一章 死者は赤き香りを纏う
世界は、風を統べる精霊の王によって、滅びないように守られていた。
彼の王は、精霊達の住まう異界・イシュラースから、衰退と繁栄の異界・グロウタースを見守り、時には出向いてグロウタースの民では手に負えない事案を人知れず解決していた。
15代目風の王・リティル。それが、現在風の城を率いている王の名だ。
彼には、副官を務める息子がいた。
雷帝・インファ。超絶美形と賞される、同性でも思わず二度見してしまうほどの見目麗しい青年の姿をした精霊だ。
雷帝・インファは今、ワインレッドのソファーに座り込んで考え込んでいた。
背にした、聳えるような尖頭窓から午後の柔らかな日の光が、彼の、肩甲骨のあたりから緩く三つ編みに結った金色の髪を輝かせていた。彼の背には、金色のイヌワシの翼が生えていた。
彼の前の机の上には、数枚の書類が広げられていた。書かれているのは、今、グロウタース、双子の風鳥島を騒がせている殺人事件の詳細だった。どうやら、この殺人事件には精霊が絡んでいる匂いがある。インファは風一家の適正のある者と調べているのだが、一向に何も出てこず、頭を悩ませているのだった。
潜るしかないか。しかし、誰が行くか……。このまま外側から見ていても埒が明かない。インファは別の手を考え始めていた。
「――ファ、インファってば!おーい!」
声をかけられていたことに気がつき、インファは顔を上げた。
「――あなたも綺麗ですよ?」
目の前にいた、緑色の半端な長さの髪の、牡丹の花を両耳の上に咲かせた華やかな顔立ちの男性が、インファの言葉に緑色の瞳を見開いて固まった。
190センチを超える長身でがたいのいい彼を、女性と見間違う者はいないだろうが、確かに「綺麗」という言葉が妥当な面立ちをしていた。ついでに両耳の上に咲く牡丹の花も似合っている。
「何か、言いませんでしたか?ペオニサ」
ペオニサと呼ばれた、インファと同年代の青年はあからさまに戸惑ったが、すぐに照れたように笑った。
「え?えっと……まだ、何も言ってなかったんだけど……あっはは。いいや。インファに綺麗って言ってもらえたし」
すげぇ嬉しいとペオニサは明るく笑った。こんなやり取りを、2人を知らない者が見たら、同性の恋人がイチャイチャしているように見えることだろう。しかし、2人にそんなつもりは毛頭ない。至って健全だ。
ペオニサの背には、ミイロタテハの蝶の羽根が生えていた。彼は風の精霊ではなく、花の精霊だ。牡丹の精霊・ペオニサといい、世界の刃として日々戦い続ける運命にある風の城の住人だが、唯一の非戦闘員だった。
「すげぇ難しい顔してたからさぁ、声かけちゃったんだけど、邪魔だった?」
ペオニサは遠慮なく、インファの隣に腰を下ろした。彼はグロウタースで官能小説家をしている、宝城十華と同一人物だ。
風の仕事を手伝っていない彼は本当に自由で、執筆していない時はフラフラと出歩いている。今日もどこかに出掛けていたはずだが、用事は終わったようだ。恐ろしく深いしわを眉間に刻んでいたインファは、柔らかく笑っているペオニサのその表情につられるように顔の緊張を解いた。
「いいえ。むしろ、行き詰まっていたので助かりました。……ペオニサ、少し、動かないでください?」
「ええ?な、なに?」
唐突にインファが距離を詰めてきて、ペオニサは動くなと言われたが反射的に引いていた。しかし、インファが遠慮なく距離を詰めてくるので、ついにソファーに押し倒される形になってしまった。
意味がわからない!見た目には、同性の恋人に見えるくらい仲がいい2人だが、ノーマルだ。インファには愛妻と息子がいる。ペオニサは縁結びの力のある精霊故に、創作では同性愛は書いても、実を結ばない不毛な恋愛はしない。しないのだ!
「イ、インファ、あ、あのさぁ?」
近い近い近い!インファに欲望は湧かないが、ペオニサはインファの容姿が大好物だ。それが触れ合うほど近くにあって、目が回りそうなほど動揺していた。
「……この香り……かすかに――の……が……?」
インファはお構いなしに、ペオニサの首に顔を埋めるほどに近づいていた。
「あのぉ……何してるんです?」
声にハッとペオニサが顔を上げると、あからさまに怪訝な顔をした、女性の様な柔らかな中性的な面立ちの青年が立っていた。キラキラ輝く金色の長い髪を、三つ編みハーフアップにした、金色のオウギワシの翼を持つ風の精霊だった。
「インジュ~!た、助けてぇ!」
煌帝・インジュ。インファの息子だ。ペオニサは友人でもある彼に、情けなく助けを求めていた。精霊は不老不死であり、持つ力に見合った姿となるため、親子でも見た目年齢が似通ったり逆転したりするのだった。グロウタースで3人が並んだなら、年の近い友人同士に見えることだろう。
「インファったら、そっち方面に目覚めちゃったのかと思ったけど、ペオニサが泣いてるから違うのよね?」
ヒョイッとインジュの後ろから顔を覗かせたのは、ピンク色の髪をした儚げなしかし、意志の強そうな青と緑の瞳の女性だった。宝石の精霊・蛍石のセリア。雷帝・インファの妻で、煌帝・インジュの母親だ。彼女の容姿も25くらいだった。
ペオニサは、夫が男に迫っているとしか見えない事態でもまったく動じない雷帝妃に、ついに叫んでいた。
「違う違う!あるわけないない!セリアも笑ってないであんたの旦那どうにかしてよ!オレ、死ぬ!死んじゃう~!」
「ドンっ!て押したらいいと思いますよぉ?」
泣きそうなペオニサに、インジュはあははと笑って手を貸してくれなかった。
「できない!触れないって!だってさぁインファだよ!?触ったら溶ける!オレドロッドロに溶けるからぁ!」
助けて!と喚くペオニサに、セリアはため息を付くとインファの肩をトントンッと叩いた。
「わかったわよ。インファ、ペオニサが気絶しちゃうから、もう離れてあげて?」
セリアがグイッとインファの肩に手をかけると、ハッと気がついたインファは自らペオニサを解放した。
「すみません。香水の残り香に力を感じまして」
インファはペオニサの腕を引っ張り上げると、真面目な声色で言った。帰って早々面白い物が見られたと笑っていたインジュは、瞬間笑いを収めていた。
「香水の残り香?それって、もしかしてです?」
「ええ、おそらく。ペオニサ、今日はどこへ行っていたんですか?」
「え?ええと、宝城十華と語る会だよ?グロウタース、双子の風鳥島、水の国・クエイサラー城下」
地名を聞いて、インファとインジュは顔を見合わせて頷いた。今まさに殺人事件の舞台となっている都だったのだ。
「何か、いつもと違う事はありませんでしたか?」
「違うこと?ああ、女の子の1人が、思いっきり抱きついてきたなぁ」
「いつもじゃないんです?」
「親衛隊の娘達がしっかりしてるから、オレが押し倒されることって稀なんだ。ほら、そんなこと許しちゃうとさ、みーんな抱きついてきて、話どころじゃなくなっちゃうでしょ?だから、オレにお触り厳禁なんだ。それすると、出禁になっちゃうんだよ」
すげぇ健全な集まり。と、ペオニサは笑った。この催しと縁結びの力持ちの花の精霊、際どい言動、ついでにモテる容姿のせいで、ペオニサには女誑しの噂がある。だが、事実無根だ。彼自身はとても真面目で、グロウタースの民と一線を越えることなど、もっての外という考えの持ち主だった。
「では、その娘から移ったということですか……身元はわかりますか?」
「デタラメ書いてなかったら、わかると思うよ?隊長が持ってるから調べてみようか?」
「ぜひお願いしたいのですが……」
インファは渋い顔をした。
「どしたの?あ、風の仕事ってこと?内容聞かなかったらセーフじゃないの?」
風の城の居候であるペオニサだったが、故意に、風の仕事からは外されている。普段、皆が仕事の話をしていても、この広すぎる広大な応接間で執筆しているが、今回は聞かない方がいいかなぁ?と気を回しての発言だった。
