それで、匂い、取れましたぁ?」

「え?う、うん?オレ、そもそもついてた?」

「念のためだ」

「なんで?オレ、関係ある?」

「あるだろう?」

「………………ないと思うよ?1番縁遠いじゃない」

ペオニサは斜め上を見つめて考えてみたが、思い至らなかった様子で怪訝そうにジュールに視線を戻した。本当に思い当たらなかったのだが、インジュとジュールにはため息をつかれてしまった。

「変な方向に押されないといいんですけどねぇ。あのぉ、リャリス影響あったりします?」

「あっても向かうのは、おまえにだ。問題なかろう?」

「あはは。それもそうですねぇ」

そう言ったインジュは、女性寄りの可愛い顔に、男性らしい笑みを浮かべていた。


 インファは、あの日、ペオニサがしていたように、ベランダに出ていた。邪精霊を待っているのだ。

「出そうかよ?」

部屋の中から、リティルが声をかけてきた。

「ええ。人っ子1人いないですから」

あの日、ペオニサが邪精霊におびき出された日、邪精霊はレイビーの姿をしていた。オレの前にははたして、誰の姿で出てくるんでしょうかね。インファは、フフと口元に笑みを浮かべた。

「おまえ、これ、十華への詫びの印だって言ったんだよな?この量って、相当重いヤツだと思われたんじゃねーか?」

リティルは、インファが買ってきた香水の包装をとき、1つずつテーブルの上に並べていた。小さなテーブルはガラスの小瓶で埋まりそうだ。キラキラと輝く小瓶は、どれも女性が喜びそうな可愛らしいデザインだった。

「ふーん?どれもいい匂いだな。魔法の類いは……感じねーな」

リティルは、少しだけ蓋を緩め、フンフンと香水の匂いを嗅いだ。

「気がつきましたか?どれも、花の香りですよ?」

最初の「アカシア」に続き、リティルが手に取っているのは「ローズ」だ。すべて「フェアリア」というシリーズで、同じ調香師だ。アッシュという名の魔道士であることがわかっている。店への納品は、殆ど弟子の男性が行っているらしい。

「ああ、それでいい匂いって感じるのか」

「母さんの香りですか?」

リティルの妃は花の姫だ。神樹と呼ばれる、異界へのゲートを開く力を持つ、世界の中心に立つ大樹の花という、特殊な精霊だった。彼女からは、甘く、清涼感のある香りがする。

「ああ、あいつの香りはいいよな!癒やされるぜ。ペオニサもジュールも、いい匂いがするよな?何かつけてるのか?って聞いたことあったんだ」

「つけているんですか?」

世界中の女性を虜にしそうな壮絶な色香の花の王と、官能小説家のその息子。2人はおしゃれだ。香りを意識して纏っていてもうなずけた。

「いや。花の精霊って頭に花が咲いてるだろ?その花の香りなんだってよ」

「ジュールは咲いていませんよ?」

「ああ、あいつは藤だって言ってたな。花の王だから咲かせようと思えば、なんでも咲くらしいぜ?頭に」

器用だよな。とリティルは楽しそうに笑った。

「セリアは、好きですかね?」

明るいセリアには、どんな香りが似合うのだろうか。残念ながらそういうことに疎いインファには、思い当たれなかった。

「ん?香水か?どうだろうな?けど、この瓶はやったら喜びそうだな。おまえが選んで贈ってやればいいじゃねーか。おまえが好きな香り贈れば、あいつすげー喜ぶぜ?」

その様を、リティルはありありと想像できた。セリアは本当にインファが好きなのだから。そしてインファも、セリアが好きだ。フフと笑ったインファの顔が、明らかに照れていた。インファとセリアの間に、入れる者などいない。ペオニサは眼中にないのに、何を怯えているのだろうか。花の精霊がいかに恋愛の司だとしても、想い合う者を引き裂くのは本意ではないだろう。特にペオニサは、小説の中だけでも幸せにと願っているのに、大事なインファの家庭を壊す要因にはなり得ないだろうと思う。

