8節『災の始まり』
午後7時半ごろ。少年と少女は見合っていた。互いの距離は3m程度。少年……夏宮シンジは刀を構えて、少女に冷たい視線を向ける。夕闇の森の深部。妖しく佇む教会の闇に、2人の殺意はとけていく。秋本の姿をしたナニカは、長い黒髪を風に揺らしながら、悠然とした態度でシンジに問いかける。
「そこな男の知人か。人の身風情で向かってきた故、少し己が存在の矮小さを思い知らせてやった。貴様も死にたくなければ、引き返すがいい。将来は残しておいて方がいいだろう?」
「……先生をやったのは、お前か」
心の底から湧き出た怒りを乗せて、シンジは吐き捨てる。
『先生』を秋本自身の手で殺させたこと。そして『先生』を殺したこと。二つの事象に対する憤怒が、シンジから冷静さを奪っていく。
「見ればわかるだろう。他に誰がいる」
「……そうか」
シンジは静かに呟き、抜刀する。握る刀の銘は『悪裁く刃』。シエルから支給された魔術礼装のうちの一つ。超高密度の魔力斬撃を可能とする特攻武装。あくまでシエルの見込みであるが、その一撃は、宿儺の魔力防護すらも破壊するという。
シンジは凄まじい速さで刃を振り下ろし、斬撃波を宿儺へ向けて放つ。宿儺は斬撃波が発生したのと同時に、散乱していたアスファルトの断片を寄せ集め、巨大な盾を造る。
(練度が足りん。所詮、付け焼き刃よ)
「気づいているぞ、男」
「……ッ!!?」
斬撃波がアスファルトの盾ともに弾け飛ぶ。
シンジは、第二武装『舜歩』を用い、人外の速さを以て宿儺の背後に回り込もうとしていた。だが、それに宿儺は気づいていた。宿儺は迫り来る刃を片手で受け止め、第一武装ごと上空へと振り上げる。宿儺は再びアスファルトを小さな『槍』のようにして凝縮し、それを数十発創り上げる。
——まずい。第一武装を手放したシンジは、即座に第三武装『速銃』を取り出し、アスファルトの弾丸を砕いていく。
「注意がおろそかだな」
「ッ、宿儺!」
反射的に、自身の右側を陣取っていた宿儺に銃口を向ける。だがシンジがトリガーを引くよりも速く、宿儺の回転蹴りが炸裂する。勢いよく吹き飛ばされる身体。シンジの肉体は教会の屋根を突き破り、薄暗い聖堂の床へと叩きつけられる。だが、その衝撃は第四武装『護神』によって、緩和される。おぼつかない足取りで立ち上がるシンジに、ポケットに手を突っ込み、余裕を体現する宿儺は語りかける。
「無駄だというのがわからんとは。愚かここに極まれり、だな。第一、そんなはした武器でこの私を殺すつもりだったのか?」
「ハァ……ハァ……ッ!」
シンジは2丁拳銃を構えながら、後退する。宿儺は機嫌悪そうに、首を傾げる。
「貴様、私の手を煩わせるつもりか? 潔く死ね。どうせ勝ち目など、ないのだからな」
秋本の姿をした怪異は、細くなめらかな腕を前に突き出し、掌に魔力を凝縮させる。宿儺はここで決着をつけるつもりだ。対して、シンジが劣勢なのは誰がどうみても決定的だった。防御礼装『護神』は、あらゆる衝撃を3回だけ無効化する。あと2回、宿儺の攻撃は耐えられる。しかし、問題なのは彼に対する決定打がないことだ。第一武装は紛失。第三武装は思いのほか火力が足りない。ならば、ここは———
(一旦、逃げる!!)