「どうでしょう?その娘が確信犯なら、あなたが狙われた事になります。新聞を読みませんでしたか?今、クエイサラー城下で連続殺人が起きています。あなたは次の標的に選ばれた可能性があるんです。今、クエイサラー城下に行けば、否応なく巻き込まれるでしょうね」
新聞は読んでいなかったが、クエイサラー支部の親衛隊隊長・レイビーから物騒な事件が続いていると話には聞いていた。なんでも、その殺人事件の被害者はすべて男性で、皆、浮名を流す色男とのことだった。
故に「十華様はおモテになるから、用心してくださいね!」と冗談を言われた矢先だ。
「あのさぁ、インファ」
「はい」
「オレ、グロウタースのかなりの大陸と関わりあるんだよね。小説自費出版してるからさぁ」
ペオニサが出版社を持っているのは、双子の風鳥島だけではない。文化的に進んだ大陸、島にはもう、かなりの数宝城十華名義の会社を持っていた。彼が官能小説家をしているのは、縁結びの一環なのだ。
「ええ、そうなりますね」
「オレをそろそろ利用しない?」
インファは沈黙した。
「インファが、オレを利害が絡まない友達だって思ってくれてるの、わかってるよ?オレにとっても、あんたはかけがえない友達だよ。だけどさあ、オレももう風一家の一員なわけよ。だからさぁ、オレの持ってる物が役に立つなら、助けさせてくんない?」
「しかし……」
インファはあからさまに渋った。
「大したことするわけじゃないよ。女の子と話すだけ。危険があったらさぁ、助けてくれるでしょ?王子様?」
「オレの姫君はセリア1人だけですよ。ですがわかりました、友人の王子を、この身に変えても守りますよ」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、行こっか?あ、インファでいいの?インジュ来る?」
「あ、じゃあボク女装して行きます!」
何か、不穏な言葉が聞こえたと言いたげに、インファとセリアは息子を見た。
「はい?」
「それか、恋人役でお父さんです?ボク、ラスと情報整理しますよぉ?」
インファは額に手を置くと、フウと一度ため息を付いた。
「あなたの頭の中はどうなっているんですか?」
ペオニサも急な展開について行けない。
「えっと……?なに?インジュが女装して宝城十華の恋人役やるか、インファが素のままで恋人役やるかってこと?オレの恋人じゃなくちゃダメなの?」
話を聞きに行くだけのはずじゃないの?とペオニサも疑問符を頭の上にいくつも浮かべていた。
「宝城十華に恋人がいるってわかれば、過激なことしてくれると思うんですよねぇ。なんせ、この連続殺人事件、まったくもって尻尾が掴めないんですよぉ。実行犯を生け捕りできればかなり進展すると思うんですよねぇ」
ペオニサを囮にする!と言い出したインジュに、インファは顔をしかめた。
「インジュ、ペオニサをそこまで巻き込むんですか?」
「被害者、もう出したくないですからねぇ」
「しかし、だからといって――」
「じゃあさあ、こうしよう!この事案、小説にしていい?あくまでネタとして使うだけ。そしたら、オレにもメリットあるよ。それでさぁ、インファ、オレの同性の恋人役、やってくんない?」
困ってるな。そう思っての提案だった。ペオニサは、あまり何も考えてはいなかった。
「はい?」
「宝城十華で書くけど、オレとインファでは書かないって約束するからさ!同性愛者の探偵物。よくない?」
「いいとは言い難いんですが……」
インファは大いに戸惑っていた。
あー、そうだよね。インファは色恋沙汰に抵抗あるし。ペオニサは、インジュに視線を向けた。
「ダメ?じゃあインジュの女装の恋人でもいいけどなぁ」
「同性愛から離れないんですねぇ。ボクはいいですよぉ?ただ、痛快なのにしてくださいねぇ?」
「うん。めっちゃ可愛い女装の男ってだけでも面白いよね!ヒーローは冴えないおっさんで!」
「可愛く書いてくださいよぉ?ボクの初めて、見知らぬおっさんにあげるんですから」
あははと笑うインジュは、いつもノリがいい。
「インジュそのままで書かないって!あくまでネタだから!じゃあ、インジュで決まりでいい?」
「待って。それ、わたしじゃダメなの?わたしなら、ペオニサを守るくらいできるわよ?」
待ったをかけたのは、傍観していた雷帝妃だった。
「香水の女の子の住所聞いて、会いに行って話を聞く。ついでに魔力なのか霊力なのかがその家にないか、探ってくればいいんでしょう?幻惑の暗殺者のわたしは適任でしょう?」
「……お母さんはダメです」
「どうしてよ?」
セリアは微妙な顔で見つめてくる息子に、首を傾げた。その肩が、後ろから抱きしめられた。
「許可できません。演技とはいえ、別の男と、恋人を演じてくれと、オレに言わせるんですか?」
耳元で低く、インファに囁かれセリアは「ひい!」と小さく悲鳴を上げた。
「あっはは。セリアが恋人役やってくれたら、オレ、人前でバンバン口説いちゃう!だってさぁ、セリアすげぇ美人だしね。連れ歩けるオレ、幸せ者!」
ペオニサが静かに嫉妬を滲ませるインファに油を投下したところで、玄関ホールへ続く白い石の扉を開いて、2人の風の精霊が帰還した。
1人は、半端な長さの髪を黒いリボンで無造作に縛った、背の低い童顔な青年。
もう1人は、長い前髪に左目を隠した、控えめで目立たない容姿の黒い踝まである上着を羽織った青年だ。
「ただいま!お、何やってるんだ?楽しそうだな」
童顔な青年は、その燃えるような金色の光の立ち上る瞳に、明るい笑みを浮かべて、風の王の証である金色のオオタカの翼を開いて、扉から、十数メートル先にあるソファーに一気に飛んできた。
この背が低く、童顔な精霊的年齢19才の彼が、この城の主、15代目風の王・リティルその人だ。
彼に付き従って、金色のハヤブサの翼で飛んできたのは、旋律の精霊・ラス。風四天王と呼ばれる中核を担う風の1人で、副官、雷帝・インファ、補佐官、煌帝・インジュとともに、執事の地位にいる。
「ああ、リティル様おかえりー。今さあ、クエイサラー城下で起こってる連続殺人事件の話してたんだ。オレ、次の標的なんだってさぁ」
あっはは!と危機感なく笑うペオニサに、リティルは眉根を潜めた。
「はあ?おまえ、なんて物引き当ててるんだよ?あの案件は普通じゃねーんだ。しばらくクエイサラー城下に近づくなよな」
真顔で心配してくれる優しい風の王に、ペオニサはそれがさぁと笑った。
「あっはは。オレ、囮やることになったよ?」
「おい!おまえは戦えねーだろ?関わってるのは十中八九精霊だ。怪我するぜ?」
「うん。それで、誰がオレを守るかって取り合いになっちゃってさ。モテる男は辛いねぇ」
「それ、オレも参戦する。オレは影者だ。守れると思うよ?」
「あ、ラスはダメ。同性愛になっちゃうからさぁ」
「はあ?」
「実はね――」
楽しそうにペオニサは、帰ってきた2人に事の顛末を話したのだった。
誰が宝城十華の恋人役をやるのか。その後、驚くほどすんなり決まった。
「でさぁ、なんでリティル様?」
ペオニサはこうやって、2人人間に身をやつしてゴンドラの行き交う水路の脇の石畳の道を歩きながら、腑に落ちない顔を未だしていた。
「さあな?可愛くていいだろ?オレ」
隣で笑うリティルは、ペオニサを見上げてニカッと笑った。その笑顔は童顔も相まって、夏を思わせる健康健全な少年にしか見えない。
ペオニサは、150センチしかない小柄な風の王を見下ろしながら言い切った。
「ネタだから!」
「はは、様はつけるなよ?十華」
意地悪く微笑みリティルに、翻弄されているのを感じて、ペオニサは戦慄く。
「わかってるよ!やりにくい……めっちゃやりにくい……」
「ほらほら、行くぜ!」
「わっ!ま、待ってよ!」
迷いない足取りでタタッと歩みを早めたリティルを、ペオニサは慌てて追っていた。
