第七十一話「寝坊しました」
寮の部屋に戻った俺はまず水をがぶがぶと飲んだ。もうお腹がチャポンチャポンになるほど飲んだ。それでもまだ飲み足りないとばかりに水を求めてしまう。
「ぷはぁっ!」
口の端から零れるのもかまわず、とにかくコップを傾けてがぶ飲みする。
今まではずっと水分を口にすることが出来なかった。それが今、水を口に入れたことで一気に渇きが何倍にもなって襲ってきた。そしていくら口から飲んでも体に補給されるまでにはタイムラグがある。そのラグの分だけ余計に渇きを感じる。もうお腹は一杯のはずなのにいくら飲んでも渇きがおさまらない。
それでもある程度飲んだところで何とか渇きを振り切って飲むのをやめる。詳しい数字は忘れたけど、確かある程度を飲むとそれ以上いくら飲んでもほとんど吸収されず効果がない、というようなものを見た覚えがある。だから一気にたくさん飲むんじゃなくて、少量を定期的に飲むのが良いとされていたはずだ。
まぁそれは熱中症対策の話だけど……、喉の渇きだって同じだろう。一度にたくさん飲んでもあまり効果的じゃない。小分けに定期的に飲む方が良いはずだ。
水分補給をして室内に座り込むと手も足もガクガクして立ち上がれなくなった。今までは気を張っていたから何とか動けていたけど、こうして一度緊張が解けると疲労や筋肉痛が襲ってきた。もう動くのも億劫だ。
とはいえずっとこうしてるわけにもいかない。健吾だっていつ戻ってくるかもわからない状況だ。
いつもなら医務室に行けば夜までには戻ってくるパターンが多い。でも残念ながら今日はもう明け方近い。一体何時間戦っていたんだろう……。それに医務室も遅い時は治って戻ってくるまでに一晩くらいはかかっていることもあった。健吾の怪我の具合がどの程度かわからないから、いつくらいに戻ってくるか判断するのは難しい。
それに血と泥で全身ぐちゃぐちゃだ。もうこのまま寝てしまいたい衝動に駆られるけど、さすがにこの姿のまま寝るというのはあり得ない。最低でもお風呂に入って、着替えて、ベッドでゆっくり寝たい。でなければ疲れも取れないだろう。そしてこんなドロドロのままベッドに入るのは言語道断だ。
俺は感性が現代日本人だから割と綺麗好きだと思う。今の姿のまま室内を歩くだけでも嫌な気分だ。後で部屋を掃除しなければならないと思ってる。そんな姿で自分のベッドに入って眠るなんてあり得ない。
だから無理やり立ち上がった俺は体を引き摺るようにしてお風呂に向かった。湯船を張っている間に着替えたり、汚した部屋を掃除しておく。どうせ風呂に入るのに着替えるのか?と思うかもしれないけど、あのままウロウロしてたらあちこち余計に汚してしまう。
そんなわけで辛い体に鞭打ってあれこれしている間にお風呂の準備が出来たから服を脱いで風呂に入る。
「はぁ~~~~っ…………」
掛け湯をしてから湯船に浸かるとまるで疲れがお湯に溶け出していくかのような錯覚を覚えた。とても気持ち良い。このまま眠ってしまいそうになる。でも寝るわけにはいかない。前までのように俺の一人部屋だったなら良いけど、今はまた健吾と二人部屋だ。いつ健吾が戻ってくるかもわからない状況でそんな無防備は晒せない。
ゆっくりあったまってから頭や体を洗う。そしてまた湯船に浸かる。本当にこのまま眠ってしまいそうだ……。
~~~~~~~
何とか湯船で寝て溺死するなんて結末を回避した俺は部屋に戻ってきてベッドに入る。もう体が限界だ。これ以上は何も出来ない。お風呂に入っている間に洗濯もしておいたし、干すべきものは干した。下着とかはいつ健吾に見られるかわからないから手早く乾かして内緒の場所に置いてある。
ああ……、やっと眠れる……。俺はそのまま素直に意識を手放した…………。
………………
…………
……
「ん……」
何かくすぐったいような、顔に何かが這うような感じがして顔を背ける。でも背けたはずなのにグイッと頬にそえられた手で顔の向きを戻された……。
何だっけ……。何でこんな……。
「ぁ……?」
ぼんやり開けた目に飛び込んできたのは……。
「あ……、きっ……、きゃあああぁぁぁぁぁ~~~~っ!」
「ぶっ!」
まるで俺の顔に迫るかのように覗き込んでいた顔を思いっきりぶっ飛ばした。今、俺の頬に手をそえて、まるで俺にキスを迫るかのように男の顔が近づいてきていたはずだ。
…………あれ?そういえばここは?何で俺は……。
「え?あれ?」