「そうですね。……噂をすれば、セリアです」

インファがベランダから下を見下ろす素振りをするのを、リティルは部屋の中から見た。

「あの女はセリアの姿を知らねーのに、セリアなのかよ?てっきり、十華が出ると思ってたけどな」

「十華と一緒にいるのに、十華が出ては騙されませんよ。これは、惑わされた方が勝手に見る幻覚ということですかね。行ってきます。助けてくださいよ?父さん」

「ああ、任せとけ!」

インファは窓を閉めると、部屋を小走りに出ていった。リティルもおもむろに腰を上げると、バスルームの小窓からオオタカに化身すると飛び出したのだった。


 殺された男達は、女の敵だという話だったが、どうやっておびき出されたのだろうか。

ペオニサは、信頼するレイビーが不審な男に後を付けられている様を見て、おびき出され、インファは、愛する妻が外灯の下に立って、こちらを見上げている様を見てこうして今走っている。

殺された男達も、誰かたった1人の人の姿を見ておびき出されたとすると、哀しいものを感じる。本当に、愛はなかったのか?と。

 セリアを模したモノは、あの日、ペオニサが追いついた広場にいた。

ペオニサの話では、この時点ではめられたことに気がついたというが……今外灯を背にこちらを振り向いた彼女は、ピンク色の髪をしていることが、青い光の外灯の下でもわかった。

「セリア、こんなところでどうしたんですか?」

そう声をかけた瞬間、キッとインファは彼女の緑と青の瞳で睨まれた。つい最近、この瞳で睨まれたことを思い出し、苦笑したくなるのをなんとか耐えた。

彼女は、儚げな容姿に似合わない意志の強い瞳で、雷帝のイヌワシの瞳にも怯まずに、真っ向からぶつけてくる。貴重で、愛しい妻だ。

「わたし、知ってるのよ?」

答えが返ってくるとは思わなかった。

「何をですか?」

「いつからなの?」

「はい?」

回りくどい。セリアならインファが怯むくらいズバリと、突きつけてくる。セリアの姿で、ハッキリしない彼女の様子に、インファは少しだけ苛立ったが、どこまで演じるのか付き合うことに決めている。

「出張なんて嘘。あの人と、いたんでしょう?」

「出張は本当ですよ?あなたも知っているでしょう?」

「とぼけないで!」

「困りましたね。では、聞きますがオレが誰といたと、思っているんですか?」

「言わせたいの?」

「ええ。是非」

「ヒドい人」

「心外です。オレは潔白ですよ?」

名を言わないんですね。たしかに、後ろ暗いことを行っている者には有効かもしれないが、開き直っている者や、後ろ暗くない者には効かないと、インファはあまりの稚拙さにため息が零れた。

「あなたは誰ですか?少なくとも、愛する妻でないことは確かです」

「あなたの妻よ!裏切られた!」

「裏切ってはいませんよ。現に、本物のあなたが今現在誰といるのか、教えてあげましょうか?」

インファは背に隠した右手に水晶球を風の中から取り出すと、彼女の前に差し出した。

「セリア、お疲れ様です。宝城十華はそこにいますか?」

水晶球の中に、ピンク色の髪の儚げな美人の顔が浮かび上がった。インファの目の前にいるセリアが、驚愕にその瞳を見開いた。

『お疲れ様、インファ。いるわよ?はい、十華』

映し出された映像が揺れ、ペオニサの顔が映し出された。

『わーお、ホントにセリアだ。流れ的に、オレの偽物が出るかなぁって思ってたんだけど』

「セリアでしたね」

『あっはは。余裕だねぇ』

『当然よ!じゃ、あと頑張ってね、インファ!』

通信は切れた。

インファの切れ長な瞳が、微笑みを浮かべて偽セリアに合わさった。

「あなたを拘束します」

身構えた偽セリアの背後に、トンッとリティルが屋根から飛び降りてきた。

「悪いことなの?」

偽セリアは、インファを睨んできた。

「勝手に相手を殺すのは、褒められた行為ではありませんね。この場合、十華かセリア本人がオレを殺しに来るのなら意味はありますが、何も知らない第三者がしゃしゃり出てくるのは……間違っていますね」

