239話 ◆戦士の本質
〝――応えて――〟
何やら丘を望む大地に立っていた。
遠くから声も聞こえる。
〝――私の声に、応えて――〟
周囲は見果てぬ限りの荒野だった。
植生もなく大地が広がっている。
延々とこだまする男性だか女性だか分からない声が、彼の耳元に届く。
〝――戦士たちは私を求め――〟
次第に声がはっきりと聞こえ始めた。
丘の上から白粒の石がごろごろと転がり、足元へと転がってくる。
空には斜陽が。
夜明けなのか日暮れなのかは分からない。
〝――そして、私を犯すのです――〟
石に触れてみると、やけに軽い。
虹色の光りを放つそれは命の灯火を失うように光を次第に失っていった。
〝――私を助けてください。戦場があなたを――〟
気づくと白い石は頭蓋骨になっていた。
生々しいフォルムが目の前に飛び込んでくる。
戦士はただそれをぼんやりと眺め、その心象はなんだったのかを振り返る。
頭蓋骨の口が開き、喋りだす。
「……待っています」
「戦場って? あんたは誰だ?」
戦士が尋ねる。だが、骸は答えない。
ふと、頭蓋骨を握りしめる自身の手が、白い陶器のように白んでいることに気づいた。
驚いて袖をまくると、自らの手が彫刻のように白くなっていた。
まったく動かない。
「こいつは……! くっ……!」
腕を振ろうとするが、固まって動けない。
何がどうなっているのだ。
わけもわからず、戦士はもがく。
だが、やがて腕だけではなく体、足、頭、すべてが凍りついた。
視界にはもう荒野は広がっていなかった。
なぜか海を望む港町が広がっている。
景色の移り変わりに動揺が隠せない。ここは一体どこなのか。時空の歪みにはまってしまったのだろうか。
戦士は街の広場の石畳から、やや高い位置から海を望むしかなかった。
視界は固定され、首はおろか瞳も動かない。
ウミドリがアァアァと鳴き、水平線の境界すら不明瞭な青々とした空を雄大に滑空している。
一体、自分はどうなってしまったのか。
ここはどこだ。そして、自分は誰なのか。
戦士はただ張りついた景色だけを見ていた。
たまに街を行き交う住民が、その広場で足を止め、戦士の足元を見る。
足元に何かが掲示されているらしい。
『――えい、ゆう? えいゆう、英雄だって!』
『おぉおぉ……昔ねぇ、この街の子どもたちを救ってくれた子がいたんだよ』
『お婆ちゃん知ってるの?』
『あぁよく知ってるよ。お婆ちゃんも、その事件で被害にあった子の一人だからねぇ』
『え!?』
平和な一幕。他愛のない会話。
老女とその孫が散歩がてら広場に佇む風景。
戦士は理解した。
自分は文字通り、彫刻なのだ。
街の広場に飾られた像になっているらしい。
一体どうしてそんなことに。
『お婆ちゃんもこの子に助けてもらったんだ!』
『そうさ。街の人たちは感謝の思いで、この記念碑と銅像を建てたんだよ』
『ふーん……。でも、変なの』
『なにがだい?』
『だって、感謝するなら直接言いに行けばいいのに……。お婆ちゃんが子どもだった頃なら、この子もまだ生きてるんじゃないの?』
『……』
孫の率直な疑問に、老女は答えなかった。
足元を見ることはできないが、どこか老女の残念そうな雰囲気を感じた。
返答に困っている様子だ。
『ありがとうって言えればいいんだけどねぇ。おかしなことに、誰もこの子がどこの誰で、なんて名前だったのか覚えてないんだよ』
『えぇー。なにそれ! それだとこの子が可哀想じゃない。たくさん人に感謝されるようなことをしたのに……』
『そうだねぇ』
老女はしみじみと答えた。
老い先短いその女にとっての唯一の心残りがそれだと言わんばかりに。
『どこかでこれを見つけてくれて、ふらっと現れてくれたらね……。わたしは、この人が元気で、楽しい毎日を過ごしていることを願っているよ』
老女は祈るように掠れた声を力ませた。
そして老女とその孫が立ち去る。
手を引かれた孫はふと足を止め、振り返って戦士を見上げた。
『名も無き英雄、かぁ』
戦士はそれから長い時を、その磔になった姿で過ごした。
たまに戦士の銅像に反応を示す者もいたが、時間が経つにつれ、誰も見向きもしなくなった。
やがてその銅像のモデルが何をし、なぜ街のオブジェクトとして飾られるに至ったのかさえ忘れ去られるほどの時が経った。
風雨に晒され、潮風でめっきが剥がれ、野ざらしのまま体が朽ち果てていく。
戦士はの悠久の時の中、海の景色を見ながら、その実、内なる自己と見つめ合っていた。
「俺は……孤高の戦士だ」
その結果が今である。
戦士になると決め、意地を張り通した。そして自分自身すら認める最強の戦士となった。
だが、その果てに手にしたものは、なんと空虚なものだろうか。
数多の豪傑が戦場に捧げてきた情熱にも置き去りにされ、見放された存在――。
暗く冷たい結末が今の自分に降りかかる。
冷え切った銅像のような体が、その象徴だ。
そんなものを戦士は望んだのだったか。
「ジャック・ザ・ヒーロー……。名前のない、戦士の理想型……。これが……?」
戦士は戸惑い、自問する。
信じていたものが揺らぐと、視界もぶれた。
まるで切り刻まれた映写フィルムのように、ジャキジャキに千切れた憧憬が映し出された。
教会が見える。
戦士がこれまでの人生で見たこともない、破壊され尽くした瓦礫の廃墟。
神への信仰を示すレリーフだけが壁面に残り、そこが教会だったことを主張している。
「…………」
その先で、二人の影が揺らめいていた。
戦っているのだろうか。
まるで陽炎のように輪廓もぼやけた二つの影だが、戦士には、その二つが相応の熱量をぶつけ合っていることを感じ取っていた。
『――ない。誰かが誰かを……の繰り返しだ』
『俺は、――――ます。戦いが――』
何かが聞こえる。
二つの影が互いの主張を押し切って、一歩も引かない。
その二人は戦っている。
心も体も、戦いに挑んでいる。
戦士はその行く末を見届けたくて仕方なかった。
その二人の戦いに自分の探した答えが――己が剣を究めた理由が見つかるような気がした。
『俺は、――の戦士だ。――――――』
今、その影はなんと言ったか?
