242話 終わりゆく世界の二人
気づいたときにはすべてが終わっていた。
俺が何事もなく生きていること。
目の前にいるケアが、やけに神聖さを欠いて厭らしい笑みを浮かべていたこと。
――それらの状況から、どうやら無事に勝利したらしいことを理解した。
「よかった……。リピカか」
「どうかしら? 第五のケアかもしれないわ」
「勘弁してくれ」
こんな笑えない冗談をさらりと言ってくれたことが、今の俺にはこの上ない安心だった。
邪神ケアの偽物は消えた。
厳密には、消えたというよりリピカの記憶を上書きしただけだが。
最初から『偽アガスティア・ボルガ』は奥の手であり、俺が順当に『紅き薔薇の棘』による【吸収】でヤツを取り込めれば、この奥の手は必要がなかった。
しかし、保険に保険をかけるような作戦が、今回は功を奏した。
「なにその顔。まるでリピカちゃんが最終決戦のMVPをかっさらっていって不服だなー、みたいな顔じゃない」
「違ぇよ……」
「それを差し置いても、こうして私が受肉して本物の私と話ができたこと、ちょっとは喜んでくれてもいいでしょうに」
リピカは本気で拗ねた様子だった。
こいつもソードと俺のような、ケアと人格を違えた別側面。しかし、本質的にはケアと同じ性格をしているようだ。
「あのな……。俺はもう、ヤバいんだ……」
リピカには俺の顔がどんな風に見えるのかわからないが、とにかく今の俺は苦しい。
魔王城に歩いてくるだけできつかった。
いつ自我が崩壊して、内包する黒繭が羽化するかわからないほど、体内で狂気がとぐろを巻いているのだ……。
余裕がないんだ。
偽神ケアに、ソードのふりをして接近するときも、その余裕のなさを見抜かれないようにすることで必死だった。
「――ま、それはお互い様だけれど」
リピカはバレエでも踊るように、その場でくるりと舞い、そして口元だけの笑みを浮かべた。
目元は笑っていない……。
その口から零れるのは、黒い瘴気。
そうなのだ。
陰謀を企てた邪神の人格を上書きしても、元凶そのものが消失したわけじゃない。
今、リピカが乗っ取ったケアの体は、【時ノ支配者】という邪悪なはぐれ魔素――データヴィランの本体を孕んでいる。
そして、リピカはあくまでこのゲーム内で再現されたオブジェクトの一つ……。
他の人間兵器のように、ゲームの終焉とともに現世に戻ることはないだろう。ゲームシステムが崩壊すれば、ゲームとともに消えゆくオブジェクトに過ぎない。俺もそうだ。
「本当に、お互い不器用な生涯よねぇ。いつも自己死滅に向かって生きていく宿命なんだもの。死に急がないと生きられないなんて、酷い運命を与えたものだわ。神様は」
「はは……。でも、それも今回で終わりだ」
俺は愛情を込めてリピカに微笑んだ。
これが俺の人生において、他人に向ける最後の優しさになるかもしれない。
もうお人好しは止めた。
――が、リピカ。お前にはまだ借りがある。
こいつは【時ノ支配者】に乗っ取られ、人間兵器として過ごすはずだった何千年もの時間を奪われた。勇者として一緒に過ごせなかった分、最後には報われるべき仲間の一人だと思う。
俺は、リーダーだったからな……。
「リピカ、その件だが、おまえは大丈夫だよ」
「はぁ。この期に及んで、まるで根拠のない優しさを向けてくるのね」
「そうじゃない。当てがあるんだ。おまえを現世に連れ戻す当てが」
リピカは怪訝な表情を向けた。
その瞳には、希望の光を宿しながら。
「そう。まぁ、期待しないで待っておくわ」
「期待していい。きっと大丈夫だ」
「……」
リピカは片目を開け、やや紅潮してしまった頬を誤魔化そうとそっぽを剥く。
「それよりも――時間がないわ。さぁ、さっさとやって? 私が……私の中にいるケアが、また悪い女になってしまう前に」
「わかってる」
俺は『紅き薔薇の棘』を抜いた。
他者の力を奪い尽くす蹂躙の剣――。
それを逆手に構え、リピカの背中に手を回す。
リピカは目を徐ろに瞑って、俺の手に背中を預けて天井を仰いだ。
躊躇せず、その胸に剣を突き立てる。
ためらったら、そのまま己を鼓舞させることもできないような気がして。
――ドクン。
突き立てた薔薇剣から蔓が伸び、ケアのものだったリピカの体に茨が這っていく。
その触手めいた棘の数々が彼女の体にまとわりつくと、【吸収】が作用し、その身に宿した魔素を抜き取っていく。
【治癒】。
【再生の奇蹟】。
【潮満つ珠】。
――そして、【時ノ支配者】。
