165話 ◆黒い盾
時刻は朝七時を回ったときのこと。
朝のポイント争奪戦イベントが終了した後、教会の庭園でリリスというサキュバスを助けると宣言され、信頼を寄せていた相手に裏切られたシールは、黒々しい感情を胸の奥底から沸々と滾らせていた。
その感覚は不快であり、煮えたぎるような熱い衝動だった。
「っ……」
下唇を噛み、ソードが消えていった路地を睨む。
なぜだ。なぜ自分はこんなにも不愉快なのだ。
シール本人にもその思考は解せなかった。
ただ、あの男が自分の許から離れ、他の女の所に向かったという事実を認めたくなかった。――願わくば、鎖で拘束して他の女を追いかけた理由を、小一時間ほど問い詰めたい。
さもないと気が済まない。
……いや、理由は彼自身が説明した通りだ。
〝運営の思惑を知るチャンスだろ?〟
その通りだ。
リンピアが予想したように、このゲームがアークヴィランの手によって作られた並行世界だとして、リリスのように、ゲームで生まれた自我は貴重な資料であり、運営に隔離されている思惑を知るには都合の良い存在だ。
理屈は分かるが……。分かるのだが……。
「シールさん、大丈夫ですか?」
リンピアが恐る恐る、シールに声をかけた。
「……うん。ソードに逃げられた」
「いつも突然でびっくりしますよね。ていうか、ソードさんは思慮が足りないので、騙されてるんじゃないかなって心配ですねぇ」
「思慮が足りない?」
リンピアは目を丸くした。
シールもそこまで考えが至っていないことにも驚いた様子だ。
「だって、本当にあのサキュバスが貴重な存在だっていうなら、そう易々と運営が逃します? 運営のスパイかもしれないですよ。それか、こっちを追跡させる発信器みたいな存在だったり――究極、美人局だったりして。なぁーんて」
「……」
リンピアは舌を出しながら「サキュバスだけに」と付け加えてお茶を濁した。
シールにはリンピアの言葉が、自身の抱える黒々とした感情を正当化させる後押しになった。
畳みかけるように起きた不愉快な事象のせいで、今の自分の情動を分解する〝動機〟が見つからなかった。しかし、リンピアがぴったりと嵌まる動機を見つけてくれた。
「騙されてる……。うん。きっとそうだ」
「プログラムなんて、作れる存在ですからね。いよいよ運営に目を付けられて、ソードさんにスパイ工作を――」
リンピアが言葉を付け足している最中、突然、教会の裏手にある納屋のような建物から、爆発音が轟いた。
バゴッ、という木材が折れる音に驚いて、まだ教会周辺に残っていたプレイヤーが驚いて、全員そちらを見ている。
シールとリンピアもそちらを確認する。
すると、納屋のサイズには到底収まらないような巨大なアーセナル・マギアが飛び出した。
「わぁああ!?」
「きゃあ!」
プレイヤーが驚き、慌てて身を躱す。
どうしてゲーム世界にアーセナル・マギアが、と不審に思ったシールだが、直後、空から流れるアナウンス音声によって原因がはっきりした。
『先ほど開催されたポイント争奪戦イベント《監獄島の夢魔》におきましてバグが発生いたしました。至急、緊急メンテナンスを行います。データ保護のため、ログインされているユーザー様は早急にログアウトしていただきますようお願いします。なお、十分後に強制ログアウトの措置を取らせていただきます。メンテナンス終了時刻は未定でございます。繰り返します――』
アナウンスでそうはっきり告げていた。
ログアウトを促すアナウンスまで……。
飛び出してきた『アーセナル・マギア』は、教会の庭園を乱暴に突っ切り、坂道を下りながら柵を迂回して、街道に出るところだった。
それにしても物凄いスピードである。
「バグって、あのサキュバスでは……?」
リンピアが云った。
シールは頷き、坂の下を道なりに走り抜ける装甲車仕様のアーセナル・マギアを目で追う。庭園の柵を跳び越えて坂を駆け下りれば、間に合う距離だ。
「アレに乗ればソードの居場所に辿り着けるかな」
シール鉄柵に両手をかけた。
「多分……。……え、乗る気ですか?」
「ええ。あの車がソードの居場所を掴んでるなら、やっぱり騙されてる訳だし、運営の思惑を知るどころか、こっちの手を握られてるって事だもの」
シールは軽やかに鉄柵を飛び越えた。
そのまま坂の下を横切るアーセナル・マギアの荷台に飛び乗った。その動きは、まるで現実世界での人間兵器三号と変わらぬ俊敏さだった。
その様子にリンピアは目を瞬かせた。
「……どんな姿になっても、お義母さんは苦労してるなぁ」
華麗に荷台へと忍び込み、銃身を前に抱えるシールを遠目に眺め、リンピアはそう呟いた。
◇
シールはこの際、動機などどうでもよかった。
自身の思いをそのままソードにぶつけたかった。
そこに理屈がなくても、ゲームに入ってから感じるこの不可解さを理解されたい……。
