200話 決死の逃走劇Ⅰ
「大丈夫か? ――そっちのおまえも」
ヴェノムは怯えるリリスに声をかけたが、ようやく俺の存在を認識したようにこっちを向いた。
小さなモブの魔物にしか見えてないんだ。
「こっちのセリフだ。ヴェノムも大丈夫か?」
「おぉ……? お、おお……。リリスは俺を覚えてねぇのに、おまえさんは俺がわかるのな?」
ヴェノムが戸惑っている。
まだ俺のことに気づいていないようだ。
「信じてもらえないかもしれないが」
お前の知るソードはこの俺だ。
そう言いかけたとき、足を引きずりながら杖で体を支えるリンピアが近づいてきていた。
ぎょっとして俺も押し黙る。
血をぼたぼたと垂らして苦悶の表情を浮かべているが、凄惨な印象とは裏腹に、その足取りはしっかりしている。
「くっ……。ごめんなさい。不覚でした……」
リンピアは息も絶え絶えに、開口一番に謝ってきた。
「無理すんなよ、お嬢さん。一人でよくやった」
「いいえ……。守護者として人間兵器の抑止力となるのがこの私の役目……。もっとうまく立ち回れたと思いますが、やはりアークヴィランの力が重なると――げほっ、げほっ」
リンピアは喋りながら、さらに吐血した。
普通の人間なら死に至るような重体だというのに、言葉や息遣いはしっかりしている。
ゲームのアイテムなのか、ヴェノムは外套から青い液体入りの瓶を出してリンピアに渡す。それを一口だけ飲み、残りを傷口に乱雑に振りかけるリンピア。
もはや野戦の戦士のような素振りだ。
リンピアの強者らしさを伺わせる。
「なんだか、あたしは誰が誰なのかわからないのだけれど……」
この状況でリリスが一番困惑している。
彼女は涙まじりの表情で、ヴェノムやリンピアのような強者の存在に怯えていた。
ヴェノムが顔をのぞき込み、訴えた。
「俺はヴェノムだ。リアルの世界じゃ、おまえと共同生活を送ってた仲だった。なんで覚えてねぇのか知らんが、そのうち思い出すだろ」
「リアル……? あたしが外の世界に……?」
リリスはさらに困惑していた。
俺も意味がわからなかった。
リリスはゲームのイベントボスとしてプログラムされたキャラクターのはずだ。彼女自身、それを自覚している。
ヴェノムがリリスを知っていることも謎だし、現実世界にいたということは、リリスがプレイヤー側であるということになる。
――プレイヤーがNPCとしてボスに……?
戸惑いつつもプリマローズを思い出した。
プリマローズも現実に存在していたのに、ゲームに取り込まれてから魔王という役割でNPCを演じさせられていた。
ヴェノムは真っ直ぐな目を向けている。
リリスは困惑しているようだった。
「俺を信じろ。きっと外に出れば思い出すさ」
「よくわからないのだけれど……。今、あたしが信じられるのはこの子くらいなのだわ」
「んん?」
リリスは俺の腕を指先でつまんだ。
ヴェノムが俺に視線を移す。
「この魔物が?」
「さっき助けてくれたのよ。それに、なんだかこの子、ソードさんの――」
リリスがそう言いかけたとき、リンピアが震える体をよろめかせながら口を挟んだ。
「お話は……この戦線を脱してからでもいいですか……?」
確かに今は四方八方に敵がいる状況だ。
ロアがどこまで暴れてくれているのか分からないし、五人の人間兵器相手にどこまで力が通用するのかもわからない。
渡り合えたとしても、一人で引きつけることは現実的に厳しいだろう。
手の空いた人間兵器が、俺たちの方に襲撃してくる可能性もある。
「お、おう。すまねぇな」
「私の【無の存在証明】を使ってアシを用意するので……それでおそらく私の魔力は一旦、底を突きます。離脱までの防衛はヴェノムさんに……」
リンピアは今にも消え入りそうな声だった。
人間兵器は魔力が尽きたら、外気のマナを取り込んで回復するまで全機能を停止する。
リンピアももし同じなら、きっと彼女は機能停止――すなわち寝ることになるだろう。
「時間、か……。ごめんなさい。それまでなんとか……」
リンピアが遠くを見やってそう呟いた。
俺たちに言っているようで、遠くで戦っているロアに向けて言っているようだった。
時間――。
その聖域に踏み込む存在が、敵の中にいる。
時間を止められたら、やられたい放題だ。そんな最強の魔素が存在することも、それをケアが取り込んでいることにも驚きだ。
戦闘音は俺たちの居る場所まで届いてくる。
剣戟が重なる甲高い音も響いてくるが、他にも爆裂音も聞こえた。ソード以外に、シールやメイガス、アーチェも加勢しているのだろう。
その中に、ケアもいるのだろうか。
俺がこの体で戻って以来、ケアを見てない。
どこにいるかわからないのが、すわ怖ろしい。
リンピアは、懐から絵筆を取り出し、徐ろに虚空に向けて絵を描き始めた。
俺がケアやアーチェとともに、魔王城に来るまでに使った荷台付きの大型車と同じものだった。
描き終えたリンピアが意識を失って倒れる。
ヴェノムがリンピアを抱えて荷台に乗せ、助手席にリリスが乗るように指示した。
「おまえは……」
俺はどうすべきかわからずに止まっていると、ヴェノムがこっちを見た。
「リリスを守ろうとしてたのは俺も見てた。ありがとな」
「……」
ヴェノムには何から説明すればいいのか。
俺がソードであるということもまだ気づいていないし、一方でリリスがイベントボスのNPCだったという状況についても、彼女が現実世界に存在していたという事実も、俺が納得して説明できるほど、事情を噛み砕けていない。
ヴェノムは時間のことを思い出したようで、荷台に眠るリンピアを一瞥した。
「お嬢の様子も見ててくれねぇか?」
俺は頷き、荷台に乗り込もうとするが、背が低すぎて乗り上がることはできない。
「なっ……ったく。ガキはしょうがねぇなぁ」
ヴェノムは俺の体を抱きかかえて荷台に載せようとしてくれる。まるで我が子を抱えるパパのような有り様だ。
そうして俺を抱きかかえたとき、
「騙されないで、ヴェノム」
悪魔の囁きが投げかけられた。
声の方を見ると、薄紫色の髪の女――。
このゲームを支配する女王が再来したのだ。
「あぁん?」
ヴェノムは振り返る。
かつての仲間の方に。
「ケア……」
五号は悠然とそこに立っていた。
また仲間を誑かしに来たのか。