どうしてリティルは、出版社の場所を知っているのだろう。水路に面した古い石造りの建物の前で、リティルはペオニサが追いついてくるのを待っていた。
「懐かしいな。建物の中身は変わっても、この都の風景は変わらねーな」
この建物は、元普通の民家だとリティルは、2階建てのそれを見上げて言った。
「リティル様、ここの出身だっけ?」
15代目風の王・リティルは、グロウタース出身の異色の風の王だ。ペオニサが産まれるずっとずっと昔のことで、話には聞いているが詳細は知らなかった。
「いや、生まれはルセーユ、育ちは炎の国・カルティアだぜ?ここは、シェラの生まれ故郷なんだ」
花の姫・シェラ。風の王・リティルの妃だ。リティルと同じ19才で精霊となった、元人間の転成精霊。ここ、クエイサラーの王族出身だ。
「意外だな」
「へ?」
聞き返したペオニサを、リティルは見上げてニヤリと笑った。
「オレとシェラの馴れ初め、本になってるぜ?知らなかったのかよ?」
「え?なんで?」
「さあな。じゃ、行こうぜ」
リティルは言葉少なく言うと、サッサと玄関ポーチの数段の階段を上がり、扉を開いて中へ入って行ってしまった。
入ってすぐ、受付と思われるカウンターがあり、無人だった。扉を隔てたその奥から物音がしているため、誰かいると思われるが、一向に誰も出てくる気配はなかった。
レースのついた花のリボンがプリントされた、真新しい壁紙の貼られた壁に、ポスターが貼られたいた。
茶色い髪に牡丹の花の髪飾りを飾った女性の横顔と、黒髪の眉目秀麗な男性の横顔が描かれ、真ん中に『花嵐の約束』と書かれていた。これは、宝城十華の本の表紙が印刷されたポスターだ。
その隣には、剣を立てて顔の前に掲げた鋭い瞳の青年と、彼の背後に崖の上に立つ城が描かれ、左側に『宝月戦記』と書かれたポスターも貼られていた。
「こっち」
ペオニサは受付を無視して、カウンターの中に入り、2階へ続く階段を先に立って上った。リティルはその後についていった。ここのオーナーでもあるペオニサは誰に遠慮することもないのだ。
「あら、十華様」
2階に上がると、立ったままマグカップからコーヒーを飲みながら、書類に目を通す女性と遭遇した。彼女の姿を見たペオニサが、信頼した微笑みを浮かべた。
「やあ、レイビーちゃん。今日はさ、恋人連れてきたよ!」
えっ?レイビーと呼ばれた女性は、眼鏡の奥の瞳を見開き、マグカップを落としそうになった。
「雑な紹介だな、十華。どうも、恋人のリティルだ」
ヒョイッと、リティルはペオニサの後ろから隣へ移動した。
ええっ?レイビーはグシャッと手にしていた書類を握ってしまった。固まるレイビーと、笑うリティル。両者はしばし見つめ合ったのだった。
宝城十華は、不思議な雰囲気を持つ人間離れしたお方だ。
レイビーは従業員募集の張り紙を見て、この出版社の扉を叩いた。入社するまで、彼の小説は読んだことがなかった。なぜ就職先をここにしようと思ったのか。わからない。ただ、何となく飛び込んでしまったのだ。
面接時、彼が開口一番言った言葉が、忘れられない。
「レイビーちゃん、オレの顔見て、ときめいちゃったりする?」
面食らった。
は?だ。感想はそれしかなかった。相当凄い顔をしていたはずだ。だが彼は、なぜかその場でレイビーを採用した。
綺麗な顔の男性だとは思うが、恋愛感情は一向に湧かない。しかし、彼の小説の虜にはなった。
この人のために働こう。
そう誓って、今日まで勤めてきたが、まさか……彼が男性の恋人を連れてくるとは思わなかった。女性に対して優しくて際どい彼だが、女性という性にどこか壁を感じていた。それがなぜなのか、今やっとわかった。
彼は男性しか愛せない、禁断の同性愛者だったからだ!あああ、なんと言うことだ。小説の世界が目の前に!レイビーはさっと居住まいを正した。
「十華様、どんなあなたでも、わたしはこれまで通りお仕えします!」
気がつけば、バカ正直にそんな宣言をしてしまっていた。それを聞いた恋人のリティルが、大笑いした。
「ハハハハハ!おーい十華、彼女信じちゃったぜ?な?オレもなかなか釣り合うんだぜ?」
「嘘ぉ……オレ、男色だと思われてたの?それはそれで、衝撃」
愕然とした彼の言葉に、レイビーは恐る恐る顔を見た。
「……冗談なのですか?」
「冗談だよ!?同性愛書くと生々しいとか評論されるけど、オレ、ノーマルよ!?」
「ハハハハ!悪ふざけして悪かったな。けど、秘書の君が信じるなら、いけるんじゃねーか?」
「あの?」
「仕事の話、させてくれよ。宝城十華じゃねーよ。オレの方の仕事」
そうリティルに促され、レイビーはコーヒーを淹れると、3人でテーブルについたのだった。
席に着くと、リティルはおもむろに話始めた。
「最近巷を騒がしてる殺人事件。知ってるだろ?十華がターゲットに選ばれてるんだよ」
「な、なんですって!?」
前置きなく簡潔に告げられた言葉に、レイビーは衝撃を受けて思わず立ち上がっていた。
「みすみす殺されたくねーだろ?オレはな、影の者だよ。この殺人事件、捜査してるんだ。十華とは友達で、こいつから件の香水の匂いがして、気がついたんだよ」
影……隣国、炎のカルティアの王直属の機関の名だ。クエイサラーの警察では手に負えないということだろうか。
「……誘惑の香水……」
殺された男性達には悪いが、彼等はあまりいい噂は聞かない者達ばかりだった。
どうして……どうして十華様が……?この人はファンの者にも従業員にも一切手を出さず、節度を守っているというのに。殺された男達とは違う、人格者なのに!レイビーは、怒りを感じた。
「そう呼ばれてるよな?それはタラシの男ばかりが犠牲者だからだよ。それでな、十華には囮になってもらう算段がついてるんだよ」
「守ってくださいますか?」
囮と聞いて動揺して泣きそうになりながら問うたレイビーに、リティルは真剣な眼差しで答えてくれた。
「そこらへんは信用してくれていいぜ?オレ、強えーからな」
「あの、それで、先ほどの冗談は……冗談、ですよね?」
「冗談だよ!?あのね、犯人を揺さぶるために、オレの友達が言い出したんだよ。リティルは乗ってくれただけだって!」
必死に弁解するペオニサを、リティルは、楽しそうに笑って見ていた。童顔で爽やかな彼を、レイビーは改めて見た。
「しかし、あなたが十華様の恋人というのは……」
「毛色が違うからいいんだろ?これで超美形が恋人ですって言ってみろよ。はまりすぎて嘘っぽいぜ?」
「あ、はははは。うん、そだね……」
ペオニサは確かに、インファとインジュを恋人役として書こうとしていたが、主人公は自分では初めから想像していなかった。凸凹だからいいと、冴えないおっさんを宛がおうとしていたのだから。
ここに、超絶美形のインファか女装したインジュを連れてきていたら、いったいどうなっていたのだろうか。レイビーは倒れていたかもしれない。
恋人役に「オレしかありえねーな」と苦笑したリティルは、それを想定していたのだろうか。リティルの圧力は凄まじく、インジュはともかくインファも反論を許されず、ペオニサの恋人役にはリティルが収まったのだった。
「リティルで妄想はヤバイ……」
だって風の王だよ?この人!ペオニサは止まらなくなる妄想に、なんでオレこんなに変態?と思ってしまった。
「してもいいぜ?妄想。妄想しねーと書けねーだろ?まあ、格好良く書いてくれよな!」
そんな爽やかに笑わないで!薄闇の中、肉食獣のような瞳で迫ってくるリティルの幻想を見てしまった。いい……喰われたい!と思ってしまった時点で負けである。
「あああああ!なよっなよな美形探偵と小柄でオレ様な助手によるイケない関係って、楽しそう!」
風の王相手に罪悪感が止まらないのに、妄想も止まりそうになかった。ペオニサの脳内では、リティルの声で美形探偵が言葉責めにされている場面がすでに動いていた。救いは、探偵役ががたいのいいペオニサではなく、細身の頼りない美形ということだ。