微笑むインファの気配が、押さえつけるように恐ろしげに変わった。腕をリティルに背で捻りあげられて拘束された彼女は、息を飲んで項垂れた。

「わたしはただ、楽にしてあげようと。だって、あの人はあなたを――」

「敗れるも成就するも、心を持った者達次第です。第三者にできることは何もありません。十華がオレに、そういう感情を抱いていて隠しているとしても、彼が打ち明けてくれなければ、オレには何もできません。今まで通り妻を愛し、彼とは友人関係を続けるだけです」

インファの雰囲気が絶対零度に冷えていく。リティルも勘弁してくれ……とゲンナリする殺気で、取り押さえた彼女が立っていられることを、賞賛したいくらいだった。

「そう。わたしは、想いから生まれたの。この世界の住人じゃないわ。残念だけど、わたしを捕らえるのは――」

殺気を感じ、リティルは咄嗟に彼女を解放し飛び退く。

「不可能よ!」

「不可能ではありませんよ」

触手のような闇が彼女から放たれたが、インファはヤレヤレとため息を付いたのみだった。ジャララララと金属がこすれ合う音が響いたかと思うと、彼女の体を鎖が縛り上げていた。

「大丈夫ですか?父さん」

「ああ。けど、こいつも本体じゃねーよ」

鎖を手に巻き付け立っているインファの隣に、リティルが立った。その背には、金色の翼が生えていた。

「あは、アハハハハ!あなた達も、わたしと同類?」

「同類にされるのは心外なんですが……あなたは想いから生まれたといいましたね。あなたのような者は、他にもいるんですか?」

『恋に敗れる者がいるかぎり、わたしは何度でも生まれるわ。でも、覚えておいて?わたしには産まれ、あなたの前に立つ理由があったのよ』

そんなに強く縛ったつもりはなかったのだが、彼女は脆いらしい。姿は次第に夜の闇に溶け、霧散していく。

「本人に聞きますよ。そのことに関して、あなたにとやかく言われる筋合いはありません」

『揺るがないのね?わたしの負けよ。それから、踊らされてごめんなさい。わたしに干渉した者がいる……偽物を掴まされるなんて、不覚だ、わ……』

ガシャン!と音を立てて、鎖が石畳に落ちた。辺りに、静かな喧噪が戻ってきた。

「それ、エカテリーナだと思うか?」

「さて、どうでしょうか?もう一芝居、うちますよ」

「はは。まあ、あの女もお咎めなしってわけにはいかねーよな」

リティルは疲れたように、首の後ろを擦った。リティルはずっと、ペオニサやインファのことに気を使ってくれていた。心が疲れているだろう。

さっさと解決するつもりだった。が、収穫はあったが、今回も空振りだ。次の方法を考えるしかない。

だが今は寝よう。インファはリティルを促すと、宿へ引き返した。


 エカテリーナの夫は、新聞記者だ。

駆け出しの頃は、年がら年中島中を飛び回り、家になど殆ど帰ってこない日々を過ごしていたが、結婚を機に、このクエイサラーに落ち着いた。今では、長くても1週間程度帰ってこないだけで、殆ど毎日帰ってきている。そして今日は、朝から家にいて、出社する様子はなかった。エカテリーナは別に、彼が嫌いではなかった。夫にコーヒーを差し出すと、新聞を読んでいた彼は顔を上げ「ありがとう」と微笑んだ。

