196話 親子の余暇
真っ暗な世界に、ただ一人で居た。
足場らしいものも見当たらず、自分が地面の上に立っているのかどうかさえわからない。
「俺は、なんでここに……?」
わからない。
何か大事なことをしていた気がする。
それが戦いだったのか、人との語り合いだったのかもちゃんと覚えていない。
「戦い――」
自らの思考に戸惑いを覚える。
今、平然と〝自分が戦っていた〟という選択肢も候補に出てきたのだ。物騒すぎる。
「俺は、誰なんだ……?」
ありきたりな言葉を呟いた。
記憶喪失ではよくある自分語りだ。
自分が誰なのかわからない。それに困り、自分の存在意義について教えてくれる誰かを――その尺度を求めて彷徨う。
あるあるだ。
今の俺はそんなことどうでもよかった。
自分が何者かなんてことに興味はない。
ただ呟いてみたのは、明らかに手や腕、胴体など暗闇でも確認できるような距離にあるはずの自分自身のパーツが視認できなかったから。
多少なりしも自分の輪廓がわからないと、どんなヤツなのかすらわからない。
そもそも俺は、目が見えてないのか?
それは困るな……。
目が見えなかったら困るだろう。
ほら、生活とかもそうだし、人と話すのにも表情が見えなかったら会話も難しい。
何より敵と戦うときだって――。
「あ、またか……。くそっ」
一人で悪態をついた。
どうしてさっきから戦い戦いって……。
癖みたいに湧き出てくる好戦的な自分に辟易して、不快な気分になった。
ざわざわした気持ち悪さを拭いたくて、途方もなく体を動かそうとしてみる。体らしい体は確認できないけど、動きたいという感覚はある。
「うぅ……動けねぇ」
体がないから移動もできない。
暗闇で、何を視座にして動けるかも謎だが。
「いいや、俺はもう動きたくないんだ。きっと」
そうだ。疲れた。
自分が何者かなんてことも考えたくないのは、きっと疲れから来る思考放棄だ。
「――そうじゃ。おぬしは頑張りすぎじゃ」
急に何処からか声がした。
やけに古風な言い回しの、低く押し殺したような幼い女の声だった。
「……?」
はっとなった直後、前方にぼんやりと誰かの姿が浮かび上がった。
ふわふわのピンクの長髪。
太々とした二つの白い角。
そして、ジャージ姿。
赤い瞳がギラギラとして、猫の目のように縦に切れ込んだ瞳孔をこちらに向け、ニヤリと笑っている。
「誰だおまえ?」
「妾は……そうじゃなぁ。おぬしの恋人じゃ」
「は? 記憶喪失をいいことに変な刷り込みしようとすんじゃねえ」
「おおぉ。この状況でも作戦失敗とは……。おぬしはやはり隙の無い男じゃのぅ。まぁそこもいいところじゃが」
ピンク髪の女が不敵に笑い、背中を向けた。
「まぁよい。こちらに来い」
「……?」
来るって言っても――。
そう思って自分自身の体を見ると、そこにはちゃんと体があった。腕も足も五体満足で、なんだか見覚えのある勇ましい服装に身を包んでいる。
ピンク髪の女という視座を手に入れて、俺自身も自分が何者かが少しばかり浮き彫りになったようだった。
「おまえ、俺を知ってるのか?」
ピンク髪の女が徐ろに振り返った。
「よ~く知っておる」
「そうか……」
――じゃあ、俺は誰なのか。
それを聞こうという気になれなかった。
自分が誰なのかを正直思い出したくない。
「ふ……。まぁ誰だってよかろう」
ピンク髪の女は、そんな俺の気持ちを察しているのか、俺が何者かを教えることはなかった。
女が振り返り、また歩き出す。
ジャージのポケットに手を突っ込み、女が悠然と歩いていった先にあったものは一台のモニターとゲーム機だった。
俺はそれを、コントローラーで操作して画面の中のキャラクターを動かして遊ぶもの、ということを知っていた。
