七話 化身暴走
カイン・ジェムティアーズは校舎の東棟を越えた先にある駐車場にやってきた。
そこに停まっている一台の車に近付いて、運転席の窓ガラスをノックする。
窓が開き、中から四十代くらいのがっしりとした体格の男が顔を出してきた。表情はどこか暗く、虚ろな瞳でカインを見つめている。
「突然申し訳ありません。私、ルカ・スフィアくんの担任をしている者です。彼の送迎をしている方ですよね? 少しお伺いしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
構いませんと相手は頷いた。
「ありがとうございます。……その前にスフィアくんとのご関係を聞いても?」
「俺は━━、世話係みたいなもんです」
ぼそぼそした声で男は質問に答える。
「ああ、そうでしたか」
関係性が分かったところでカインは本題に入った。
「彼、頻繁に怪我をしているのですがその原因について心当たりはありませんか?」
「……すみません。ここ二ヶ月程あの子は叔父の家で生活しているので、詳しい事は」
「車の中とかで何か言っていませんでしたか?」
「特に何も……」
何か後ろめたい事があるのか、会話の途中で男は目をそらす。
「ご実家の方は彼の怪我の事を知っているのでしょうか?」
この質問には答えすらしない。カインは否定と捉える事にした。
「分かりました。ではこちらから連絡を入れて事情を━━」
「駄目です」
焦った様子で相手は発言を遮る。生気のない目が、やめてくれと訴えていた。
「……何故です?」
「あそこにあの子の味方になってくれる人間はいない」
「詳しく聞かせてもらえませんか?」
男は一瞬躊躇った。しかしここまで話してしまってはもう後には引けない。それに彼自身、これ以上見て見ぬふりをするのは限界だった。
「……あの子は━━」
◇◇◇
部室と保健室との距離は割と近い。真っ直ぐ伸びた廊下を少女はすたすたと歩いていく。
ドアを開けたその部屋は、救急箱と薬品がしまわれている棚があった。
端にあるベッドにはカーテンがかかっていて中がよく見えない。
けれどそこから何かを啜るような音が聞こえてくる。
フィアはゆっくりとそこに近付き、そおっとカーテンを開けた。
ベッドは所々赤く染まっている。
その上にいる少年が、自身の左腕に噛みついているのが原因だ。
彼はフィアに気付く事なく、一心不乱に血を啜っている。見開かれた瞳は正気を失っているように感じた。
「ルカくん」
少女の声にびくりと身体を震わせるとこちらを見た。口から離れた噛み跡からぽたりと血が零れ、また一つベッドに斑点が増える。
「フィアさん……? なんで━━。駄目、来ないでっ……」
ひどく怯えた表情をして、少年は近付くなとフィアに訴えかける。
「ルカくん落ち着いて━━」
「来ないで!」
声を張り上げた直後、苦しそうに腹部を押さえた。フィアにも聞こえる程大きな音がそこから鳴り響く。
空腹を紛らわせる為か再度腕を噛み始めた。鋭い牙が肉を抉り、新たな傷を作り出す光景は見ていてとても痛々しい。
「お腹が空いているのなら私の血を飲んで」
これ以上自分を傷付けるのはやめてほしいと、フィアはルカの左手を掴んだ。
差し出された手は温かく滑らかでとても美味しそうだ。今すぐに牙を突き立てたい衝動に駆られゆっくりとそこに口を近付ける。
しかし脳裏にあの時の、クラスメイトを襲った時の記憶が蘇った事で動きが止まった。
「嫌だ……。もう誰かが痛がるところは見たくないのに、なんでこんなにも━━!」
ルカはフィアの手を振り払うと、ベッドから降りて保健室を飛び出す。
「待ってルカくん!」
少女も後を追おうと廊下に出るが、彼が出した結界によって阻まれる。
なんとかして破壊しようとしている間に少年は曲がり角に消えていった。
◇◇◇
「スフィア家では稀に日光に弱く、血液によって体内の魔力量を増加させる人間が生まれるんです。家の人達はそれを嫌がって、その体質をもって生まれてきたルカを忌み子として地下に閉じ込めていました」
柔らかな陽射しが差す駐車場にて、二人の男が硬い表情を浮かべたまま会話を続けていた。
「最初は世間にこの体質がばれるのを恐れ殺そうとしていたようですが、殺人が発覚してしまう方がかえって危険だという意見ともう一つ━━。あの家は年々生まれてくる子供の魔力が減少していました。それを懸念する人達から魔力の高いあの子から跡取りを作ろうという案が出てきたんです。……彼の祖母は最後まで反対していましたが」
長く続く魔法使いの家系ではよくある話だ。祖先が編み出した魔法を後世に残したい、その為に優れた人材がほしいと願うのは。
「最初に言った通り、スフィア家の特異体質は血を摂取する事により体内の魔力量を増やすというものです。しかし逆に、一般的な食べ物を口にすると魔力が落ちてしまう。ルカに血を与える役目として、俺は雇われました。……長い間あの家にいましたが、誰一人あの子を人間として扱う人はいません。ストレスの捌け口に殴る蹴るなんて日常茶飯事です。邪魔をすれば俺の家族にも危害を加えると言われて、ただ見ている事しか━━」
