僕の物語「消失」
それから一週間後、彼女が僕のところへやって来た。ドアを開けると彼女はふらふらと力なく倒れ込んできた。僕は彼女をリビングのソファーへとそっとな寝かせた。何故か、いつもの彼女とは違って見えた。少なくとも、この前会った時とは、明らかに違っていた。僕は何度も「大丈夫か。」と声をかけていた。4回目でやっと彼女は力を振り絞るようにして「ええ。」と答えた。そして彼女は涙を流しながら言った。
「あの人が死んだの。」
「死んだって誰の・・・。」
僕は自分の言葉も言い終わらないうちに外へ飛び出していた。息を切らせながら彼女の家の前に辿り着いた僕はがっくりとひざを落としていた。地の底まで引き摺り込まれるようにして、僕の身体は力を失っていった。家の中からは弥生の泣き声が響いていた。彼が死んだ。僕が彼を死に追いやったのだ。あの時から彼の流れは逸れてしまったのだ。そして、枝分かれした小さな流れが砂に吸い込まれ、消失してしまった。僕が彼を小さな流れに追いやり、彼を殺したのだ。やはり、あの時、僕は逃げるべきではなかった。
「川の流れる方向が見えた時にはもう手遅れなんだ。」
そして、その通りになった。もう彼の流れを取り戻すことは僕にはできない。誰にもできない。僕は流れに逆らうべきではなかった。いや逆らってはいけなかった。僕は彼女を愛していたし、愛している。あの時、彼女を幸せにするのには他に何も必要ないことはわかっていた。まわりみちしてしまったが、やっと自分の流れを見つけることができたような気がした。これが僕の流れなんだ。この流れが間違えていようとも、今の僕にはこれしか見えないのだから。今の僕に必要なこと、それは彼女を愛しているということ、ただそれだけ。ただそんな気がした。
僕はソファーの上の彼女をただ抱きしめていた。彼の痛みが今頃になって伝わってきた。彼女と二人、傷つけあいながら生きて来た日々、僕が逃げ出してから送ってきた日々の痛みを。
「もう離さない。」
僕は何度もつぶやく度に彼女を強く抱きしめた。取り戻すことのできない彼の過去と未来を引き裂いてしまった自分が許せず、初めて死にたいと思った。しかし、もう死ぬことさえ許されないこともわかっていた。
「もう離さない。」
親友を失い、彼女まで失うわけにはいかない。
しかし、朝目覚めてみると彼女はいなかった。僕の腕の中には冷たく硬直した女がいた。寝顔は美しく、彼女の顔はしていても、もうすでに彼女ではなかった。彼女は永遠の眠りの中へ誘い込まれしまった。もう戻ることのできない眠りの中へ。僕はいつまでもその冷たく硬直した女を抱きしめていた。涙だけがただ彼女の上を流れていった。
そして僕より悲しむ人のことを思った。すでに両親を失ってしまった人のことを思った。弥生の両親はもうすでに失われてしまった。弥生を置き去りにし、すでに失われてしまっていた。僕もまた、弥生を置き去りにするのだろうか、僕が彼女を置き去りにしたように。しかし、僕に何ができるというのだろうか。両親を奪った僕が、その娘に何をしてやれるというのだろうか。でも、このままにはできない。そう、何もできなくても、とにかく始めなければならない。もうこれ以上は誰にも傷ついて欲しくないし、誰も失いたくない。とても怖かった。とても・・・。