第七十九話「上流を目指しました」
「うぅ……、寒い……。あ?」
寒さのあまり目を覚ました。ここは……、どこだ?
「真っ暗……か?」
何だか冷たくて寒いし、真っ暗で狭い。何で俺はこんな所で……。
「あっ……、そう……か……」
思い出した。崖から落ちて……、回復魔法をかけて……、それから恐らく気を失うように眠りに落ちたんだろう。その後から記憶がない。
とても寒い。血を流しすぎた上に体力も失っている。どれほど水にさらされていたのかわからないけど、川縁に引っかかって気を失っていたために余計に体温を奪われていたんだろう。キュアで怪我は治したけど、その分体力も大量に使ったようだし、失った血は回復出来ない。
怪我はほぼ治っているから何とかうろから這い出して立ち上がる。フラフラするけどこれは体力や血が足りないからだろう。怪我が原因じゃない。体そのものは治っているけどこのままじゃ結局早晩死ぬことになる。何か食べる物を確保しなければ……。それから暖をとる必要がある。このままでは凍えてしまう。
ふらつく足に鞭を打って川まで向かってみる。もしかしたら川に魚でもいないかと思ってのことだ。でも……、川に近づいた俺は鼻を押さえた。
「何て臭いだ……」
薄暗くて詳しくはわからないけど酷い悪臭が漂っている。この川を流れてきたんだから俺も相当臭っていることだろう。この辺り一帯も全て相当な臭いのはずだ。俺はもう鼻がおかしくなっているから離れていたらあまり感じなかったんだろうけど、近くに来たら物凄い臭いがしていた。
どうする?灯り代わりに魔法を使ってみるか?ファイヤー系の魔法をうまくコントロールすれば灯りの代わりに出来るかもしれない。
でも……、見ない方がいいんじゃないかという気がしている。これは直感だ。というよりはこの臭いのせいだろう。見ない方がいい。でも……、俺はファイヤーアローを唱えてしまった。
普通なら発動と同時に飛ばす火の矢をその場に留めておく。魔法のコントロールが難しいけど理論上は可能なはずだ。ただ失敗すると勝手に飛んで行ったり、魔法が消えたりする。きちんとコントロールするのは中々の難易度だ。
「う゛っ!」
ファイヤーアローの光によって照らされた川を見て俺は吐き気を催した。魔法の制御に失敗してファイヤーアローが消える。
「おぇっ!」
我慢出来ずに空の胃から胃液を吐き出す。中に何も入っていないから胃液だけ吐くと余計辛い。これならいっそ何か吐いた方がまだ楽だと思うけど、生憎俺の腹には何も残っていなかったようだ。
ファイヤーアローの光で見えた景色……。それはどす黒い川に浮かぶ死骸の数々だった。人間の、インベーダーの、インスペクターの、様々な生き物の、新しいものから古いものまで数多くの死骸だった。
これだけ深い崖だ。その底には色々と溜まっていると考えるのは普通だろう。崖があるということは下に川が流れている可能性が高い。そして崖の上にあった物が落ちてきて溜まっている。
ここに転がっている死体はイケ学の生徒達のものか?でもさっき見た限りじゃイケ学の生徒以外の人間の死体も混ざっていたように思う。ここは特に何が集まっているというわけでもないんだろう。上で行なわれた戦いの残滓。傷痕。
どこかで戦って死んだ人間やインベーダー達の死体が、この崖下まで落とされて、この川の流れに乗って、ただ流れて溜まっている。どこで死んだ誰かなんてない。ただ流れ着いた死体が積み重なりながら徐々に腐っているだけの場所だ。
薄暗いし植物らしきものも見当たらない。食料も水も確保出来そうにない状況だ。生き残れる可能性があるとすればこの崖を登って脱出することだけ。それ以外には助かる道はない。こんな所にいても飢えて死ぬだけだ。
「どこか……、上に登れる場所はないのか……」
あるはずもない……。誰かが作った場所ならばそういう場所もあるだろう。でもこれは恐らく自然に出来たものだろう。だったら上に登るための場所や設備があるはずがない。
俺は今体力がない状態だ。万全の体調だったらどうか知らないけど、少なくとも今の血も体力も不足している状況でこの崖をロッククライミングするのは無理がある。
そもそも体力や血が十分だったとしても、元々俺は今女の子の日で体調が悪い。条件があまりに悪すぎる。この状況で崖を登るのは自殺行為だ。
崖を登るのが無理なら川上か川下へ向かうしかない。ここの川の水は飲めたものじゃない。真っ黒で異臭を放っている。もし綺麗な水があるとすれば上流だろう。ここより下流へ行っても川が綺麗になるはずはない。