自分の不甲斐なさを情けなく思ったのか、男の目が潤む。カインがハンカチを差し出すと、礼を言って受け取った。
「俺に出来る事は血を与える事と、文字と簡単な魔法を教える事ぐらいで……。それでもあの子はすごく喜んでくれて、覚えも早くて読み書きがある程度出来るようになると、隅に積まれている本を読んで過ごすようになりました。そこからほぼ独学で魔法や色々な知識を吸収していったんです。……学校に行ってみたいとよく言っていました。せめてその願いだけでも叶えてやれないかとある日思い切って頼んでみたんです。そしたらお婆様はこの学園の入学試験に合格したら許可してやると、そう条件を出してきました。どうせ出来っこないと思ったのでしょう」
「しかし予想に反して合格したと」
「ええ。その結果が気に食わなかったのか学園には叔父の家から通えと言ってきました。叔父は気性が荒く一番ルカに暴行していた人物です」
「ではあの怪我は全て……」
おそらくは、と相手は答える。
「学園側が感づいたと知れば、ここをやめさせられまた地下に連れ戻されるでしょう。……先生、ルカは毎日楽しそうにここでの出来事を話していました。そんなあの子から学園生活を奪うなんて事……っ。お願いします、どうか助けてください。これ以上あの子が苦しむところを見たくないんです……!」
頭を下げ懇願する男の肩にカインは手を添える。
教師として、良識ある人間としてやるべき事は一つだ。
「お話を聞かせてくださりありがとうございます。安心してください。後は我々に━━」
カインが喋っている途中、遠くから爆発音が聞こえてきた。
二人は驚きその方向を向く。
やんちゃな生徒が何かやらかしたにしても大き過ぎるその音に、ただ事ではないとカインは判断した。
「すみませんちょっと見てきます」
口早に男に伝えると音がした方へ走り出していった。
◇◇◇
とりあえず人がいないところに行こうとルカは庭園に来た。
外は昨日とは打って変わって穏やかな天気だった。風が少し冷たいが、太陽が上からぽかぽかと暖かく照らしてくれているのでそこまで気にはならない。
しかし、その柔らかな陽射しも彼には少し刺激が強い。傘を忘れてしまったので防ぐ事も出来ない。
痛みを紛らわせる為に景色を眺める事にした。
昨日の大雨の影響で石畳はてらてらと濡れていた。
花や葉に付いた水滴は日の光によって宝石のような輝きを放っている。
そのどれもが綺麗で、眩しくて、同時に自分がひどく薄汚れた存在だと突きつけられているようで切なかった。
上空ではそんなルカを馬鹿にするようにカラスがカアカア鳴いている。
「…………お腹空いた」
言ったところでどうにもならないのは分かっているが、今日はもうデザイア魔法は使えないのでこうする他ない。自分の血を吸って紛らわせていたけれどそれもあまり意味はなかった。
止血していないから先程からポタポタと垂れて雨水と混ざり合っている。せっかくの綺麗な場所をこれ以上汚すのは申し訳ないと、傷口に手を伸ばした。
「うっ……」
左腕に触れようとした瞬間、今までとは比べ物にならない程の空腹感が襲ってきた。咄嗟に腹部を押さえ、その場にしゃがみ込む。
━━なんで……、魔法の効果はまだ切れてない筈なのに……っ。
空っぽの胃が何か食わせろと訴えている。あまりのひもじさにデザイアの化身を喚びだしてしまった。
黒いオオカミは普段と様子が違っていた。いつもははっきりとその形を保っているのに、今目の前にいるそれはモヤのようにおぼろげだ。
「……この声こそが絶対、この言葉こそが真実━━」
詠唱の途中、授業で言われた事を思い出す。短期間で大量の魔力を与えると暴走した化身に取り憑かれ、周囲の人間に危害を加えると。
そんなのは駄目だと口を閉じた。これ以上誰かを傷付けたくはない。
しかしどんどん腹は減っていく。キリキリと胃が痛くなっていく。くらくらと頭が揺れていく。
「━━っ。命じたままに動け」
自身の意思に反して口は詠唱を再開した。
空に浮かぶ黒い鳥はその光景を見て嗤っている。
「飢えを凌ぎたい、この願いを聞き届けろ━━!」
言い終わるのと同時に響く咆哮。いつもならこの後腹は満たされる筈だが、自身の身体に変化はなく代わりに化身の姿が完全に崩れていった。
ルカを囲うように黒いモヤは動きだす。
「な、なに……これ」
望んでいない変化が起きた。両手が黒く染まり先端には鋭い爪が。
少年は立ち上がり、まとわりつくモヤを払おうと腕を振った。しかしその抵抗も虚しく段々とそれは距離を縮め、視界が徐々に狭くなっていく。
完全に目の前が闇になる直前。ルカが最後に見たものは、こちらに向かって走ってくる水色髪の少女の姿だった。