そう教えてくれたのが、この女だったことを思い出した。
「ほれ」
女はゲーム機から繋がるコントローラーを一つ俺に投げた。
それを受け取る。
即座に掴む反射神経は俺にもあるらしい。
「疲れたときはゲームが一番じゃ。遊ぶぞ」
「……」
思うことはあったが、他にやることもない。
ゲームで遊んだ経験があるかないか、それすら覚えてないが、自分自身が誰かを思い出したくない俺にとっては都合がいいかもしれない。
「どんなゲームで遊ぶんだ?」
ピンク髪の女の話に乗って画面前に座った。
女は嬉々とした様子で口元を綻ばせると、俺の隣で胡坐を掻いて座った。
「まずはホラーゲームはどうじゃ?」
「それって、プレイヤーが恐怖を味わうためにつくられたっていうジャンルだよな?」
「なんじゃ。ちゃんと覚えておったか」
「ああ。道中の魑魅魍魎を避けてゴールを目指すんだろ?」
存外、ゲームを通して女と話すのが楽しいことのように思えてきた。
実際にプレイし始めてみる。
ホラーゲーム独特の暗い雰囲気の中、2Pで協力して道中のギミックを解除し、ストーリーを進めていく。
「あぁっ! なにをもたもたしておるのじゃ!」
「だって、何処に仕掛けがあるのか見つからねぇんだ。仕方ねぇだろ」
「違うっ! そこではないのじゃ!」
俺が手こずっている間に、女が操作するキャラが悪霊に捕まって死んだ。
本気で悔しがる女を見て、俺は心底笑った。
こんな遊びに本気になってバカみたいだ。
「ああっクソゲーじゃ! 次じゃ次!」
女は俺の下手なプレイに文句は言わなかった。
ただ俺が面白おかしく笑うのを見ると、満足したように次のゲームを提案してきた。
それは子どもの遊びに付き合う親のような、道化を演じるような雰囲気だった。
さっきは恋人を自称したが、あながち間違いじゃなかったかもしれない――などと思い始め、俺も騙されるものかと意識をゲームに集中させた。
でも、純粋に楽しい。
それは俺と女の間の関係を思い出していく作業のようだった。
ピンク髪の女は俺をよく知っていた。
俺は、俺自身のことも忘れたくて、当然、女のことも覚えてない。思い出したら自分のことも思い出してしまいそうで嫌だった。
だってこの女と俺は昔――――――。
「――――」
でも、ゲームをしていると、相手が誰かを忘れながら距離を詰めることができた。
それが心地よかった。
その妙な感覚をゲームをしながら考察する。
「どうじゃこれが妾の――」
「カッハッハッハ! スコア更新じゃー!」
「おぬしもなかなか才能があるではないかっ」
そうか……。
きっとこの女は俺に気を遣っているのだ。
自暴自棄になった俺に寄り添い、疲れたなら今は休もう。遊ぼう。楽しもう。
そういう気遣いで接してくれている。
「ああ――」
女は、俺に恋していたんじゃない。
今も今までも。
そういう恋愛感情とはもっと別の次元。例えるなら、家族愛のようなものだ。
長い付き合いの二人に芽生えていた愛情。
――〝愛している〟という感情だった。
そこに独善的な想いはない。
〝頑張れ〟も〝負けるな〟も言わない。
女は俺の自堕落的な感情に寄り添いたいのだ。
だから女は、俺とゲームをしている。
疲れ果て、己が何者かも忘れたままでいいと開き直った俺と同じ立場でいてくれている。
これが〝愛〟か……。
思いをぶつけるだけが愛じゃないよな。
時にはそういうのも必要かもしれないが、少なくとも相手を独占したり支配したりしようというのは愛じゃない。
俺は、自然と思い出していた。
自分がなぜここにいるのか。
一緒にゲームで遊ぶ女が誰で、昔この女と俺がどういう関係だったことも――。
ホラーゲーム、レーシングゲーム、シューティングゲームといくつかのジャンルを遊び尽くし、体感時間でほぼ丸一日遊んだ。