シンジは第二武装の能力を発動し、宿儺の魔術の射程圏内から脱出する。それに勘づいた宿儺は、掌への魔力凝縮を中断する。
「それで私の目を切ったつもりか、男」
宿儺が右腕を空へ掲げる。
「“終わり”とは万象に存在する。故に」
開いていた右手の掌を閉じる。
「こういうこともできる」
瞬間、教会は木っ端微塵に吹き飛ぶ。建築物の破片が空に舞う。だが、それらが地面に激突することはない。それよりも早く、宿儺の瘴気が破片を取り込んでいるからだ。開放感が増した森の奥で、第一武装を手にしたシンジと宿儺は再び見合う。
「邪魔な虫はなるべく早く駆除しておきたいというもの。そろそろケリをつけるか。もう貴様には飽きた」
宿儺は指で印を作ると、それに呼応するようにアスファルトのゴーレムが数体立ち上がる。シンジも覚悟を決め、第一武装の本当の刀身を露わにする。鋼の刀身に魔力が交わる。超高濃度・超高密度の魔力はその刀身を赤色に塗り替える。
そして数秒の間。赫い連撃が奔る。『舜歩』によって高速移動を実現し、圧倒的火力を有する斬撃でノロマのゴーレムを打ち砕いていく。シンジは怒涛の連撃の中で、宿儺へ向けて一閃を振り下ろす。
「ぶっ潰れろ……ッ!」
「やれるものならやってみろ。最も———」
宿儺はその一撃を交わすことすらしない。自前の魔力防御一つで、シンジの超高密度斬撃を抑えている。空間が割れるような衝撃が二人の間に奔る。彼は特段、防御行動を取っているわけではない。宿儺は、ただそこにあるだけでシンジの攻撃を相殺している。
(拉致が開かないな……)
シンジは舜歩で即座に宿儺との距離を取り、斬撃波を繰り出す。放たれた数発の衝撃は、宿儺によって生成されたアスファルトの盾に防がれる。
シンジが再び舜歩を使って、宿儺との距離を詰めようとした瞬間———
「遅いぞ、男」
反射的にシンジは刃を振り下ろす。アスファルトの付け焼き刃と高密度魔力斬撃が拮抗する。シンジは刀を握る拳に力を込めて、思い切り宿儺の刃を退ける。だが左手で生成していたアスファルトの刃がシンジの首を目掛けて飛びかかる。
(厄介だな!!)
シンジはその追撃の刃に向けて、刃を振り下す。そして、右脚で宿儺の身体を蹴り飛ばす。宿儺はわずかに後退し、腹部を抑えて、口角を吊り上げる。
「女に手をあげるか」
「黙れ。先輩の身体を乗っ取る怪物め」
(……この斬撃だけじゃ、あと少し足りない。宿儺を追い詰めるなら———)
シンジは一度、戦況を分析する。先ほどの拮抗をみるに、斬撃だけでは宿儺の護りは破れない。ならば、あと少し上乗せしてやればいい。シンジは再び、刃を構える。そして舜歩で距離を詰める。常人であれば目に止められぬ、超高速の一撃。シンジの魔力が上乗せされた突きが、宿儺を目掛けて奔る。
そして——
「……ッ」
その突きは、宿儺の呪核に届いた。致命の一撃を取ったことを確認したシンジは、即座に宿儺から離れる。
秋本の姿をした呪霊は、左肩を抑えながら、おぼつかない足取りで後退する。シンジは不測の事態に備えて、銃口を瀕死の怪物に向ける。
「ハッ。ハハハハハハハハハハハハ!!!」
甲高い声で宿儺が嗤う。耳に残る厭な音で、宿儺が腕を開き、愉悦の笑みをこぼしながら空を仰ぐ。
「なにがおかしい、宿儺!」
「貴様が、最後の一押しをしてくれたからだ。男」
⭐︎⭐︎
同時刻・異端狩り大阪作戦支部・作戦立案室。宿儺の呪核破壊を観測した装置の警報がけたたましく鳴り響いている。モニターと観測機械に交互に目をやりながら、樫木は言葉をこぼす。
「一体……何が起きている……」
通常、呪霊は『呪核』を破壊されれば死ぬ。人間が心臓を潰されれば即死するのと同じように。あれは宿儺にとっての生命線であり、例外はない。だが、アレは違う。
「ちょっと、どうなってんのよ樫木! 呪霊は核を壊されたら死ぬんじゃないの!」
動揺を抑えきれず、シエルが声を上げる。だが混乱しているのは樫木も同じだ。なんせ過去に前例がない。未知の事象が、モニターの向こうで起きているのだから……!
