リュック副将軍は仔犬ちゃん
わたしに思いっきり殴られたレイモンドは、意外にも倒れなかった。
彼の口の端に血がにじんではいたけれど、歯や鼻の骨が折れたということはなかったみたい。
おかしいわね。頬っぺたではなく、真正面から鼻と口に当たるように拳を叩きつけてやったのに。
食らわしたわたしの拳が痛くなるなんて、ムカつくわ。
だけど、よく考えたらしょせんレディですもの。男一人をふっ飛ばすような力はないわよね。
あらためて非力さを思い知らされた。
これまで、おとなしくて気弱な「戦利品妻」を装ってきたので、よりいっそう軟弱になっているのかもしれない。
「ハッハハ! エリカ。もしかして、おれをぶっ飛ばそうとでもしたのか? 甘い甘い。まだまだ力が足りないな。おれは、子どものときのおれとは違う。『氷竜の貴公子』だぞ。とにかくすごいんだ。そんなおれをぶっ飛ばしたいなら、もっと鍛えた方がいい」
「はあああああ? なにが『氷竜の貴公子』よ。『漂流』の間違いじゃないの? ああ、流浪っていった方がいいかもしれないわね」
現に彼は、同腹の兄アルフォンスのお粗末な謀略のせいで地位を奪われ、命を狙われて彷徨っていたのだから。
「それはわざとだ。好機を狙っていたんだ。おれの戦術ってわけだ。ほら、見事反逆者を捕えることが出来ただろう? 褒めてくれていいぞ」
「はああああああ? あなたねぇ、寝言は寝て言ってちょうだい。わたしが囮になって彼を誘き出し、あなたがいいとこどりしたんじゃないの。それを、何が戦術よ。笑ってしまうわ」
自分でも、何か違うってわかっている。それから、どうして彼に対して素直になれないのかと不思議でならない。
わたしの顔に対する理不尽かつズレまくった彼の発言はともかく、アルフォンスに殺されかけたわたしを救ってくれたことは事実よ。
まあ、それが彼の表現する高尚な「戦術」であるかどうかは、かなり疑わしいけれど。
とにかく、レイモンドがわたしの命を助けてくれたことは間違いない。そして、わたしの祖国を救い、さらには死んだとばかり思っていた家族の捜索もしてくれている。
彼にちゃんとお礼を言わなければならないのに。
そして、それ以外にも伝えなければならないことがあるのに……。
それが言えないでいる。
これって、素直じゃないというのかしら。もしくは、可愛げがないということかしら。
だけど、彼も悪いわよね。
もっと言葉を選んでくれたらいいのに。小説だったら、ヒロインの相手の男性はたいていヒロインを気遣い、立て、チヤホヤし、持ち上げまくるのに。
レイモンドって、ことごとく反対のことをしているわよね?
ああ、そうね。わかっているわ。小説だったら、ヒロインも相手の男性に対してたいていは気遣い、立て、デレデレ状態で持ち上げまくって尊敬するわよね。
わたしが悪いのかしら?
あー、モヤモヤする。
「あの、閣下」
可愛い顔をしているけれど背丈がちょっと残念な将校が、一歩進み出た。
彼っていったいなんなの? まるで仔犬みたいだわ。キュートすぎる。
背は残念だけど、将校服の上からでも筋肉質なことがわかる。
「閣下、恋い焦がれ続けているお姫様を紹介していただけないのでしょうか?」
「リュック、やめろ」
レイモンドが真っ赤な顔で怒鳴ったけれど、リュックという名の将校はそれを意に介さない。
「王太子妃殿下、ご挨拶が遅れました。それと、この一夜は大変でしたね。ですが、ご無事でよかった。ぼくは、リュック・シャリエ。副将軍という肩書ですが、実際のところは将軍閣下の使い走りをしております」
リュックは、わたしの前に立つと上半身をわずかに傾けてわたしの手を取った。それから、手の甲に口づけをしてくれた。
なんてことかしら。彼は仔犬みたいにキュートなだけでなく、すごく紳士だわ。
「はじめまして、リュック副将軍。せっかくご挨拶いただいたのに、ひどい顔をしていて申し訳ありません」
レイモンドの方にチラリと視線を送ってから、仔犬みたいにキュートなリュックに笑いかけた。