「いい……いいですわ!十華様!」
急にキラキラした瞳で、知的で落ち着いて見えたレイビーはペオニサに詰め寄った。
「レイビーちゃんもそう思う!?リティル、ごめん!先に謝っとく!」
ガシッと両手を握り合ったペオニサとレイビーに、リティルはただただ楽しそうに笑っていた。
「いいぜ?別に。オレ、おまえが変態なの知ってるからな!」
「な、なんていいご友人!リティル様と呼ばせてください!」
前のめりなレイビーに、リティルは類は友を呼ぶか?と苦笑した。
「はは、好きにしてくれよ。で、この住所の場所、知ってるか?」
「え?ううん」
「……だよな。おまえだもんな。これ、高級住宅街だぜ?そんな、身なりのいい女だったのかよ?おまえに抱きついたヤツ」
そんなに豪華な服装ではなかったと思う。だが、見たことのない顔だった。
「そうだなー。初めての人だったよね?」
「はい。申し訳ございません。お触り厳禁は徹底していましたのに」
「いいよ。刺されたわけじゃないしさ」
しょぼんとしたレイビーを、ペオニサはすかさず慰めた。
「刺されたのと同じような事になってるけどな!」
「それは言っちゃダメ!レイビーちゃん、気にしないで?リティルがついてるからさ」
「……はい……。十華様、事件が解決しましたら、また語る会、開催してくださいますか?」
「うん、やろうね!その時は頼んだからね?レイビーちゃん」
「はい!」
見つめ合ってニコニコ笑うレイビーとペオニサの姿を見ていたリティルは、2人の間にある信頼にフッと優しい笑みを浮かべたのだった。
石畳の道を、出版社へ向かって歩いていたときと同じように、迷わず歩くリティルの隣を歩きながら、ペオニサは疑問を何気なくぶつけていた。
「ねえ、リティル様、なんでつきあってくれたの?」
「ん?オレしかいねーって言っただろ?おまえの相手できるヤツ」
「なんで?」
ペオニサは首を傾げた。
ラスはわかる。同性の恋人なんて、極度の男性恐怖症である彼にはさせられない。
残るは、言い出したインジュと巻き込まれたインファだが、2人なら、十分非戦闘員のペオニサを守る実力があるし、演技も完璧だろう。
「インジュは、殺せない戒めがあるからな。相手を始末しなけりゃならねーとき、できねーだろ?トドメをおまえに刺させるわけにはいかねーからな」
ああ、そうだった。風の最強精霊であるインジュには、殺さずの戒めがある。そうか、戦いになる可能性があるんだと、ペオニサはやっと思い至った。
それで、インファが巻き込むことを渋っていたのかと合点がいった。ペオニサは、ただ、レイビーから住所を聞いて女の子と話すだけと思っていたのだ。
こんな危機感のなさでは、インファが過剰に心配するのはしかたないなと、風四天王のやり取りを思い出して、やってしまったなと思った。
「インファは?」
問うとリティルは、ジロッと睨み上げてきた。そしてため息を付いた。
「おまえ、インファが恋人役やって、耐えられるのかよ?」
「え?耐えるって、何に?」
あんな超絶美形の恋人なんて、役得以外何者でもない。ついでに、この石畳と入り組んだ水路の美しい都を、一緒に歩けたら楽しかっただろうなと思うだけだった。
あ、女装したインジュとデートするのも楽しかっただろうなと、あんなに女性寄りの容姿をしているのに、一度たりとも女性に見えたことのない友人のことを思った。
「心に決まってるだろ!おまえ、自分が何者なのか知ってるだろ?」
自分が、何者なのか?キョトンとしていたペオニサは、ハッと青ざめた。
「リティル様……知って……」
「まあな。安心しろ。おまえにその気がねーこと知ってるからな。けど、何かの拍子ってこともあるだろ?そうなったらおまえ、よくて精神崩壊、最悪死ぬぜ?」
ペオニサは蹌踉めいて、そばにあった水路の鉄でできた手すりに縋っていた。
忘れていた。風の城はペオニサに緊張を強いらず、主のリティルは寛大で優しすぎるくらい優しい。世界の刃として魔物やら、よくわからない何かと日々戦う城の住人は、いつも無傷ではいられないが、彼等は決して、戦う力を持ちながら戦えないペオニサを、戦いへ引っ張り出そうとはしない。
彼等が望んだのはただ1つ。どんな状態で帰ってきても、ペオニサらしく笑って「おかえり」と言えというものだった。忘れていた。居心地がよすぎて、牡丹の精霊・ペオニサが抱えている歪みを、まるっと忘れていた。
「おまえは完成された精霊だ。ちょっとやそっとじゃ壊れねーよ。でもな、一時の感情に流されてインファに触ってみろ。おまえは、インファを守るために壊れるほうを選ぶだろ?おまえは、そういうヤツだよ。ごめんな。インジュは知らねーんだ」
ペオニサは、上がった息を落ちつけながら、何とか首を横に振った。
「インファに、話してやってくれねーか?」
背中に触れ、静かに言ったその言葉に、ビクリと体が強ばった。
「あいつは、不器用だ。知ってる事を、おまえに言えねーんだ」
「ま、待って!インファ、知ってんの?オレのこと、知ってて許してるって事!?」
「あいつを誰だと思ってるんだよ?風の王の副官、雷帝・インファだぜ?おまえはあいつの大事な友達だ。知らなけりゃ、守れねーだろ?暴く覚悟がなきゃ、やってられねーんだよ、風の精霊は」
「……インファ、身の危険感じないの……?知ってるなら、なんで、一家に入ること、許したんだよ!」
「そういうヤツなんだよ。インファは。たぶんな、おまえに襲われたとしても許すぜ?体は許さねーけどな」
「なんで?奥さんも、息子もいるよ?」
「なんでって、そりゃ、おまえを、信じてるからだろ?まあ、決定的になった方が、あいつには好都合かもな。大手を振って、おまえの霊力弄くり回せる口実ができるからな。オレも、おまえは大丈夫だと思ってるぜ?だからな、おまえもインファを信じてやれよ!変態でいいって言ってるんだ。最強の友達だろ?」
ペオニサは、辛うじて頷いた。だが、自分自身でも、認めたくない。
牡丹の精霊・ペオニサは、雷帝・インファの駒となるために産まれた、精霊であるという事実を。
同じ使命を背負わされた兄は、どちらが先だったのかわからないが、精神が崩壊、インファには拒絶された。そして、何も知らないペオニサを巻き込んで破滅したあげく、リティルの手で赤子に戻された。今は、その歪んだ使命から解放され、過去の一切を失ってすくすく育っている。
ペオニサは、雷帝・インファの容姿が好きすぎるという異常性は感じていたが、まさか自分がそんな使命の下生まれた精霊だとは、悪意によって突きつけられるまで知らなかった。
いつか、オレも兄貴のように、インファを傷つける存在になる?崩壊していく兄を、恐れとともにずっと見ていたペオニサは、あの兄の姿が未来の自分のような気がして、揺らいでいた。
そんなペオニサに、インファは「あなたはオレが自ら選んだ友人ですよ?」と笑った。
両親と兄妹達のいる太陽王の城、太陽の城に知ってしまったがために精神的に居場所をなくしていたペオニサは、受け入れてくれたインファに縋ってしまった。
風の城に住みたいと言ったペオニサを、インファは笑って受け入れたのだ。
「オレは今でも、おまえに風の仕事をさせようとは思ってねーよ。言わねーおまえをインファは過剰に心配してるからな。今回は不本意なんだよ。不器用なインファじゃ、おまえに変な負担かけちまうだろ?だからオレが引き受けたんだ。な?オレしかいねーだろ?」
「リティル様……オ、オレ……」
居てもいいの?口に出せず、だがペオニサの怖じ気づいた瞳はそう言っていた。
無理もないよな?そう思ったが、そろそろペオニサにも知っておいてもらわなければならない。