彼女が持つ魔素をすべて吸い出した。
極上だったのは、やはり【時ノ支配者】。
時間を司るこの魔素が二律背反の素となった。
それが今、俺の体に戻ってきて、魔王の体に染みわたっていく。
すると、
「う……う……ぐ……」
痙攣してひざまずく。
『紅き薔薇の棘』が、カランと乾いた音を立てて大広間の床に転がった。かつての主が君臨していたこの魔王城の床に。
そして剣は塵のようになって消える。
「ア……ガ…………ガガガ……!」
体中がうねり、拍動し、ぎゅるぎゅると蛇が暴れ回って皮膚がはち切れそうだ。外宇宙のエイリアンが体内で暴れ回っているかのように。
体が膨張し、腕は制御が利かず、声帯も自制が効かずに唸り声を上げていく。
「グ、ググ髃グ愚ガ臥蛾ゲゲ鏵ゲゲゲ!」
少年のようだった体が膨張し、もはや収拾がつかない。
背中から腕が生えたり引っ込んだり、首から爪が飛び出したり引っ込んだり、本来の人型を留めておけないほど、俺の体内で魔素が暴れ回っていた。
「…………」
リピカが、魔素の汚染に耐える俺を見ていた。
その瞳には憐憫が込められている。
俺はというと、そんな人外の域に達した自身の状態を、なぜか冷静な目で俯瞰できている。
痛みや苦しみも感じない。
これが、無我なのだろうか。
「ギギ戯ぎ、んギギギィイ鋳イいいい!」
もうこれ以上、持たないかもしれない。
狂気に呑まれ、俺はアークヴィランそのものになってしまうのかもしれない。
「リ……リリギギイイ、ヒ、カカ柧ククク渦」
言うことのきかない口で、必死に呼ぶ。
幸いにもリピカは察しがよかった。
「聞こえているわ」
「聖せセセ瀬せいヶ怪ケ嫌権顕」
「リィールブリンガーね」
リピカは俺の言いたいことを悟っていた。
言葉にすらなっていない断末魔の声を、正しく聞き取ってくれていた。
リピカは辞書『法典武装』から聖剣を取り出して、その剣を構える。
「夜耶ヤヤ、……玲レ!」
「……」
リピカは「いいの?」とでも言いたげな目で見ている。
当然だ。もうこれ以上は無理だ。
体内の【時ノ支配者】が暴れ出そうだ。
そうなれば、結局は繰り返しになる。
無力化できているこの元凶を、押さえ込めているうちに『パンテオン・リベンジェス・オンライン』ごと開闢剣でぶっ壊し、【時ノ支配者】というデータヴィランを電子の海の藻屑にするというのがプランA――。
プランAは、多くの人間兵器が反対だった。
特にシールが……。
なぜならこれは押さえ込んでいる俺が【時ノ支配者】とともに死ぬことが条件になる。
約束も破ることになるのだ。
俺が死なずに済むプランBも考えてある。
というのも、俺が魔素をすべて押さえ込み、魂魄となって邪悪な魔素を配下に統べるというもの。
実は、このプランBも俺の発案だ。
その時点でお察しだろうが、このプランBは成功率がほぼゼロに等しく、プランAに反対の仲間を説き伏せるための、絵に描いた餅だ。
つまり、最初からプランは一つだけだった。
リリスにも勇気づけられたが、端からプランBがうまくいく自信はなかったのだ。
〝――つらいときに、それが頑張る糧になるはずだわよ〟
確かに、頑張ってみるとは言った。
というか、今も頑張っている。
すごく頑張っている。
プランAと決めているなら、最初からリピカに聖剣を振らせている。
でも、そうはしなかった。
一応プランBも挑戦してみたのだ。
それでもこれは望み薄すぎる。
体がはち切れて黒繭が羽化する。そして飛び出した蝶が俺たちにまた牙を剥くことになる。
もう誰かが犠牲になって軛を絶たないと、どうしようもないんだ。
「わかった……。でも安心して。私も一緒にいるから。その暴れ馬、生み出した私たちでけじめをつけましょう」
「タ汰タ汰タ汰ノ霧鵡ム」
リピカはそうして開闢剣を――地神が遺した聖剣を魔王城に突き立てた。
世界を壊すべく振るった聖剣は、開闢とは真逆の終焉をもたらす。
ピカっと光りが放たれる。
そして、大きな震動が起きた。
ゴゴゴゴゴゴという地鳴りが響く中、俺は自分の体の震えと世界崩壊の震えのどちらも感じ取って安堵した。
これでようやく、終わる。
そして人生最後の、手向けの救済を――。
「――XXXX、もう大丈夫よ。もう休んでいい」
リピカが聞き覚えのない名で俺を呼んでいる。
誰だろう。
俺のことなのか、あるいは俺の過去の誰かの名前なのか、自我を喪失しかけている俺にはもうその判別すらつかない。
ただ、うずくまる俺の背に添えてくれたリピカの手が、やけに温かく感じた。