少年のような影だ。黒くぼんやりとした影。
まるであの厄介な心底嫌いなタイプの影と同じような……。
『新しい世界に――――だ!』
一方の影が吠える。
その影の輪廓も徐々にくっきりしてくる。
魔女のような風体をした、細身の女。
一体、誰と誰の戦いなのだ。
戦士は意識を集中した。
その憧憬は己の中に眠っているものだ。
外界で起きていることではなく、自らがどこかで体験したものであるはずなのだ。
だから、その戦いに答えがある。
剣を究めた理由の答えが。
自分が信じて貫いてきたものの正体が。
『――なんて誰も望んじゃいないんだよ!』
黒い少年が叫ぶ。
そしてそのあと魔力の爆発が起きた。
視界が霞み、何も見えなくなる。戦士が見ていた心象を吹き飛ばすほどの煌めきだった。
「待て……。その先に……何が……!」
戦士は懇願する。
続きを見せてくれ、と――。
ようやく答えにありつけそうだったのに。
だが、無念にも、心象は取り戻せなかった。
途切れてしまった映写機は、もう二度と同じ場面を再生することはなかった。
「何が……あったんだ……。俺はなぜ、戦士に」
失意に打ちのめされ、戦士はその場で崩れ落ちるような思いだった。
彫刻に戻った自分はまた空虚な世界にいる。
あの戦いの熱量を見せられ、この気の狂いそうなほど静まりかえった世界に戻ることは、まるで拷問のようだ。
「……」
その熱を渇望した。
戦いこそが、自分の生き方だ。
あの熱量を見せられて、それを再認識せずにはいられない。自分は戦いに挑むべきだった。
「動け……。こんなめっきは、いらない……!」
ばりばりに固まっていた硝子のような体に、熱が帯びていく。
やがてひびが入り、歪みが起こり、割れた。
体を固めていたセメントを力尽くで引き剥がしていく。
「動け……ぇえええ!」
力自慢だ。
自分は近接戦闘を得意とする最強の勇者だ。
戦場が俺を待っている。
「――っ」
剥がした鍍金の粉瘤の中から、触手のようなものが伸び、戦士の腕を掴む。
【オレヲ、オイテイクナ】
それは粘ついた黒い泥だった。
とぐろを巻き、ぐるぐると喉を鳴らす醜悪な蛇のような何か。
「よう、お前か」
戦士はその黒い泥の正体を知っていた。
魔素――アークヴィランの本体だ。
長年連れ添った相棒のような敵である。
【オレトオマエ、二人デヒトツ――。シシシ新世界ヲシシ侵略シ、シシシ支配シ、破壊スル】
「お前の望みはよく知ってるよ」
なんといっても6500年も共に生きた。
共生関係だ。忘れるはずがない。
「でも悪い。もうお人好しは止めにした」
【グ、グ、グ、裏切ルノカ】
「違うよ、バーサク。お前はちょっと黙って見てろ。俺が答えを見つけるまでな。そのあとにでも遊んでやるから」
戦士は飼い犬のように声をかける。
黒い泥は唸り声を上げていた。
それはくぐもった重低音で、聞いたものを振るい上がらせる悪魔的な声だが、聞き慣れたその戦士には怯えを感じていた。
「お前、苦しいのか?」
【グウウウウ、他種ノ混雑ガアア、アアアアアアアガ邪魔スルァアア】
「はは、友達ができてよかったじゃねぇか」
戦士は黒い泥が大人しくなり、ぐるぐると巻いていたとぐろが矮小になっていくのをじっと見守っていた。
別の魔素が泥を取り押さえているようだ。
やがて黒い泥の方から、戦士の腕を手放した。
「ありがとよ。……お前と同じように、俺には俺の願いがあるんだ。だからあのガキに会わなきゃいけねぇ。そんで――」
あの廃教会での熾烈を極めた戦い。
戦士はその熱量に魅了されていた。
今の自分はあそこから始まったのだろう。
その本質を探る場所もまた、戦場にしかない。
「いってくるよ。俺は、剣士だからな」
戦士はいつの間にか得物を握りしめていた。
剣が体中から生えるあの奇妙な姿は卒業し、本来の剣士の姿として。