友人達も彼を「いい夫ね」と褒めてくれる。不満はない。

ただ、退屈なだけで。

夫は新聞を置いた。紙面に、デカデカと見だしのついた記事が目に飛び込んでくる。

「気になるかい?また例の殺人事件だよ」

被害者は、今までとほぼ同じ手口で殺害されているらしい。昨日の深夜に発覚した事件らしく、写真も被害者の名も書かれてはいなかった。そう言えば夫は、そんな時間に慌てて出ていったことをエカテリーナは思い出す。

「怖いですね」

エカテリーナはほくそ笑んだ。この被害者男性が誰なのか、心当たりがあったからだ。

 当然の報いだ。

そう思った時、穏やかな朝の空気を裂くように、呼び鈴が鳴った。夫は当然の様に腰を浮かせたが、エカテリーナが「わたしが」と言って、玄関に立った。

扉を開けると、十華と共に家を訪ねてきた偽りの恋人――リティルが立っていた。

「よお」

にこやかに笑うリティルに、エカテリーナは瞬間嘘くさい笑顔を貼り付けた。

「何がご用ですか?」 

「ああ、話を聞かせてもらおうと思ってな」

笑うリティルの瞳が、挑戦しているようだった。

「お話することなど、何もありませんわ」

扉を閉じようとすると、彼には届かない場所を、ガッと男性の手が閉じる扉を阻止した。

「今日用事があるのは、ご主人の方なんですよ」

強引に扉を開いたその人の顔を見て、エカテリーナは凍り付いた。

「やや、インファさん、お待ちしておりました。どうぞ。弟さんもどうぞ!」

なぜ?彼は死んだはず――そう思って動揺したエカテリーナは背後からかけられた夫の声で我に返った。

「彼等はね、あの連続殺人事件を捜査している、捜査官なんだよ。クエイサラーの宝、小説家の宝城十華さんのご友人でもあってね、捜査協力することになっていたんだ」

エカテリーナは「そうですか」と何とか答えることができた。

 これは、どういうことなのだろうか。

宝城十華は確かに、このインファを恋人だと振る舞い、翌日バタフライで出会ったインファは、妻に内緒の恋人だと言った。

それよりも、夫が彼等と知り合いだとは知らなかった。

ソファーに座った夫は、それはそれはにこやかに、2人と談笑していた。

「十華さんはあれから」

「ええ、本部で保護しています。妻と楽しくやっているようで、昨夜も帰れなくて可哀想と妻に同情されましたよ」

「そうですか、そうですか!なら安心だ!宝城十華さんはこの街の有名人ですからね。いやね、わたしは彼を取材した事がありまして、とても、件の事件の被害者の人物像とは当てはまらなくて、おかしいと思っていたんですよ」

「彼ほど誠実な男はいませんが、職業柄、いらぬ誤解を招いているようで、友人として心配しています」

「はは、あいつ、うっかりだしな。秘書の姉ちゃんと一緒くたに襲われてて焦ったぜ」

「リティル、失礼ですよ」

「いえいえ、お気になさらずに。犯人は、その……」

「ええ、公にはできません。人知れず、闇に葬られることになるでしょうね」

「そうですか。協力は惜しみません」

「申し訳ありません」

「いいえ。わたしも、正義の側に立つ人間ですから。ところで、これは、普通に使えばいいのですか?」

「ええ、そのようです。そうですよね?奥様」

インファの視線が、エカテリーナを捕らえた。慌てて顔を上げるが、笑顔は失敗していた。

「なぜわたしに……?」

「おまえ、見覚えがあるだろ?十華に押しつけた香水なんだからな。そろそろ白状しようぜ?どうして十華を襲わせたんだよ?秘書の姉ちゃんまで一緒にな!十華は、秘書の姉ちゃんが危ないと思って、守ろうとして襲われたんだぜ?オレが間に合わなきゃ、今頃新聞の一面、仲良く飾ってたんだぜ?」

