第四十九話「殴られました」
もう飛び出したことをなかったことには出来ない。パトリックの手を放して立ち去ることも出来ない。どうする?どうすればいい?
何故俺はこんなことをしてしまったのか……。自分で勝手に飛び出したわけで自業自得だけど自分でも自分が理解出来ない。
「このっ!」
「あっ……」
パトリックが俺の手を振り解こうと暴れる。だからパッと手を放してやったらヨタヨタとよろけていた。……足腰が弱すぎやしませんかね?その程度でよろけるなんてどれだけちゃんと鍛えてないんだ……。所詮は攻略対象達はこんなものか。
「貴様!パトリック王子に向かっての狼藉!ただで済むと思うなよ!」
「ハリル……」
こいつ……、王子達にあんな扱いを受けてもまだ……。
ゲームの時なら何とも思わなかっただろう。そういう設定、そういうキャラクター、そういうシナリオだと思えばすんなりスルー出来た。でもこの現実になった世界でこれはあまりに気味が悪い。
腕を失うほどの怪我を負ってまで王子達のために戦っていたハリルを『使えない』だの『代わりの前衛を探そう』だのと言っていた。そんな奴のためにまだこんなことが言える人間なんていないだろう。例え現実の騎士や武士だって人間で心がある。いくら主君に忠誠を誓わなければならないとしても相手があまりに酷ければ尽くす忠誠も失われるというものだ。
それがどうだ?この無条件なまでに尽くされる忠誠は?
あまりに気持ち悪い。相手が信頼に足るような素晴らしい主君であったならばまだわからなくもない。だけどこんなクズのような王子にそこまで無条件に尽くせるというのがもうあまりに気持ち悪すぎる。
「待てハリル」
「パトリック王子……、この者の狼藉を許されるというのですか?」
俺に食ってかかってきたハリルを後ろからパトリックが止める。でもその嗜虐的な目はハリルを止めて俺を許すというつもりなどまったくないことがはっきりとわかるものだった。
「許すわけないだろうが!おい、貴様、この俺を侮辱したんだ。どうなるかわかっているだろうな?」
「…………」
パトリック王子……、こいつはわかっているのか?
「本当なら貴様などこの場で打ち首にしてやるところだが……、俺は心が広い」
さっきからニヤニヤと……、いやらしい笑みを浮かべて口からクソを垂れ流している。
「動くな。ただそれだけだ。いいな?」
「…………」
少し足を開いて歯を食いしばる。つまりはそういうことだろう?
「くらえ!」
バキッ!と俺の顎がフック気味に殴られる。グラリと倒れ……、はしないな……。ちょっと痛いけどどうってことはない。普通に耐えられる程度のものだ。
「チッ!こいつ……。おらっ!」
ベキッ!と鼻が嫌な音を立てる。折れて……、はいないな。さすがに鼻血が垂れてきているけど折れるほどじゃなかった。ポタポタと鼻血が垂れているけど俺は後ろで手を組んだまま微動だにせずじっとする。
「このっ!図に乗るなよ!俺は!王子だぞ!」
バキッ!ベキッ!ボキッ!