——瞬間、ある言葉が樫木の脳裏によぎる。
「……反作用」
「はあ、何よそれ! アンチなんとかって!」
「呪核を破壊した際に稀に起こる現象……と昔の知り合いから聞いたことがあるんだ。けどほんとに稀……っていうかほとんどないくらいで……その現象を認知している異端狩りすら少ないらしい」
「もっと具体的に! あれはなんなの!?」
シエルの詰問に、樫木は眉に皺を寄せて、重々しい雰囲気で答える。
「呪霊の、完全完成だ」
「は? まさか、アレより強くなるの?」
シエルの表情が困惑と恐怖に染まる。
「……詳しい話は後だ。今はとにかく、シンジを撤退させる」
樫木は重々しい雰囲気で言葉を紡ぐ。そして、シエルの方へ振り返り、
「……直ちに撤退を。第六武装『瞬間空間位置干渉』の起動を、シエル」
そして冷静な雰囲気で、樫木はシエルに命令する。シエルは頷き、ポケットから第六武装起動のトリガーとなるボタンを取り出して、即座にボタンを押し込む。
「……あれ?」
「おい、何してる! 早く」
「押してるわよ! けど、起動しないの!!」
「……ッ! 宿儺の呪力か……!!」
⭐︎⭐︎
空間が捩じ切れるような強烈な圧力を、シンジはその身体で体感していた。まるで神経を直接触られたかのような不快感。冷気に当てられて凍ったように、身体が硬直している。シンジはただ、目の前で嗤う化け物を凝視することしかできない。
(……くそ! なんで……動かないんだよ……!)
指の一本すら動かない。かろうじて呼吸が許されているのは、宿儺の慈悲だろうか。
「雑種にしては、良い狂劇だったぞ。最初からこれを目的にしていた。信じてはいなかったが、あの胡散臭い男の言っていたことは真であったか」
宿儺が謳う。いつしか夜天は、月の光すら隠すドス黒い霧で包み込まれていた。シンジは、宿儺の呪核があった場所へ視線を向ける。
(……あれが、光貴が言っていた『呪核』。おかしい。壊したはずなのに、むしろ、拡散……いや……なんなんだ、あれ)
宿儺の左肩が黒色の輝きに包まれている。
「見よ!! 叫べ!! 人類よ、これが呪霊の到達点だ!!我が名を唱えて恐怖せよ———」
その叫びと共に、宿儺の身体が白色光に包まれる。シンジも宿儺の急速な変化に、明らかな違和感を抱いていた。追撃しようにも、武装に手が伸びない。宿儺の権能なのかはわからない。だがどちらにせよ、彼には宿儺の成長を見届けることしかできない。
———白色光は、やがて巨人の概形となった。
(……は? ……あれが、宿儺?)
シンジは困惑を隠しきれない。秋本の姿をした呪霊は、その『造型』を捨てて、ビルほどの背丈を持つ巨人へと変身した。黒い靄。輪郭は捉えきれない。巨人となった宿儺は、地上で棒立ちするシンジに向けて語りかける。
「……感謝するぞ、夏宮シンジ。貴様のおかげで、オレは新たなステージへと至ることができた」
黒い巨腕が、シンジへと伸びる。宿儺の掌がシンジの目前で広がる。まるでカーテンのように、外界の景色が遮断される。
「……だが、もう用済みだ。貴様には恩がある。特別に、我が内で途絶えることを許そう」
(……ッ! 銃———)
宿儺がそう言葉を紡いだ直後、シンジは巨人の身体の内に取り込まれた。黒い巨人は、視線を切り替える。
「では、我が復讐を始めよう」
⭐︎⭐︎
戸川区の住宅街の一角。高層ビルの屋上から、巨人の誕生を見届けていた男がいた。男は黒のキャソックに身を包んでいる。そして、十字架の首飾りを右手で握りながら、遥か森の彼方を見やる。
「大方計画通りだ。巨人の覚醒も、あの少年のおかげで成った」
神父風の男は口角を緩め、僅かながら笑みを浮かべる。男の計画には、宿儺の覚醒が不可欠であった。覚醒とは、すなわち呪霊の再構成———一般に、『反作用』と呼称する現象の発現である。『反作用』。肉体という造型を捨てることで限界を超越する……呪霊の最終機構。この世に未練を残す呪霊のみが得るラストチャンス。そのラストチャンスを、敵である夏宮自らが宿儺に与えた。