この死体の山だってどこかから崖下へ落とされているんだろう。だからそれより上流へ行けば綺麗な水である可能性はある。
ただし上流に行けば、普通に考えたら人と会える可能性は低くなる。水源に近い上流には人は住んでいないことが多い。人の生活圏は川などの水が確保出来る場所の近くだ。そしてそれは下流ほど可能性が高い。川を下っていけばどこか人の住んでいる場所に出る可能性は高いだろう。
でもそれは川の水が利用出来る前提の話だよな……。これだけひどい川の水が何かに利用されているとは思いにくい。ということはこの川を下っていっても流域に人の住む場所はない可能性が高いかもしれない。
となればやっぱり上流に向かうのが正解か?わからん……。どっちも正解ではないような気もするけど……。
そもそも俺はこの世界のことについてあまりに知らない。イケ学はどこにある?周囲の状況は?地形は?詳しいことは何もわからない。
だいたいイケ学に戻ってどうする?仮に無事戻れたとしてもアイリスが俺を見逃すとは思えない。戻ってもまたアイリスやその手下達に命を狙われるだけだ。それなら素直に表から戻るという選択肢はそもそも存在しない。
このまま下流に行っても水は確保出来ないだろう。そのうち海に出られたとしても、海だってどういう状況になっているかわからない。こんな川が流れ込んでいるんだから海も相当汚染されているんじゃないだろうか。そんな海に出てどうする?
近くに他に飲める水が流れている川があるとも限らない。海も汚染されていたら魚などの食べ物も手に入るとは限らない。
だったら……、上流に行ってみるか?上流なら人はいないかもしれないけど、水源近くなら水ももっと綺麗かもしれない。魚がいれば良いけど、最悪魚がいなかったとしても水だけでも確保しなければ……。
「よし……。上流へ行くか……」
普通の選択肢としてはあり得ないだろう。地球でなら人がいる確率が高く、最悪町がなくても海に出る下流へ向かう方が良い。深い山や森の中である水源方向へ向かっても仕方がない。余計迷うだけだ。でも俺はあえて上流へ向かう。
その判断が正しいかどうかはわからないけど……、せめて飲める水くらいは手に入りますように……。
~~~~~~~
鉄の剣と反逆の杖を装備した俺は早速上流に向かって歩き出した。一応川が流れているから上流方向はわかる。ファイヤーアローを発動前で維持して灯りにして歩く。
でもこの発動前で維持するというのが滅茶苦茶難しい。気を抜くと勝手に消えてしまう。消えるならまだいいけど制御を失敗して発射してしまったら面倒なことになる。自分も巻き込まれかねないし事故にならないように細心の注意が必要だ。
落ちているインベーダー達が本当に完全に死んでいるかどうかはわからない。常に警戒していないと、万が一にも生きているインベーダーがいて襲われたら大変だ。
「それにしても……、喉が渇いたな……」
喉が貼り付いたような感じがする。健吾達にやられた時に血を吐いたから、その血が固まっているのかもしれない。何か飲みたいけどこの川の水はさすがに飲む気がしない。せめて何か……、口をゆすぐだけでも出来れば……。
「あっ!」
そんなことを考えているとファイヤーアローの制御を失敗してしまった。射出されたファイヤーアローが転がっていたインベーダーの死体に突き刺さり少し燃える。このまま放っておいて燃え広がったら面倒だから消火しておかなければならない。
ないとは思うけど、万が一にも周りの死体に燃え広がったら大変な炎になる可能性もある。こんな狭い場所で、体力もなくなっている状況で炎に巻かれたら死ぬしかない。
「ウォーターランス」
火の矢を全て包んでしまうほどの水の槍で消してしまう。これで一安心だ。
「って、あっ!」
待てよ?もしかしてウォーター系の魔法を使ったら水が確保出来るんじゃないのか?まずは実験だ。
「ウォーターアロー」
大きい魔法を使って失敗したら面倒なことになるかもしれない。まずは小さい水の矢で確かめる。
水の矢を出してから、火の矢の維持失敗の時のように魔力をカットしてみる。するとバシャリと水が形を維持出来ずに崩れた。そう、崩れた。
「いける……。いけるぞ!」
水は消えることなく形が崩れて下に落ちた。つまりこの水は本物の水だ。これを利用すれば水が確保出来る!
