57話 昔々のつい最近Ⅰ
80年前――。
シーリッツ海岸に港がなかった頃。
昔々のつい最近。
海岸には、漁師の船着き用の桟橋だけがあった。
その桟橋と、申し訳程度に置かれたボロい屋根小屋の掃除を任されていたのが、近くの農村に住むロックというみずぼらしい坊主頭の少年だった。
ロックは王の命令で、桟橋の整備を雨の日も風の日も欠かさず行っていた。
この桟橋の清掃一つで王室から報奨金も出る。
たかが桟橋と小屋一つに、なぜ報奨金?
――と不思議に思うだろうが、侮るなかれ、80年前のシーリッツ海はアークヴィランの巣窟だった。
単純に危険な仕事だったのだ。
当時も魔王統治の時代からアークヴィラン侵略の時代に移って既に2000年の月日が経過していたが、それでもアークヴィランとの適応競争による混乱は続いていたのである。
それは現代でも同様だ。
海は人間社会から離れているため、環境ニッチ争奪の激戦地となっているのは今も昔も変わらない。
だから、海に近づく人間は物好きか漁師だけだ。
そんな場所で、自ら進んでロックは掃除当番をこなしていた――。
ロックは純粋にシーリッツ海が好きだった。
山間の小さな村で育ったロックは、開放的な広い海を見ると、吹き溜まりの村の雰囲気から逃げられる気がして、掃除当番も毎日の楽しみになっていた。
また、彼は生まれつき手先が器用だった。
細かい道具の整備やメンテナンスはお手の物。
そういった才能から、村から押し付けられるように桟橋の掃除に駆り出されていたが、綺麗な海を見られるならと、ロックはそれを受け入れていた。
そんなある日のこと。
ロックが日課の桟橋掃除に行くと、桟橋に女が半身を投げ出して倒れていた。
ロックは驚いて駆け寄った。
近くに来て、その女が傷を負ったセイレーンであると気がついた。
セイレーンは海の魔女。
姿こそ見せないが、昔は漁師を襲って積み荷を奪ったり人肉も食べていたりという怖ろしい噂もあった。
ロックは怖れて、その場を離れようとした。
直後――。
「!?」
桟橋が大きく振動し始めたのだ。
何かと思い、慌てて周囲を見回すロック。
沖の方から、まるで津波のような大きな波が迫っているように見えた。
ロックは目を細め、その大波を注視した。
波が差し迫ってきてから、ようやくそれが何かの大群であることが判り、次第にそれがトビウオのように海面を跳ねて迫る魚群なのだと気づいた。
ロックは恐怖で身動きが取れなくなった。
「い、いや……ああ……」
気づけば、桟橋に上半身を投げ出していたセイレーンの女も、その気配に気づき、魚の大群を見て血の気が引いていた。
そのセイレーンの体中に、小さな傷穴があった。
あの魚の大群が機関銃のように貫通した痕のようにも見えた。
傷だらけのセイレーンの姿から、この後に起こることが容易に想像できた。
ロックは身震いした。
怒涛の勢いで迫る魚の大群は、容赦なく距離を詰めている。
最早ここまでか、と諦めて目を瞑ったロックだったが、魚の大群が自身の体を貫く頃――。
「オオ……オオオオ……!」
低い男の唸り声が近くで聞こえた。
恐る恐る目を開くと、桟橋にはいつの間にか、黒い鎧を身に纏った騎士が整然と立っていた。
「抜刃」
謎の黒い鎧の男が何やら呟くと、どこからともなく男は双剣を取り出した。
そして迫り来る魚群を――。
「――――……!」
一呼吸の間に目にも止まらぬ速さで斬り裂いた。
刃の残像と魚群の進路が重なるたび、細切れの魚の屍が散らばっていく。
魚群は数百を優に超える数だった。
にも関らず、黒騎士は雨を斬るかのごとく動きで、そのすべてを薙ぎ払った。
魚群は塵のように霧散し、黒煙が立ち込めた。
「急に駆け出したと思えば……。これで何個目?」
黒煙の中から女の声がする。
黒煙が、一点に吸われるようにして消えた。
そこには別の女がいた。
身軽な軽装の服に厚手のマントを羽織っていた。
中に軽装の鎧が覗き見えた。
女は、黒い霧を吸い込んだ瓶を大事そうに両手に納めながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ふぅ。回収完了っと」
女はセイレーンを庇い、透明度の高い盾を桟橋に突き立てていたようである。
女が立ち上がると、その特殊な盾も消えた。
「シュコー……シュコー……」
「大丈夫?」
「ああ」
黒い騎士は短く返事をし、何事もなかったように立ち去ろうとした。
ロックが驚いたまま二人を見守っていると、女が気がついて立ち止まる。
「ちょっと。ソード」
「なんだ?」
「放っとくの? 子どもと怪我人だよ」
「……」
黒騎士――ソードが、睨むようにロックとセイレーンを交互に見た。
「知るか」
「わ。それでも元勇者なの?」
「シュコー……シュコー……」
ソードは黒い鎧を解き、その素顔を曝した。
踵を返して桟橋まで戻ると、腰を抜かすロックの襟首を掴んで無理やり立ち上がらせた。
「小僧。アークヴィランを見たら逃げろ」
「は、は、はい……っ」
「それとだな」
ソードが眉間に皺を寄せてぶっきらぼうに言った。
「いい加減、この海岸にちゃんとした船を準備しろって人間どもに伝えろ。こちとら、あの島との往復に苦労してんだ」
ソードが指を差した先は、沖にいくつかある離れ小島のさらに先の島。――そこはかつて勇者が祀られた『孤海の島』と呼ばれる神聖な場所だった。
「あ、あなた様は……勇者様なのですか?」
「そうだ。俺はソード。こっちはシールだ」
「シ、シール様~!?」
「どうもー」
軽装の女が愛想よく手を振ってきた。
ロックは狼狽して口をパクパクさせるばかりだ。
シールとはシーリッツ海沿岸では知らない人がいないほど伝説的勇者の名前。それを拝んでしまった衝撃は測り知れない。
「俺たちは野暮用で孤海の島をよく往復してる」
「そ、そそそ、そうでしたか……」
ソードは不機嫌な顔でセイレーンの方に向かった。
傷に苦しむセイレーンをお姫様抱っこすると、懐から出した薬を飲ませて丁寧に海へ降ろした。
「あっ……ありがとうございます……」
態度はぶっきらぼうだが、紳士な振舞いだ。
ソードは長居する気もなさそうで、すぐ桟橋を出ようと踵を返し、背中を向けながら忠告した。
「あんたらセイレーンも意地張ってないで海を出な。しばらく海は片づかねえ。人間ならアークヴィランに襲われることはないから、下手なプライド捨てて匿ってもらうんだな」
「……」
セイレーンは答えなかったが、何やら思うことがあるのか、黙ってその言葉を聞いていた。ソードは立ち止まらず、シールも小走りでその背を追いかけた。
去り際。
「船のことは頼んだからな!」
「は、はい。あなた様は命の恩人です……! ここに港を……叶わなければ、僕が必ず船を用意します」
ロックは命の恩人の背をずっと見守っていた。
船着き場の掃除当番をしながら、船造りにも挑戦しようと心に決めながら――。
颯爽と駆けつけ、敵を屠るその姿に敬服した。
その日からロックは船大工の道を歩んだのである。