顔ばかり執拗に狙ってくるパトリックの拳を何発受けただろうか。俺はパトリックが言った通り最初の立ち位置から一歩も動いていない。
「ちっ!」
俺の顔を散々殴って指が痛くなったのか手をプラプラさせているパトリックは苛立った顔を隠そうともせず俺に近づいてきた。
「何だその目は?何か文句でもあるのか?」
「…………」
俺は何も答えずにただ真っ直ぐパトリックを見る。別に睨んでいるわけじゃない。恐れているわけでもない。ただ無感情に……、路傍の石でも見るような感情しか湧いてこない。
「その目をやめろ!」
ドフッ!と鳩尾に一撃を入れられる。でも……。
「――ッ!」
パトリックの方が自らの右手首を左手で掴んで蹲った。
「パトリック王子!貴様!王子に何をした!」
何もしてないだろ……。お前らだって見てただろうが……。顔は鍛えようがない。だけど顔はすぐ骨だから殴ると殴った方も痛い。だからパトリックはボディに狙いを変えたんだろう。でも俺が腹筋に力を入れたからパトリックの攻撃は通らず自分の腕に衝撃が跳ね返ってきただけだ。
それにボディを打とうと変な、掬い上げるようなパンチを繰り出したから手首を痛めたんだろう。きちんと普段から鍛えている者ならともかく、箸より重い物も持ったことがないようなボンボンじゃ無抵抗な人を殴ったって自分の手の方を痛めるだけだ。
「何もしていないのはご覧になっていたでしょう?ナイフとフォークしか持ったことがないお方が無抵抗とはいえ人を殴れば自らの手を痛めるのは当然です」
段々イライラしてきている俺はついに余計な口を開いてしまった。今までただ黙って殴られていただけだったけどいい加減うんざりする。それほどダメージはないけど一方的に殴られていれば腹も立つし痛みだってある。
「貴様!侮辱するか!」
そしてついにパトリックは剣を抜いた。まぁ木刀なんだけど……。俺達は普段武器は持ち歩けないけどパトリック達は武器を持ち歩ける。貴族の特権で帯剣出来るというわけだ。
さすがにパトリックのような軟弱者が相手でも木刀で殴りまわされたら大怪我もさせられるだろう。抵抗も出来ずに一方的に殴りまわされるのは思ったよりもストレスがすごい。いっそこの木刀をぶんどってパトリック達五人を滅多打ちにでもしてやろうかと考えてしまう。
「パトリック様……、もう行きましょう?そのような野蛮な方とお付き合いされてはパトリック様の品位まで下がってしまいます」
「あぁ……、アイリス……。わかったよ。それじゃ行こう」
急にトロンとした顔になったパトリックはもう俺に興味もないとばかりに木刀を仕舞ってアイリスの肩に手を回して歩き始めた。他の攻略対象達も同じような表情になってスタスタと歩き去っていく。あまりに気味が悪い……。
普通こういう場面なら仮に引き下がるとしても最後に何か言っていくくらいはするはずだ。それなのにアイリスにああ言われた途端に周囲の全てに興味がないとばかりの態度になってそのままいなくなった。普通ならあり得ない。あまりに気持ち悪い……。
それにパトリックは気付いているのか?自分の矛盾に…………。
アンジェリーヌには高位貴族であることを笠に着て平民であるアイリスに偉そうに接するなと言っておきながら、女性を殴ろうとした自分が止められたら自分が王子であることを笠に着て平民を一方的に殴りまわす。
パトリックのそれは自分勝手なダブルスタンダードだ。アンジェリーヌの行いが正しいというつもりはない。でも政略結婚が当たり前の貴族社会で、高位貴族である自分の許婚に妙な平民が近寄って色目を使っていればそれを注意するのは当たり前だ。そのアンジェリーヌの行動の全てを非難することは出来ない。
もちろんやり方を間違えていたりすれば問題だけどアンジェリーヌの場合はこれまでに何度もアイリスに警告している。パトリックに近づくなと警告しているのにやめる気配がないから徐々に対応が厳しくなっているだけだ。
それに比べてパトリックは自分が非難されるようなことをしておきながらそれを注意されたり止められたら自分が王子であることを笠に着て、相手を無抵抗にさせて一方的に甚振る。これはアンジェリーヌがしていることよりもずっと性質が悪い。
でもパトリックからすれば自分がしてることは許される。アンジェリーヌがしていることは許されない。結局の所厳密な法の遵守や倫理や慣例から考えているわけではなく、全て自分本位で自分勝手な、時々によってコロコロと変わる基準によって好き勝手しているだけだ。
「あなた……、何故このようなことを……」
「え?」
立ち去っていくパトリック達の後姿を見送っていたら後ろから声をかけられた。振り返ってみれば……。
「――ッ!」
そっとアンジェリーヌが俺の頬に触れてきた。触られた場所が少しピリッとする。多少はダメージもあったようだ。いくらパトリックが箱入り王子でも無抵抗に顔面を殴り続けられたらこうもなるか。
「何故割り込んだりしたのです。こうなることはわかっていたでしょうに……」
「あ~……、いや……、自分でもよくわかりませんけど……、女性が殴られそうだと思ったらつい……」
そっと触れてくるアンジェリーヌの手は少しひんやりしていた。っていうかメッチャ見てる!滅茶苦茶見てる!舞さんが凄い形相でじっとアンジェリーヌの後ろの方からこっちを見てる!怖い!待って!何でそんなに怒ってるの!?