風の城は味方も多いが敵も多い。絆を深く結んだ者の絆は、盤石にしておかなければ、悪意で襲いかかってくる者の眼前で、無防備に立ち尽くしてしまう事態になってしまうかもしれないからだ。ほころびは少ない方がいい。
誰の命を奪っても、一家の命は奪わせない。それが、風の城を背負って飛ぶリティルの揺るぎない1つだ。
非戦闘員という風の城では特殊な一家の一員であるペオニサのことも、風の仕事から切り離されていたとしても守るのは、リティルの、城の主人としての義務だ。
「言っとくけどな。逃がさねーよ?おまえはオレの物だ。勝手に城を出ることは許さねーよ」
「わーお、リティル様過激!」
「ハハ。今のうちに観念しとかねーと、知らないぜ?おまえくらい、簡単に組み敷けるからな!」
「や、やめてよ!もろリティル様とオレで妄想しちゃう!」
「はは、それのが怖いなら、そうしちゃうぜ?オレ、有言実行だからな!」
「格好いい……!風一家最高!」
身悶えるペオニサが、絶対に触れてこないことを、リティルは知っていた。こんな節度をわきまえたヤツを、女誑しだと勘違いしていたインファが信じられない。
おそらく、女嫌いのインファ以上に硬いヤツだ。ペオニサは、風の城に出入りするようになって今までを見ていて、際どいのは口先だけだということをリティルはかなり早い段階で理解していた。
「ハハハ!オレ、おまえの強がるとこ好きだぜ?」
「だからぁ!やめてよ!この流れでそれダメなヤツ!」
照れるペオニサを引っ張って、リティルは高級住宅街に続く丘を登った。
たどり着いた高級住宅街は、この都で1番高い位置に立つクエイサラー城を右手に見る位置にあった。どの家も、門があり、馬車が玄関前につけられるようにロータリーになっている、館前庭園があった。
リティルは、出版社で一度住所を見たきりだったというのに、まるで知っているかのような足取りで花壇や街路樹で飾られた歩道を歩いていた。あまりに迷いない足取りなので「知ってるの?」と問うと「住所とか地図なんて、一度見たら覚えるぜ?」とおまえ覚えられねーのかよ?と言いたげに返された。
リティルは、件の家に着くまではグイグイ引っ張るような歩みだったが、その家の門を潜ってからは、なぜかペオニサの背に隠れるようにして歩いていた。
見事なバラ園の館前庭園を持つその家の玄関のノッカーを、ペオニサが叩いた。
ペオニサは、こんな大きな家だ、使用人が出てくると思っていた。
しかし、扉を開いたのは、ペオニサに抱きついて即つまみ出されたその女性だった。人の顔を覚えるのは比較的得意なペオニサは、至近距離で見た彼女の顔を、何となく覚えていた。
「こんにちは、オレのこと、覚えてる?」
ペオニサは努めて警戒心を抱かせないように微笑んだ。扉を開いた女性は、瞳を見開いて僅かに頬を赤らめた。
「十華様……!どうなさったのですか?」
「あっはは。あなたがあの日使ってた香水が気になって、来ちゃったよ。ごめんね?突然」
彼女はブンブンと首を横に振った。
「いいえ!どうぞ、お上がりになって」
栗色の髪を頭の後ろで結い上げた女性は、ペオニサの腕に触れると引っ張り込もうとした。
「え?いや、ここでいいんだけど。あの香水の銘柄を教えてほしいだけなんだ。できれば、現物もみてみたいなぁってだけで」
「ご用意いたします。十華様を、こんなところでお待たせするわけにはまいりません。さあ、中へどうぞ?」
積極的だ。お触り厳禁を始めに言い含められていたのにもかかわらず、抱きついてきた娘だ。こういう性格なのだろう。ペオニサは、僅かに身の危険を感じていた。
「いいんじゃねーか?中で待たせてもらおうぜ?」
今の今までペオニサの背に隠れていたリティルが、ヒョイッと彼女の前に顔を覗かせた。そして、あからさまに不快そうに、女性の手をペオニサの腕から放させた。
「ごめん、連れがいるんだ」
「そうでしたの……どうぞ、お連れ様も」
幸せそうな温かな空気が、瞬間下がったのを、ペオニサは肌で感じた。
ペオニサより先に彼女について堂々と扉を潜ったリティルが、フッと暗く笑うのをペオニサは見てしまったのだった。
城と比べるのはどうかと思うが、この家は、廊下も間取りも広々としていてこぢんまりしているものの、贅沢な造りだった。リティルは、彼女が香水を取りに席を外している間に、通されたリビングをウロウロしていた。
「インファじゃなくてよかったな」
ボソリと呟いた言葉を、ペオニサは聞き漏らさなかった。
「なんで?」
「彼女、あからさまだったぜ?おまえ1人だったら、薬でも盛られて既成事実作られてたかもな」
戻ってきたリティルは、ソファーに座っているペオニサの、ソファーの背の後ろから耳元に囁いた。
「ええ?いやいやいや、そこまでしないでしょ?」
危機感のないペオニサに、リティルは不満げな顔をした。
「インファじゃねーけど、オレも心配になってきたぜ。レイビーは見る目あるよな。ペオニサ、あの娘がいい顔しねー相手とは絶対に付き合うなよ?」
「あ、うん。各支部の隊長の言うことには、オレも絶対服従だから」
「どっちが長だよ?ま、おまえにはしっかりしたお目付役が必要だよな」
「ね、ねえリティル様?」
「ん?」
「近くない?」
落ち着かないんだけど……と困った顔をしてこちらを見たペオニサに、リティルは「はあ?」と瞠目した。
「おまえ、可愛いな!十華。見せつけてるに決まってるだろ?オレ、おまえのなんだよ?」
リティルは笑い出して、急にある程度の大声を出した。
オレ、おまえのなんだよ?ペオニサはキョトンとしたが、恋人役としてここにいることを思い出した。
「宝城十華の素敵な恋人でございます」
「ハハ、気がついてくれてなりよりだぜ?十華」
フフンと挑発するような笑みを浮かべたリティルは、いつもの健全で健康的な童顔な青年ではなかった。
顔面詐欺師。ペオニサは、表情で年齢詐称するリティルを、立派な詐欺師だと思っている。
「ペオニサ、あいつが恋人役じゃなくてよかったな。インファだったら、こんなんじゃすまないぜ?」
「ええ?なんで?」
「そりゃ、あんなあからさまじゃな。恋人としては売られた喧嘩、買うしかねーだろ?しかも、既婚者のくせしてな」
え?既婚者?リティルはここに来てからずっと、臨戦態勢だ。ペオニサも、お触り厳禁の掟を破り、訪ねてきた宝城十華に懲りもせず触れてくる彼女に異常を感じたが、リティルはどこで彼女が既婚者であることを知ったのだろうか。ドカッとリティルが、ペオニサの隣に腰を下ろしてきた。それも、肩が触れ合いそうなほど近くだった。
「お待たせしました」
女性が、手に取っ手付きのお盆を持って戻ってきた。
テーブルの上に、紅茶とクッキーが置かれた。
お茶を勧められ、ペオニサはカップを手に取ろうとした。それをいきなり隣からリティルに奪われていた。
「ちょっ、リティル!」
ペオニサが止めるよりも早く、ニヤリと笑ったリティルがペオニサのカップから紅茶を飲み、堂々とペオニサの手に戻して来た。
「ハハ、関節キスだぜ?嬉しいだろ?十華」
『飲むなよ?』笑ったリティルの瞳が、笑っていない。ペオニサは正確にメッセージを受け取って、小さくリティルにだけわかるように頷いた。
「こ、こんなところでぇ!そんなこと言われたら、飲めないよ!ご、ごめんね?この人お茶目で」
「いえ。仲がよろしいんですのね」
こっちも目が笑っていない。うわあ……修羅場……こういうのは小説の中だけでいいって!と、貼り付けたような笑顔で睨み合うリティルと女性との間でペオニサは冷や汗をかいた。これは確かに、女嫌いのインファが恋人役だったら、もっと大惨事になっていた予感だけはした。あのインファがどんな手に出るのか、それを想像することを頭は拒否してしまった。
「あははは……それで香水の事だけど、銘柄教えてくれるかな?あと、買ったお店とか」
お茶を乗せてきたお盆の上には、何か箱が置かれていた。たぶん、あれが件の香水だろう。