リピカは俺が俺ではないずっと古代から、俺を知っている。きっと俺に向けた感情は、母親が持つそれと似たようなものなのかもしれない。
俺は意識も飛び飛びの中、体内のとある魔素を探した。
「なに、してるの? ――」
リピカが戸惑う。
魔素……。あったあった。
吸収したばかりだが、何度も見てきたから使い方は知ってる。
俺の体がぶくぶくと沸騰したように泡が立つ。
その泡から垂れ流されるように、大量の水が湧き出て大広間を流れていく。
「【潮満つ珠】……!? なにを!?」
「おオ摩柄餌エハ、リン燐凜臨ひ比唖アア」
「待って。どうして――」
リピカは反応し終える前には、大広間を大量の海水が埋め尽くした。
リピカはそれに呑まれ、流されていく。
リンピアのところに行け、と言ったつもりだったが、ちゃんと聞き取れただろうか。
あいつなら大丈夫かな。
――作戦会議中にリンピアと話したことだ。
リンピアは俺が現実世界に戻る前提で話を進めてくれていた。
俺はソードから分離された別個の人格であるため、現実世界における肉体はない。きっとゲームが消滅したら、ジャックというモブも消える宿命だろう。
それはリピカも同様である。
その救済措置として、あちらの世界にいる〝人形師〟なら何とかできるかもしれない、とリンピアは教えてくれた。
人間兵器四号、パペット。
人形職人の技は、人間兵器の域では本物の人間の再現に達しうる。俺も王都ではあの魔女が作った自動人形に苦戦したものだ。
その彼女が、俺の新しい肉体を作る能力を持っているはずだ、とリンピアは言っていた。
リンピアのことだ……。
すでにあらゆる伝手でリアルの方に連絡をつけてパペットにも話は伝わっているだろう。
俺が可能なら、司書というNPCで生成されたリピカも可能なはずだ。
はは……。
最後の最後までお人好しだったなぁ、俺……。
「…………」
【潮満つ珠】の力を解き、海水が魔王城から抜け出ていくのをぼんやり見ていた。
自ら手放した温もりがやや惜しい。
大地とともに魔王城も崩壊を始め、床という床も陥落している。
俺は自我を失いかけ、途絶え途絶えの意識でその光景を見守っていた。
プリマローズの愛した城。――その再現。
こんな場所が、俺という人格の墓場とは……。
まぁ、魔王の息子として生まれ変わった俺には相応しい場所なのかもしれない。
あとは【時ノ支配者】をこのゲームの崩壊まで押さえ込み、データとして共倒れするまで待つばかりだ。
こういうとき、いろんな記憶が走馬灯のように流れるものなのではないか。
意外や意外、特に何も思い出さなかった。
見えているのは、物悲しい仮想世界の空虚な城の廃墟のみ。
「……」
――〝私は、あなたと一緒に生きたい〟
ごめん、シール。
約束、破ってしまった。
会わずに済むのが唯一の救いか。
謝りにいったら、どんな顔で俺を睨むかわかったものじゃないし。
でも、会いたかったかな……。
最後に一度くらい。
「最後――」
幻聴か。ふと自分自身が、正常な声帯でそんな風に呟いたような気がした。
でも、呟いたのは俺じゃない。
誰かの気配……。
顔を上げ、もうほぼ扉として形を成していない瓦礫をくぐり、誰かが魔王城の大広間へやってきた。
そこにいたのは――。
「……」
「……」
両者、このときが来るのを避けていた。
大嫌いな存在。
直視したくない、鏡合わせのその在り方。
――そこにいたのは戦士に憧れ、剣に生き、最強に至った男。
俺にとっての別側面であり、そして最後に導き出した答えにより、道を違えた者。
「ずっとお前を探してたんだ」
彼がそう言う。
得意とする【抜刃】で剣を生成しながら。
どうやら彼は、直視する覚悟を決めたらしい。
崩壊する世界。終わりゆく世界で、これから何を抗おうが無意味なものだ。ケアの陰謀は潰え、もう万神の復讐劇は果たされない。
そういう結論が出た。
だが、彼にとっては無意味じゃない。
これから彼が挑むのは自分自身のため。
――謂わば、答え探しだ。
何も結論は変わらずとも、自分の本質を探るために来た。そんな身勝手な理由で、この人間兵器は最後の戦いに挑もうというのだ。
俺と。この魔王城で。
「――俺ならそうすると思ったよ」
なぜだろう。
気づけば俺は魔素の汚染を乗り越えていた。
彼に感化されたのかもしれない。
俺が覚悟を決めたんだ。
俺も直視しなければならない。
自分自身の弱さを。その結末を。