「私に取り入ろうとでもいうのですか?本当に……、馬鹿な人……」
何か陰のある顔でアンジェリーヌはそう言いながら手を離した。何か少し名残惜しいような気がしてしまう。でも後ろの舞さんが滅茶苦茶怖いから態度には出さない。ただどうしていいかわからず固まる。
「いつも私の邪魔をしているかと思えばこんなことをしてみたり……、あなたが何をしたいのかさっぱりわかりません」
「えっ!?」
いつも邪魔って……、まさか……。俺がいつもアンジェリーヌとアイリスのイベントの時に邪魔していたのを知っていたのか?何で?
「礼は言いませんよ……。それでは……、御機嫌よう」
俺の前で……、アンジェリーヌはスカートを摘んで足を少し屈めて頭を下げた。ポカンとしている俺の横を通りすぎてアンジェリーヌ達が出口の方へと向かう。
「いっ!」
「ふんっ!」
列の一番最後についていた舞が俺の横を通りぬける時、思い切り足を踏んで行った。間違えてとかじゃないことくらいは俺にもわかる。わざと踏んでいったんだ。何で俺は舞に足を踏まれなければならなかったのか……。
そもそも普通ならこのボコボコにされた顔を心配するべきなんじゃないかな?
まぁ……、最初振り返った時の舞の顔はひどいものだった。悲鳴を上げそうな、泣きそうな、そんな顔をしていた。その直後にアンジェリーヌが俺の頬に触れて途端に鬼の形相になっていたけど、恐らく俺が殴られている間ずっと後ろであんな悲痛な表情をしていたんだろう。
舞にあんな顔をさせるなんて俺は駄目な奴だな……。それに思いっきり目立ってしまった。パトリック達にも顔を覚えられた可能性が高いし何よりもアイリスにばっちり見られた。俺がパトリックに殴られている間もアイリスはじーっと、いつもの笑っているような表情でずっと俺を見ていた。
今思い出しても背筋が凍る……。あの女は何なんだ?一体何を考えている?パトリック王子達よりよほどアイリスの方が怖い……。
アンジェリーヌに顔を覚えられたことくらいはどうってことはない。むしろ俺はゲームの時にアンジェリーヌは結構好きだったからアンジェリーヌと顔見知りになれて悪い気はしないくらいだ。でもアイリスに目をつけられたのはまずい……。
どうしよう……。どうしたらいい?
自分の行動に後悔はしていないけど何とかしなければまずいと思う……。でもどうすればいいかさっぱりわからない。
「あっ!やべっ!」
暫く一人になった廊下で考え事をしていたけどよくよく考えたら俺はニコライの所に特訓に行く途中だった。遅くなったらまた怒られる。考え事は後回しにしてとにかく体育館へと急いだ。
「遅い!何をしていた!」
そして予想通り怒られた……。でも今日はいつもの怒られ方とは違った。
「何だその顔は?随分可愛い顔をしてるじゃないか。何があった?」
「え~っと……」
どうしたらいいんだろうか?正直に話した方がいいのか?
ニコライの立ち位置はどっちだ?王子派か?本当のことを言ったらどうなるんだろう?王子と揉めて怒らせたような奴にはもう教えないとか言われるんだろうか……。
とりあえず正直に話すか……。嘘をつくのは嫌だし正直に言ってニコライに見捨てられるのならそれまでのことだ。嘘をついて今の関係を取り繕うよりこれでニコライが王子派として俺を見限るなら今のうちにはっきりさせる方が良い。
「…………ということがありまして」
「なるほどな……」
さっきあったことを掻い摘んで説明するとニコライはウンウンと頷いていた。特に俺を非難したり王子を庇うような態度は見受けられない。
「やるじゃねぇか!女を庇うとはな!さすが俺の教え子だ!よし!これからはそんな奴らにも負けないようにもっと鍛えてやる!」
「えぇっ……」
怒られたりニコライが王子派だという線はなくなったみたいだけど何だか話が余計面倒臭くなった気がする。そもそも俺は負けてないし……。権力を笠に着て動くなと言われて一方的に殴られただけで、もし俺が抵抗してもよかったのならパトリックなんて一発も俺に入れることなくノックアウトしていた。見てから避けるのも簡単なヒョロい攻撃だ。
「これ以上厳しくされたら本当に死ぬんですけど……」
「つべこべ言うな!まずはいつもと同じ時間で三百周走ってこい!」
「無理でしょ!?」
周回数が増えているのに同じ時間で走りきれとか無理もいいとこだ!そもそも三百周走るのもきつい!
でも結局この後いつもより厳しいニコライ流剣術の修行をさせられました…………。