「ウォーターランス!ウォーターランス!ウォーターランス!」
矢じゃ小さくて得られる水の量が少ない。槍を何発も発動させてバシャバシャと水を発生させた。ドロドロになっている手などを洗って、顔も洗って、そしていよいよ……。
「んぐっ!んぐっ!んぐっ!ぷはぁ!うまい!」
飲める。ちゃんとした水だ。やった!でも面倒臭いな……。
火で灯りにするのもそうだけどボール系の魔法が欲しい。ファイヤーボールなら維持して照らすのに向いてそうだ。それにウォーターボールなら水も一気にたくさん得られそうな気がする。器がないから出す都度使わなければならないのが難点だな。
それはともかく綺麗な水を得る方法がわかったんだ。まずは全身を綺麗にしよう。体中べとべとだし、鉄の剣だって錆びるかもしれない。俺は夢中になって水を発生させては体を洗ったり、武器や道具を洗ったりした。
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水は確保出来るようになったし、汚れていた全身もある程度は綺麗になった。さすがに石鹸で洗ったわけでもないし、服だって洗剤で洗ったわけじゃない。まだまだ汚いけどさっきまでよりは随分マシになったと思う。
「あとは食い物だけど……」
ファイヤーアローを何本か発生させて辺りを照らす。でも相変わらず転がってるのは人間やインベーダーの死体くらいで食べられそうな物は何もない。川にも魚すらいそうにないし食料調達は相当難しそうだ。
生きているインベーダーに襲われる可能性もあるかもしれないし、何か使える物や食料が落ちているかもしれないから慎重に探索しつつ進む。でも何もない。皆死体ばかりだし、食える物どころか使えるものもほとんどなさそうだ。
さすがに死体が着てる服を引っぺがして自分が着るのはいやだし、武器になりそうな物も使えそうな物もない。ほとんどは木刀くらいしか持っていないからな。戦闘中に死んだ者の死体が投げ込まれているのだとすれば、レベルの低い者が多いイケ学なら精々木刀しかないのも頷ける。
「インベーダーって食えるのかな……」
さすがに人間を食う気にはなれない。でもこのクラゲみたいな奴なら……。
って、正気になれ、俺……。こんなもんを食う気か?何か変な病気にでもなって余計苦しむことになるんじゃないのか?それでなくともこんな奴らを食おうという気にはなれない。
「とにかく上流へ向かうか……」
下流へ行っても川は汚染されたままだ。それは間違いない。だから……、ちょっとでもマシになっている可能性があるとしたら上流しかないと思う。本当にその判断が合っているかどうかは未知数だ。でも俺はそれに賭ける。
幸い水はどうにかなった。何か食わないことには失った血が戻らないと思うけど……、とにかく水だけで凌げている間にどこかへ出なければ……。このままじゃあの時死んだ方が楽だったということになりかねない。飢え死になんて真っ平ごめんだ。
「一体何時間経ったんだろう?」
昼も夜もわからない。ずっと薄暗い状態で同じような景色の中を歩いていたら時間がわからない。出来ることは精々ファイヤーアローを出して維持する練習をすることだけ……。たまに違う魔法も同時に発動させて維持する練習をしてみる。
属性はあまり関係ないようで、俺の集中力というか、認識力の限界というか、は今の所アロー系で三発のようだ。どうせなら十発くらい同時に維持出来れば戦闘でも色々と使えそうだけど……。
「よーし……、どうせ暇なんだ。魔法維持の練習に励むとするか」
何かしていないと気が変になりそうだ。だから俺はとにかく必死で魔法の練習をしながら、この地獄のような景色の中を上流に向かって歩いていたのだった。