「フェアリアというブランドの、ラッヴァルという香水です」
箱を手渡され、ペオニサは「ありがと」と受け取ると、恐る恐る箱を開けた。
淡いピンク色の布の貼られた白い箱の中に、首にリボンを巻いた雪だるまのような形の瓶が納められていた。カリグラフィーで、瓶の側面に貼られたシールにフェアリア、ラッヴァルと書かれていた。ペオニサの手元を、ズイッとリティルが覗き込んできた。
「へえ、可愛いな。ああ、確かにいい匂いだな」
リティルはペオニサの手ごと箱を持つと、顔をくっつけてクンクンと匂いを嗅いだ。
ちょっ!誰これ!?とリティルの行動にギョッとしたが、ペオニサは演技演技!と悲鳴を上げたいのを我慢した。
「フェ、フェアリアって、手に入りにくいって聞いたんだけど、どこで買ったの?」
「確かに手に入ったのは偶然でしたが、5番街のお店でも売っていますよ?ご案内しましょうか?」
「え?お店の名前、教えてくれるかな?親衛隊の娘にお使いしてもらうからさ」
「そうですか?」
にこりと彼女は笑った。しかし、ペオニサは生きた心地がしなかった。
ペオニサがゴッソリ体力を削られながら聞き出した店の名は、バタフライ。ペオニサも知っている店だった。
ペオニサは、風の城に帰れと言われたのだが、リティルが明日、そのバタフライという香水専門店に行ってみるというので、一緒に行きたいと食い下がった。
ペオニサは普段、出版社で寝泊まりしているのだが、今回はリティルがいる。気の利くレイビーが宝城十華の名でいいお宿をとっておいてくれていたので、渋々許されたのだった。
「オレ、インファに報告してくるぜ。先に風呂入って寝ていいぜ?」
「あ、うん。でも、こんなあっさり香水が手に入ると思わなかったね」
ベランダに出られる、掃き出し窓の前にある椅子に座ったペオニサの膝には、あの香水の入った箱が置かれていた。昼間の彼女が手に入りにくいからと、押しつけるようにくれたのだ。
「本物かどうか、疑わしいけどな。売り切れてても、発売元から調香師まで辿ってやる」
ペオニサは香水の瓶を手に取った。
ラッヴァル。精霊の言葉で、恋を意味する言葉だ。この、双子の風鳥島は魔導の発展した場所であるため、精霊の言葉――霊語を、至る所で目にする。
「部屋から出るなよ?」
「うん。いってらっしゃい」
リティルは部屋を出て行った。やっぱり、この件は極力聞かせたくないんだなと、ペオニサは思った。普段なら、ペオニサが応接間にいても、四天王は堂々と仕事の話をしている。だが、今回はペオニサが関わってしまった。リティルは、これで、手を引かせる気なんだとわかっていた。
「ま、しかたないけどさ」
ペオニサは普段、ファンの家を個人的に訪ねたりしない。気になる恋愛話を個人的に聞きたいときなどは、後日隊長に頼んで連絡をとってもらい、出版社に来てもらうのが普通だ。掟を破った者に渡りをつけるのは言語道断だった。
だから、ペオニサは知らなかったのだ。あんなほの暗い感情を、自分が向けられることになるということを。
なぜ、インジュが同性の恋人に拘ったのかやっとわかった。
おまえに勝ち目はないと、相手に知らしめるためだったのだ。
同性愛者だから、おまえが宝城十華の目に留まることはない。それが宝城十華のプロフィールに入ってしまったとしても、守ろうとしてくれた結果だった。
セリアが名乗りを上げてくれたとき、強引にインファが異を唱えた理由が今ならわかる。
彼女と対峙できるのは、リティル、インファ、インジュだったと思う。セリアは美人だが、きっと彼女は納得しなかっただろうからだ。リティルのあからさまな態度にも、彼女は隠さない嫉妬を滲ませていたのだから、異性の恋人では誰が行っても牽制にはならなかっただろう。
既婚者でありながら、官能小説家に入れ込み、同伴者がいる目の前で薬を盛る異常性。
あの紅茶に何が入っていたのか、リティルは絶対に教えてくれなかった。あれ、一口飲んでなかっただろうか。リティルに変化は見られなかったが、大丈夫だったのだろうか。
「だからって……リティル様やりすぎじゃない!?」
肉食獣、いや、猛禽リティルなんて普段とギャップがありすぎて、始終心臓が高鳴りっぱなしだった。宝城十華としては、美味しすぎたが。
うわっ!思い出したら、オレの中の乙女が悶えだした!と、ペオニサは外の空気でも吸おうと、香水を机の上に置き、ベランダに出たのだった。
見下ろすと、石畳の道の向こうに青い光を灯した街灯に揺らめく水面が見えた。
静かだな。
この宿は、飲み屋街から少し離れた住宅地の中にある。出版社からも近く、治安が非常にいい地区の1つだ。宿の中にバーもあるため、リティルでも楽しめるだろうと選んでくれたのだろうと、いつも気にかけてくれるレイビーの気遣いを感じた。
明日、5番街の店に行ったら、彼女が好きなカップケーキをお土産に買って帰ろうかな?と思った。
「……レイビーちゃん?」
ボンヤリ水路を見下ろしていたペオニサは、下の道を歩く、レイビーらしき女性を見つけた。ここは3階だ。大声を出すわけにもいかなかった。彼女を見送ったペオニサは、彼女の後を付けるように歩く男を見た。
考えるより先に体が動いていた。
レイビーはいつものように、出版社の玄関の扉を施錠し、帰路についた。
昼間、けしからんファンの女性宅から戻ってきた十華は、ニコニコ笑っているリティルとは違い、げっそりとしていた。
やはり、嫌な目に遭ってしまったのか……と察したが、リティルが「オレがやりすぎちまったんだよ」と意味ありげに笑った。気を使われた?と感じた心は「もお!格好良すぎて心臓保たないよ!」と叫んだ十華の声に掻き消された。
明るく笑うリティルを怒る十華の姿に、心底ホッとした。良い友人をお持ちで、本当によかった。それに尽きる。
もし、リティルとのことをファンや親衛隊の者から聞かれたら、なんと答えようか?恋人よと言ってしまおうかと思って、いやいや、そんなことを言えば、同性愛者のファンから妙なお誘いを受けてしまうかもしれない。
包み隠さず、事件のことには触れずに、あのけしからんファンのところにどうしても行かなければならない事態となり、ご友人が一緒に行ったのだと説明しようと思い直した。
『花嵐の約束』が出版される辺りのころ、十華はどこか元気がなかった。どうしたのかと問うても、彼は「ちょっと寝不足」と言うだけで、何も話してはくれなかった。
彼は弱みを見せてはくれない。明るい話題しか話さない。
それが宝城十華であり、彼の築く壁だった。
友人だというリティルには、その弱みを見せられるようで、とてもホッとした。そういう人がいるのなら、それでいい。
レイビーは、彼の書く次の小説が楽しみだなと、思わず微笑みながら家路を急いだのだった。
通りには、レイビーと同じく家路を急ぐ者がまだチラホラいて、女の一人歩きでも危険を感じることはない。
「あら、十華様?」
意図したことではなかったが、手配した宿屋はレイビーの帰路の途中にあった。
レイビーが、楽しそうな十華とリティルのやり取りを思い出してニヤニヤしながら歩いていると、件の十華が宿屋から走り出てきて、こちらに気がつかないまま、まばらな人を避けて道の先へ向かって行くのを見た。
1人?リティル様はどうしたの?レイビーはただならぬ気配を感じ、十華の後を追ったのだった。
必ず連絡をください。
そう言って睨んできたインファの精神状態を良好に保つため、部屋を出たリティルは人気のない場所でオオタカに化身すると屋根に舞い上がって、屋根の飾り窓の影に身を潜めると化身を解いた。暗いとはいえ、通りにはまだ馬車も走り人の姿も見える。見られては厄介だ。
リティルは念のため、通りを見下ろせる位置に陣取ると、水晶球を手の平に集めた風の中から取り出し、インファに声をかけた。
『首尾はどうですか?』
「ああ、香水の情報手に入れたぜ?明日、販売店から調香師突き止めに行く」