この暗闇に時間概念があるかはわからないが。
「もうソフトが残り一個しかないのじゃ」
「そうか。けっこう遊んだもんな~」
「普通の親子ならこういうこともやっていたのかもしれんがのぅ。まぁ元来の妾とおぬしの関係ではありえぬ。ありえぬからこそ、最後の夢くらいそうでありたかった」
「……」
女は屈託なく笑った。
そこに何故だか母性よりも父性を感じた。
バカみたいに喧嘩し続けた親父と息子が、たまの気まぐれみたいに結託して、遊び尽くした余暇の時間――。
最後の夢だと女は言った。
その面影にいろんな人物の影が重なっている。
「さてと。時間もそろそろ頃合いじゃ」
「おまえ……」
俺はそこで気づいた。
女の体は透け、透けた体の中に漂う微粒子が輝きを失っているのを。
「最後のゲームはこれじゃ」
女が持ち上げたケースには勇者と魔王のデザインが描かれていた。パッケージには『パンテオン・リベンジェス・オンライン』とある。
巷で流行のRPGゲームだ。
「おぬしのアバターは妾が作っておいた」
「なんで勝手にっ!?」
見ると、画面には真っ黒で小柄な少年が、影のように立っていた。
その少年には輪廓だけがあり、影のように黒い瘴気が揺らめくせいで、目鼻立ちははっきりわからない。普通のプレイヤーがキャラメイキングで作るようなアバターではなかった。
不思議と自分の子どもの頃を思い出す。
「よく似ているじゃろう。ま、おぬしを子どもの頃からよく見ている妾だからこそ造れた。存分に褒めてもよいぞ?」
「こんなモブの魔物みたいなアバターをか!」
「まぁまぁ。愛着とは後から湧くものじゃ」
佇む少年の向かう先には、なぜかゲームの本来の主人公格である勇者たちが勢揃いして、敵のように立ちはだかっている。
「こいつらは……」
俺は、知っている。
この勇者たちが誰なのかを――。
どいつもこいつも強者揃いだ。
「怖いか?」
女は笑いながら俺に尋ねた。
きっと今の俺には倒せない。この黒い少年では向かっていくだけで即死だろう。
それだけの実力差がある。でも、
「別に怖くはねぇかな」
所詮はゲームだ。
一日中、女と散々ゲームで遊んだ俺には、その程度のもののように思えた。
「上等じゃ。しかし残念じゃが……」
女は一度逡巡してから投げかける。
「ここから先は一人だぞ?」
時間がないと言っていた。
きっと女はタイムリミットなのだ。
これ以上、俺と一緒に遊んでいられない。そしてこれから二度と遊ぶ機会もないだろう。
「妾という天才ゲーマーの助けはない。一人でこやつらに挑む覚悟はあるかってことじゃ」
「……うん。任せとけ」
「うむ。それでこそ妾の見込んだ男じゃ」
寂しいことを言っているのに、女は満足そうに笑っている。
「さぁ一度遊ぶと決めたらとことん遊び尽くせ。ゲームで一番悲惨なのは、買ったはいいものの、ろくに遊びもせず積みゲーになることじゃ」
「何の話をしてんだ?」
「なに、プレイヤーが忘れぬかぎりゲームは真のエンドを迎えぬ、ということじゃ。その意味では人の生涯に似ておるよ。忘れるなよ」
「あぁ……?」
俺が腑に落ちない様子でいると、女は俺にコントローラーを握らせて、背中を叩いた。
「おぬしとの戦い、楽しかったぞ」
「……」
俺は画面とコントローラーを交互に見た後、振り返って女に向き合った。
「プリマローズ」
「うむ?」
そこには極限まで透け、輪廓が何重にもぶれていくピンク髪の魔王がいた。
彼女という存在が分解されるようだった。
「いや……。ありがとな」
「もういけ。ここで見ていてやる」
そこにプリマローズの姿はなかった。
俺によく似た男と五人の女が手を振っている。
最後に勇気をくれたのは因縁の敵だ。
そして、どこかの世界で共闘したことがある五人の精霊たちだった。