「何を言っているのか……」

「わかりませんか?あなたには魔導の心得がありますね?そして、あなたは、宝城十華にストーキング行為をしていたことがわかっています。もっとも十華本人は気がついていなかったようですが」

そう言って、インファは数枚の写真を机の上に並べた。それを見たエカテリーナは青ざめた。

「まあ、これはわからねーよな……兄貴じゃなくちゃわからねーよ」

執念だ。と、リティルはゲンナリしていた。

「友人を恐怖のどん底に陥れたあげく、しなくてもいい同性愛者の不倫の恋人を咄嗟に演じさせましたからね。申し訳ありませんが、私怨です」

「ああ、十華、兄貴に不快な思いさせたって泣いてたからな」

「オレ達は捜査官と説明されましたが、厳密にはカルティア王直属の機関・影の者です。奥様、あなたは影がどのような機関か、知らないでしょう」

「影とはね、エカテリーナ、公にできない事件を人知れず解決する機関なんだ」

新聞記者の夫は、机の一点を見つめながら感情なく淡々と言った。

「魔導の絡むこと、こと黒の魔導に手を染めた者を断罪する。残念だよ。君が、黒の魔導士だったなんて」

「違うわ!わたしは、何も!」

「潔白だというのならば、今夜を生き延びてください」

夫は立ち上がると、エカテリーナの前で香水を自分の首へ吹きかけた。

「邪精霊に会いました。彼女、怒っていましたよ?偽物を掴まされたと。オレと十華は不倫関係にありません。妻は十華の理解者の1人です。オレは、2人を裏切ることは決してありません」

「裏切ることは……ない……ふふふ、アハハハハ!あなたを、襲わせたのは、わたしじゃないわ」

エカテリーナは狂気の孕んだ高笑いをすると、勝ち誇ってインファを見た。

「十華様よ!この香水の守護精霊様は、穢れた恋を断罪してくださるの!あなたなんかに恋心を抱いていないわたしには、襲わせることは不可能よ!」

インファはハアとため息を付いた。

「あの人に愛されていることを、知っていますよ。ただただ、心配されていますからね。想いが強すぎてしまったんでしょうね。邪精霊は、ターゲットを間違えたと謝罪してくれましたよ?誰が勘違いしようと、オレと十華との間にあるものは、友情です。理解してくれなくとも、結構ですよ」

インファは言い切った。

しかし、少しも心が揺れなかったか?と問われれば否と答えるより仕方がない。

ペオニサは、どんな想いで、香水を使ったのだろうか。

使う必要のない、女性物の香水。

その心にいたのは誰なのか、オレだと言い切る自信が、インファには確かにあった。


 ペオニサは、闇の中に浮かぶ闇と対峙した。

『わかりにくいのよ!あなた』

「え?だ、誰!?」

『恋愛の守護精霊よ!やっちゃいけないことやっちゃったみたいで、インファって人に怒られちゃったけど……』

「インファ?え?もしかして、セリアに化けてた?」

『そうよ!あなたが心がすり切れるほど想ってるから、軽くしてあげようと思って襲ったら、返り討ちにあっちゃった。しかも、あなたとの仲を勘違いするなって怒られちゃったわよ!』

「それって、オレがあんたを産み出したってこと!?ええ?なんで?」

『香水、使ったでしょう?もの凄い強い想いでわたしを産み出しておいて、気がついてないって、どういうこと!一言言ってやらないと気が済まなくて、消滅しきれなかったわよ!』

「し、しらないよ!?香水なんて使った覚え――あっ!もしかしなくてもあれ!?嘘ぉ……オレの想いが、インファを?」

『黒魔導の気に惑わされちゃったわたしも悪いけど――って、聞いてる?』

「ど、どうしよう……インファを?オレ……そんな……」

『ね、ねえ?どうしたの?大丈夫?』

「あああああ……そんな……オレ……最低だ」


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