寝ぼけた頭をフル回転させて今の状況を思い出す。まず……、ここは俺の部屋だ。うん。俺の部屋だ。そして俺は自分のベッドで寝ている。そこまではいい。そして今さっき……、俺はおぞましいものを見た。まるで俺にキスしようとしているかのように迫った男の顔……。その男の顔は……。
「健吾……?」
「うおぉっ!鼻が!鼻がぁっ!」
俺のベッドの周りでのた打ち回っている男が一人居た。そいつはさっき俺にキスしようと迫っていた不届き者だ。
「おい健吾……」
「ふおおっ!ふおおおっ!」
顔を押さえたままのた打ち回っているから落ち着くまで暫く放置しておく。少ししてようやく健吾も落ち着いたらしいので話を聞く。
「おい健吾、お前俺にキスしようとしてなかったか?」
「ばっ!ばっか!そんなわけねぇだろ!ばっか!ばっかじゃねぇの!何で俺が伊織にそんな……」
……な~んか、あからさまに挙動不審なんだよなぁ……。
俺だってそう思うよ?男同士でキスなんてしようとするはずがない。でもさっきのは明らかにおかしい。俺の頬に手を添えて顔を近づけてくるなんてそれはもうキスしようとしてたんじゃないのか?
それに……、寝てる俺のプライベートスペースに無断で入ってきて、起こすわけでもなく何かをしていたなんておかしすぎる。
まさか俺が女だってバレ……。いや、違うよな?それはない……、と思う。思いたい。
とにかく健吾のせいで目が覚めた俺はベッドから出て……、固まった。
「…………え?今何時だ?」
外はもう薄暗い。眠りについたのが夜明け前だったんだから……、まだ早朝?
「今か?十九時だけど?」
「…………は?」
十九時?夜?おっ……、俺夜まで寝てたのか?学園は?……って、あっ!
やばい!ディオやニコライの特訓の時間も過ぎてる。それに舞は?舞は毎日アンジェリーヌの手紙を持ってきている。もしかして今日も来てたんじゃ……。
やばい!やばいぞ!どうしよう……。どうしたら……。とっ、とりあえずいつもの教室の方へ行ってみるか。
「おい伊織、どこへ行くんだよ」
「ちょっ、ちょっとな!」
立ち上がった俺は慌てて玄関に向かう。
「寝間着で行くのか?」
「……あ」
健吾の言葉で立ち止まる。そういえばそうだった。寝間着のままだ。プライベートスペースに戻った俺はカーテンを閉めて着替える。学園の制服でいいか。というか他に外に着ていける服も持ってないしな。
いつもは健吾の前で着替えないでいいようにしていたけど今はそんなことを言っていられない。ただ着替えるだけなのに、何でカーテンを閉めてるんだって思われてるかもしれないけどそんなことは後回しだ。手早くいつもの制服に着替えた俺は寮を飛び出した。
ニコライやディオなんて別にどうでもいい。ちょっと怒られるだけだし、そもそも怒られる謂れだってない。特訓は俺が自発的にしているんであって二人にとやかく言われる筋合いのことじゃない。
でも舞がもし今日も俺を待っていたとしたら大変だ。とにかく舞といつも会っている空き教室の一つにやってきた。いつも通りなら今日はここにいるはず……、って、本当に居た!
「舞!」
「…………ぐすっ」
俺がいつもの部屋に駆け込むと……、舞が机に突っ伏して泣いていた。
「伊織君?」
「舞……、ごめん……。俺……」
「伊織君!」
俺が何か言う前に、舞は俺の胸に飛び込んできた。そして……。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」
「ごっ、ごめん……」
ポコポコと拳で叩いてくる。でも全然力が入っていなくて痛くはない。やがてその拳も止まって、俺にぴったりくっついてまた泣き始めた。舞が落ち着くまで暫く背中をさすりながら待つ。
「本当に心配したんだから!」
「ごめん……。昨日はあまりの激戦で……、明け方まで戦ってて、部屋に戻ってから寝てたら……、起きたらさっきだったんだ……」
「……え?寝てたの?」
俺の言葉にキョトンとした顔の舞がそう尋ねてくる。事実その通りだから俺は頷くしかない。
「うん……。寝てた……」
「くっ……」
舞が俺の胸に顔を埋めてプルプルと震えている。怒ったかな?そりゃそうだよな。デートで五分寝坊したとかいうのとはわけが違う。きっと相当心配させてしまったはずだ。
「ぷぷっ……、あははっ!何それ~!今まで寝てたの?お寝坊さんすぎるよ!あははっ!」
「え?」
突然舞は笑い出した。そんなにおかしいかな?