「ふふ、ははははは!! 愉悦、実に愉悦だ。救うべきものも救えず、恩人すら看取ることもできない。これほどの滑稽が、あるというのか!」
神父は、それがどうにも可笑しくて、高笑いをする。喝采。喝采。あの哀れな英雄に、慈悲なき侮蔑の喝采を。そうして。一通り笑い終えた後、神父は自身の両手に黒い手袋をつける。
「そろそろ私も動くとするか。邪魔な異端狩りを排除するか。あの偉大にして高貴なる巨人を食い止められるとすれば、彼らのみだ」
神父は踵を返し、建物の内部へと戻る。神父は思考する。異端狩りの人間はあと二人。一人は教会の戦闘で邪魔をしてきた……そして、あの高校で逃走を余儀なく選択させた猛者。もう一人の情報はわからない。ただ『いる』ということだけは、情報屋から耳にしている。どちらがより脅威となるかはわからない。ただ、人員は削いでおくに越したことはない。
「樫木……あの男を先に仕留めるべきか」
神父が今後の行動を決定し、地上へ向かう階段へ向かおうとした瞬間だった。
『拘束せよ、第二の縄!!』
若い女性の宣言と共に、四方八方から同時に出現し、自身に迫る縄を、神父は腕の高速防御だけで凌ぐ。神父は瞬発力を優れていた。昔からの才能で、これだけは魔術による補強を行ったことがない。突然の敵襲に、神父は思考回路を切り替える。だが、予想していなかったわけではない。ここは魔力の濃度から見て、異端狩り大阪支部近くだろう。それゆえに、誰か釣れることもあるか……と僅かな期待を込めて、巨人の誕生をこの廃墟となった高層ビルで見守ったのだ。そして、それが功を奏した。
「存外、早かったな。異端狩りの人間だろうが、少し魔力の質が違う。よければ、姿を見せてくれないかな」
「言われなくても見せるわよ、エセ神父」
怒気の籠った声で、攻撃の主は返事をする。暗闇から響く綺麗な声色と共に、再び『縄』が神父へ二つ飛ぶ。その速度は先ほどの倍。だが、その二撃も神父の掌にあたった共に消滅する。神父は一瞬で掌に防御術式を組み込み、女の攻撃を無効化した。
「あんたどうなってんのよ、その反射神経。人間辞めてる?」
暗闇から姿を現した若い女性は、その美貌に似合わない言葉を紡ぐ。その女性は、まるで西欧のカウガールのような服装をしていた。およそ戦闘服とは思えない、露出の激しい服装。両腕を交差して、橙色の太縄を構える女性。神父は女のあまりに滑稽な装いに吹き出す。
「ハハ、それは何かの冗談か? 異端狩りの人間にもユーモアがあったとはな。センスは、壊滅的だが」
言葉を紡ぎ終えたと同時に、神父は女に向けて針状の魔弾を飛ばす。切先は研ぎ澄まされている。貫けば命脈を断つ。理屈ではなく、本能でそれを感じ取った異端狩りは、
「とろい!!」
太縄を弾き飛ばす。ソレは、意志を有しているかのように、魔弾を締め潰す。その神秘の有り様を目にした神父は、感動に堪えきれず喝采する。
「それが君の礼装か」
「そうよ。これが私の『解縄魔破』」
「決定打に欠ける。それではこの私は仕留められんな、異端狩りの者よ」
「そう? やってみないとわからないものよ。……夏宮くんの仇は取るわ」
低い声。怒気と悲哀を込めた声色。異端狩りは被っていた仮面を外し、自身の魔力回路を活性化させて、戦闘態勢を整える。世界が軋む。まるで、神の降臨でも見ているかのよう。
神父はその戦闘宣言に口角を吊り上げ、懐からお札を何枚か取り出す。
「名乗りなさい、神父。あんたがどこの誰かは知らないけど、名前くらいは聞いといてあげる。安心しなさい、私が看取ってあげますので。墓標の一つくらいは、建ててあげましょう」
「名は捨てた。もとより意味のないものだ。それよりも君の方から名乗ったらどうだね?」
異端狩りの女は両腕を交差させ、縄を構えて、勢いよく顔を上げて宣言する。
「シエル・マークスマン。貴方を裁く、狩人です」