『ペオニサは、連れていくんですか?』
香水の詳細はいいのかよ?ペオニサの心配しかしていない副官に、リティルは苦笑した。
「ああ、行きたいんだってよ」
『許可したんですか?』
「インファ、あいつが心配ならオレを報告から早く解放しろよな。犯行時間はいつも夜だぜ?」
いまいち危機感のないペオニサが、リティルも心配だ。部屋から出るなよとは言ってきたが、信用ならない。
『すみません……』
素直に謝るインファに、何も言えなくなるだろ!とリティルはイラッとしたが、ハアとため息を付いた。
「おまえ、よくそんな体たらくであいつの恋人役やろうとしたよな?掟破り女、オレの前で、ペオニサに薬盛るようなヤバイヤツだったぜ?ペオニサがノリノリで助かったぜ」
絶句するインファの手から、ヒョイッと水晶球を取り上げる者があった。
『そうですかぁ。それは、バトルしがいがありましたねぇ。恋人だって名乗らなかったんです?』
「ああーっとな、それ言っちまうとペオニサのヤツ、否定してきそうだったんだよな。オレ、そんな真に迫ってたかな?」
『リティルの事、爽やか健全男子だと思ってるんで、刺激強かったかもですねぇ。これは、次の小説楽しみですねぇ』
「おまえ、読まねーくせして。ん?あいつ、部屋から出るなって言っといたんだけどな!」
念のためと部屋に風で結界を張っていた。リティルは防御魔法が得意ではない。風の城とは勝手が違うここでは、部屋にいるペオニサを閉じ込めておくほど強力には、結界は張れなかったのだ。
立ち上がったリティルは、会話を断ち切り水晶球を風の中にしまうと、まばらな人を掻い潜ってどこかへ向かって走っていくペオニサを追いかけて、隣の屋根に身軽に飛び移って屋根伝いに走った。
宿の3階から階段を駆け下り、表に飛び出したが、レイビーの姿は目視できる位置にはすでになかった。彼女は帰路についていたのなら、こっちへ行ったはず!とペオニサは駆け出していた。
クエイサラーの夜は早い。だとしても、こんな人っ子1人いないことなど、あり得るのだろうか。ペオニサの心に、不安だけが募った。
出版社に寝泊まりしていたペオニサが、帰宅が遅くないか?とレイビーに言ったことがあったが、彼女は防犯グッズを持っているので大丈夫だと笑っていた。
実際、そうなのだとしても、不穏なあの状況を見て見ぬ振りすることなどできない。こんなことになるなら、日のある内にレイビーの仕事が終わるように、霊力をケチらずに特殊中級精霊をもっと送り込んでおくんだった!と後悔した。
あの出版社で働くレイビーを除く従業員は、すべて、ペオニサが牡丹の花びらから作った人造精霊だ。特殊中級精霊と呼ばれる、ペオニサに忠実な精霊達だ。皆それぞれに個性があるが、裏切ることは決してない。
レイビーをそばに置くのは、ひとえに宝城十華と語る会を催すためだった。会を運営する親衛隊は、普段は出版社にはいない。他の支部では出版社とは切り離しているが、レイビーだけは特別だった。
特別視しすぎてしまっただろうか。精霊と関われば、害があるかもしれないとわかっていたのに。
たどり着いたのは、いくつもの辻に別れる広場だった。青い光を灯す街灯の下に、レイビーがこちらに背を向けて立っていた。男はもう、レイビーの背後に迫っている。ペオニサは駆け出した。
「レイビーちゃん!」
叫んだ声に、男は反応しなかった。それどころか、歩みをそのままにレイビーの隣をすり抜けると、そのまま分かれ道の向こうに歩いて行ってしまった。
――え?今の、なに?ペオニサの目には、彼とレイビーがすれ違ったとき、彼の体がレイビーの体をすり抜けたように見えた。
「あ……もしかして……オレ、やらかしたかも?」
クエイサラー城下で殺人を犯している者は、人間ではなかったのか?リティル達は、精霊が関わっているようだと言って警戒していたが、こういうこと!?とペオニサは青ざめた。
リティルに、部屋から出るなと言われていたのに、風の王の言いつけに背き、敵の術中に嵌まってしまった。
お、怒られる!ペオニサが戦慄いたのは、風四天王に怒られる!という点にのみだった。
今回はきっとラスも擁護してくれない。
極度の男性恐怖症なのに、同性の恋人役を自分に適性があるならやってもいいと控えめに申し出てくれたくらい、ペオニサの事を心配してくれていたのだ。リティルの言いつけを無視したと知れば、何も言わなかったにしても「もう、それくらいで」とは言ってくれない気がする。少なくとも、ペオニサを巻き込むことを提案したインジュと、最後までリティルと恋人の座を争ったインファは、きっと容赦ない。
「わああああ、オレのバカ!」
振り返ったレイビーだと思っていたモノは、なぜそう思ったのかわからない、ただの黒い影にしか見えなかった。
ど、どうしよう?逃げられるかな?ペオニサは、一歩足を後ろに――
「十華様!」
「えっ?レイビーちゃん!?」
本物!?と思うと同時に、ペオニサは踵を返していた。背後で気配が動いたのを感じた。振り返ったペオニサは、驚いた顔でこちらを見ているレイビーをハッキリ見ていた。前にいたと思っていたレイビーが、後ろにいる。彼女が、宿を出るペオニサを発見して後を追ってきたことは容易に知れた。
巻き込んだ!彼女を巻き込んだ!守らなければと、ペオニサは思った。
「ああ、後ろ――!」
立ち尽くしたレイビーが、ペオニサの背後を凝視していた。ペオニサも背後から何かが殺気とともに来るのを感じていたが、振り返っている暇はなかった。何とかレイビーにたどり着き、彼女の頭を押さえて抱きしめた。
「っ!……………………?」
衝撃は何もなかった。しかし、殺気だけは変わらずそばにある。恐る恐る顔だけ振り返ると、こちらの背を庇った小柄な影が立ちはだかっていた。
「リティル様!」
「部屋から出るなって言っただろう!クッソ!邪精霊だ!」
ペオニサを庇ったリティルの体に、縄のような黒触手が絡んでいた。リティルは風を起こして、それらを断ち切って、両手に抜いたショートソードを構え直した。
「おまえ、防御魔法は使えたよな?とにかく自分を守れよ?」
「え?それだけ?」
ビュンッと風を切る音がして、街灯の下に佇むモノから再び触手が放たれた。明らかにペオニサを狙ったそれの軌道に割り込み、リティルはそれを断ち切った。
襲ってくるのは、1本や2本ではない。軌道に割り込むリティルの肩を鋭い触手が掠った。
あっ!と動こうとしたペオニサに、鋭く「動くな!」とリティルの声が制す。
「後で後悔するからな。おまえに傷がつくくらいなら、オレが怪我した方がマシなんだよ!」
「わーお、満点彼氏!」
だが、ペオニサを庇ったまま、人間に身をやつしたままでは分が悪い。邪魔なペオニサが何とかこの空間から逃げ出さなければ、リティルはまともに戦えないように思われた。
もう、非戦闘員だからとか言っている場合ではない。
「リティル様!オレも!」
「ダメだ!」
「な、なんで!」
「約束したからな、守ってやるってな!」
いや、約束したんじゃなくて、約束させられたでしょ!?主にインファに!インファは、最後の最後までペオニサの恋人役を食い下がった。
あの時は、なんでそんなに食い下がんの!?と変なことを考えそうで動揺したが、戦闘になったら分が悪いことを察していたからかもしれない。
リティルは小柄だ。その分スピードはあるが、体力は少なく、剣の切れ味はいいが腕力がない。距離を取られ、ペオニサを庇いながらで、防戦一方だ。
何か、何か考えないと、リティルが無駄に傷を負ってしまう。
「オレ、防御魔法には自信あるよ!ちょっとの間なら持ちこたえられるからさ、だから!」
実戦経験のないペオニサは、自分の障壁魔法がどれくらいの強度があるのか知らない。だが、防げる方に賭けるしかないと腹を括った。
「オレの風を、一度防いだくらいでできる気になられては困ります」
え?