「そんなにおかしいか?」
「おかしいよ。だって今まで寝てたなんて、あははっ!」
散々笑う舞が落ち着くまでまた暫く待つ。そしてようやく本題に入れた。
「は~……。無事だったならもう許してあげる。でも今回だけだからね」
「はい……」
そう言われたって俺だって寝坊しようと思ってしたわけじゃないんだけど……。ともかく我が姫からお許しがいただけたんだからよしとしよう。
「はい!それじゃこれ、今日のアンジェリーヌ様からのお手紙」
「あ~……、はい……」
今日もまた……、いつも通りの分厚いお手紙なことで……。今からこれに目を通して返事を書くってかなり億劫だけど、だからってしないわけにもいかない。渋々読み始めた俺は返事を書いて舞に渡したのだった。
「もう……、今日はお寝坊さんのせいでお話してる暇もなかったよ」
「ごめん……」
確かに……、今日は本当にただアンジェリーヌの手紙を読んで返事を書いただけだ。舞とイチャイチャしている暇もなかった。これからは絶対に寝坊しない!舞とイチャイチャしたいから!
「あっ……、こんなに遅くなって色々大丈夫なのか?イケ学の出入りの管理とか、アンジェリーヌの方とか」
舞はアンジェリーヌの使いとしてイケ学に入り込んでいる。出入りのチェックをされているとしたらこんな遅くなって大丈夫なんだろうか?それにアンジェリーヌも待っているかもしれない。高位貴族様だし夜遅くなると会えなくなるとか何かあるかもしれない。
「うん。それは大丈夫。それじゃ……、ね……」
最後に、別れを惜しむように、舞の手が俺から徐々に離れていく。最後の瞬間まで触れ合っていたいというかのようなその手は、やがて完全に届かない距離となり離れる。舞の姿が完全に見えなくなるまで見送った。
そして思った……。いつもならこのあと特訓に行くから舞を見送れないけど、今日はもう図書館も体育館も閉まってるから舞を見送りについていけばよかった……。
今日の俺はとことん駄目だな。まだ頭が寝ぼけているのかもしれない。そんなことを考えながら寮に戻ったのだった。
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寮に戻ったけど健吾はいつも通り、特に何か変わった様子もなかった。もし俺にキスしようとしてたんだったらもっと何かありそうだけど……、やっぱり何もなかったのかな?もし俺が寝てる間にキスされてたんだとしたらゾッとするけど……。さすがにそれはなさそうだ。あっても未遂くらいだろう。いや、未遂でも気持ち悪いし嫌だけど……。
ともかく医務室で治療を受けてきた健吾は回復しているようだし、俺から余計なことを言っても藪蛇になりかねない。健吾が普通にしているんだから俺も普通にしておく。
「なぁ健吾……、ところで……、もしかして俺って今日学園を休んだのか?」
「ん~?今日は授業はなかったぞ?朝までかかったから休みだ」
「そうだったのか……」
休みだったのか……。それはよかった。よかった……、のか?まぁよかったってことにしておこう。
学園を休んだことにならなかったのは良い。でも……、俺は朝から夜までぐっすり眠っていた。もしかしてまた生活リズムが狂ってしまったんじゃないだろうか?今日、今からまた寝ろと言われても起きたばかりで眠れるとは思えない。
適当にいつもの生活をして、風呂に入って、プライベートスペースでブレスレットを読んで……、もしかして眠れないかと思っていたけど、いつもよりは遅い時間ながら眠くなってきたから眠ることにした。
朝から夜まで寝てたのにまたすぐ眠れるなんて昨日はよほど疲れていたんだろう。うつらうつらとそんなことを考えているうちに俺はまた眠りに落ちていたのだった。