仲間思いのソードなら、人間兵器に芽生えた人間めいたこの感情を、理解できなくとも、寄り添ってくれると期待していた。
どうせ今回も騙されているのはソードの方だ。
アーセナル・ドッグ・レーシングでのミクラゲ・バナナとの戦いのように、王都でオートマタを操るパペットとの戦いのように、盾である自分が、剣をフォローする時が来たのだ。
――それならば、今回ソードが血迷って、刺激的な黒のボンテージファッションを身に纏うサキュバスを選んだことは百歩譲って不問に付す。
華麗に駆けつけた三号が、またしても一号の失態を庇う。
そして剣は盾に感謝する。ありがとう、と。
私がいないとダメね、と盾は剣を笑い飛ばし、剣は頭が上がらないと、自らの過ちを謝るのだ。
今回もまたそうなる。きっとそんな結果になる。
そう考えていた――。
しかし、その予想は裏切られた。
運営のアーセナル・マギアから逃げる前方のアーセナル・マギアに乗っていたのはソード、リリス、アーチェ、そしてDBだ。
揃いも揃って人間兵器の女仲間と泥棒猫だ。
最初の威嚇発砲までは、まだソードが誤解しているだけだとシールも思っていた。
DBの運転技術なんかじゃ振り切れない。
少女になったアーチェの無意味な魔法攻撃では、運営の追走を止められない。
このギリギリの状況を脱するために必要な仲間がすぐ後ろにいるというのに、ソードはどうして気づいてくれないのか。
私がいなければ……私があなたの傍にいなければこの窮地を乗り切れないでしょう? どうして私に気づかないの。どうして私を見てくれないの。どうしてその女に寄り添っているの――!
シールは追う側でいながら、追われる側を助けたいと考え、その実、追われる側を倒してでも、目の前の不愉快な光景を壊そうと行動していた。
その矛盾――。
思考と言動の不一致は、既に精神汚染の魔の手がシールの心の深溝をかき乱している証拠だった。
その闇が深淵に達したのは、ソードからの攻撃を受ける直前だった。
「――――ッ!」
鎖で車体と繋がるソードが、突然その場で360度回転を始めた車体に引っ張られて、車体周囲を一周しながら向かってくる――!
遠心力を利用した肉弾による攻撃だ。
反射的に狙撃銃を右に構える。ぐるりと周回してきたソードが、足を突き出して飛び蹴りしてきた。
「食らいやがれッ――!」
「……っ!」
シールは歯を食いしばった。
トリガーを引くか引かないべきか、迷っているうちに肉迫するソードに弾丸を一発撃ち放っていた。
体を反らして弾丸を躱したソードが、運営の車体を蹴り飛ばした。物凄い衝撃で荷台から吹き飛ばされるシール。
「ソードっ!!」
「――ッ!」
目が合う。
その対峙は、決別を意味していた。
同時に、シールにとっ絶望と号哭の一瞬だった。
涙が溢れでそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
いつも自分を頼ってきた男が、自分が支えないと道を踏み外していた男が、今回は頼らないという決意を、その瞳に宿していたのだ。
荒野に弾き出され、身を転がすシール。
転がり続けてようやく止まったとき、シールは仰向けで青空を呆然と眺めていた。
これが本当にプログラム?
紛うことなき現実だろう。ソードからの攻撃も、紛うことなき現実だ。
「……」
体にはダメージがなかった。
だが、心のダメージの方が深刻だった。震える腕で体を支えて起き上がり、周囲を見渡す。自分が乗ってきた運営のアーセナル・マギアも跡形もなく消えていた。
――独りになっていた。
「くっ……ううぅ……」
ガタガタと震える体は、心が打ちひしがれたせいかと思われたが、次第に可笑しくなってきた。
シールは今の自分が、この状況が、可笑しくてたまらなかった。
「……ふふ……ふふふ……」
ソードは私を頼る気はないようだ。
ならば、私を頼らなければならない状況に、ソードを追い込んでやらないといけない。
――シハイしろ。
あなたには私がついていないとダメなんだと、思い知らせなければならない。
――シンリャクしろ。
盾は剣はセットである。
共にいることで至福を感じるのだ。
そう気づかせてくれたこの世界は、元勇者である自分が守るべき第二の世界なのではないか?
剣と一緒にいることで、勇者として活躍したあの頃に戻れるのではないだろうか?
幸いにも魔王はまた〝魔王〟に戻っている。
ソードを支え、仲間を助け、世界を救う。
その結果、自分自身が満たされる。
――〝満たされる〟ことは魅力的だった。
こんなに思考が欲望に傾倒する経験は、今までなかった。だからこそ嬉しい。
満たされないと不快である一方で、満たされたときの高揚感は想像するだけでゾクゾクする。
この世界は不愉快だが、心地が良い。
この世界は、私が侵略せねば――。
シールさん、闇堕ちです。