静かな怒気を含んだ声が、広場に唐突に降った。ペオニサとレイビーが顔を上げると、屋根の上に、月を背景に3人の人影があった。真ん中に立った人が僅かに動くと、両脇を固めていた人影が一斉に動いた。
長い上着の裾を翻して飛び降りてきた人影がリティルと並び立ち、襲ってきた触手をリティルと共に長い棒を操って断ち切った。もう1人、長い髪をなびかせた人影は、リティル達とペオニサ達の間に立ち、戦う2人を監視しているようだった。
「ラス?インジュ?じゃあ、あれってもしかして?」
屋根の上から動かなかった人影が、スッと右手を空へ向かって差し上げた。パリッと空気が静電気を帯びてピリピリするのを感じたかと思うと、雲もないのに、雷が白い閃光となって、件の黒い影を貫いていた。
「確保しなくてよかったのかよ?インファ兄!」
雷のビリビリする余韻から立ち直ったリティルが、屋根の上にいる人物に向かって叫んだ。
やっと、人影が飛び降りてきた。
ペオニサの庇ったレイビーが息を飲むのがわかった。
青い光に照らされたその人の、険しい切れ長な瞳がこちらを見ていたからだ。
「あれは本体ではありませんよ。あんなモノにいくら関わっても、解決できませんから」
「オレに怒るなよな。にしても、おまえら、全員で来ることねーだろ?」
剣を収めながら、リティルは苦笑した。そんなリティルに、苦笑を返したのはラスだった。
「リティルが急に通信を切るから、何かあったと思ったんだ」
リティルの隣に立ったインジュが、リティルの肩に手を置いて、超回復能力で癒やしきれなかった傷を癒やした。
「ボクは、十華を囮にしろって言い出した責任ありますからねぇ」
言い訳しなかったインファが、ゆっくりペオニサに近づいてきた。ペオニサは、ドキッと身を振るわせた。
「イ、インファ、ごめん……」
「リティルの指示に従ってくれなければ、困りますよ?あなたは、身を守ることすら満足にできないんですから」
無事でよかったと、切れ長な瞳を和らげるインファに、ペオニサはただ「ごめん」としか言えなかった。
周りに控えめな雑踏が戻るのを感じて、インファの指示でペオニサとリティルの泊まっている宿に移動することになったのだった。
わたしは、ここにいていいのでしょうか?一緒に連れてこられてしまったレイビーは、ペオニサの隣で小さくなっていた。
あの場に突如乱入してきた3人。彼等は皆、影の者だと説明を受けた。
そのうちの3人、リティル、インファ、インジュは兄弟だという。長兄はインファ、次男のインジュ、そしてリティルは三男だと説明された。ラスも含め、宝城十華とはかなり親しい間柄だという。
「ごめんね?レイビーちゃん。オレのせいで、巻き込んじゃって……」
慣れた手つきで、部屋に備え付けられていたティーセットでお茶を淹れてくれたラスが、紅茶を手渡してくれ、レイビーはいくらか落ち着いた。そんなレイビーに、ペオニサは心底すまなさそうに詫びてきた。
「いいえ」とレイビーが言う前に、容赦ない言葉が浴びせられていた。
「そうですよぉ。おかしいと思わなかったんです?クエイサラーっていっても、まだ寝静まるには早い時間ですよぉ?なのに、人っ子1人いなかったって、変ですよぉ?」
「そ、そうなんだけどね……」
インジュに詰め寄られて、ペオニサはタジタジだった。
「でも、十華が行かなかったら、レイビーさんが危なかったかもですねぇ」
「だな。レイビーはあの異常空間にすんなり入れてるからな。妙だな……まあ、初めから変だけどな。これまでの被害者と、十華じゃ特徴が当てはまらねーんだよな」
「今までの被害者って、美形の女誑し?」
ペオニサの言葉に、リティルは頷いた。
「おまえ、美形だけどタラシじゃねーからな。今までの被害者、ハッキリ言って女の敵だぜ?」
「調べれば調べるほど、恨まれていることが浮き彫りになりましたね」
その声に、レイビーがビクッと身を振るわせるのを、ペオニサは感じた。無理もない。今夜のインファはペオニサでさえ、少し怖いと感じるからだ。
「さらなる調査が必要ですね。レイビーさん、あなたもオレ達の保護下に入ってもらいます。宝城十華にただ巻き込まれただけなのか、あなたが狙われたのかハッキリしませんから」
「は、はい……あ、あの、もしかしてなのですが……」
チラチラとレイビーは、落ち着かない視線をインファに送っていた。
「なんでしょう?」
インファの声が硬い。
「じ、十華様の本当の恋人というのは、あなたでしょうか?」
ガタンッとペオニサが、椅子を倒す勢いで身を震わせた。呆気にとられた一同だったが、すぐにインファに視線が集まる。
「…………十華、そういうことにしておいたほうがいいんですか?」
まったく感情の動いていない瞳が、固まるペオニサに向けられる。
「ダメに決まってるでしょ!?あ、あああんたが過保護にするからレイビーちゃんが誤解しちゃったんだって!あ、あんたさぁ、気がついてる?こっち来てから、オレのことしか見てないんだよおおおおお!オレ、ノーマルだって言ってるのにいいいいいい!嬉しいけど、ダメなヤツ!」
「ははは、インファ兄、十華を囮にすること、最後まで反対してたからな!オレが恋人役やるって言い張ってたしな。おい十華、おまえってホントお堅いんだな」
「や、うーん、友達のスペックが高すぎて、一般の女の子が物足りないっていうか……インファ、今夜も最高だよ!」
「それは納得です。十華様は、誰か1人とお話になることもありませんし。こんな刺激的な方達がお友達では、普通の恋愛はできないかも……」
「そう!そうなんだよ!だから、誤解しないでレイビーちゃん!そっち方面誤解されちゃうと、あの人達にマジで迫られるから!」
「男性であっても掟は絶対です。身の危険を感じておいででしたら、対処いたします!」
「ありがとおおおおお!レイビーちゃん!」
「お任せください!十華様!」
宝城十華と秘書の絆が深まったところで、夜も更けるのだった。