第十五話「いじめに遭遇しました」
アイリスとヴィットーリオの強制イベントを見てから数日が経っているというのに未だに俺の気は落ち着かない。あの時……、階段を下りて行く時にアイリスはこちらを見上げていた……。俺と目が合った……。そんな気がしてしまう。
普通に考えたらあり得ない。偶然そういう風に見えただけだろうと言えばその通りだ。だけど……、見られていた気がして数日経った今でもソワソワと気分が落ち着かず気が立っている。昔のエロい人も
こちらがアイリスを覗く時、アイリスもまた覗き返しているのだ
と言っている。
俺の方からアイリスが見えていたということはアイリスからも俺が見えていたということだ。じゃあやっぱりあの時目が合った気がしたのは勘違いじゃなかった?アイリスはやっぱり俺に気付いて……。
「おい、伊織……。おいっ!伊織!」
「うわぁっ!」
急に揺すられた俺は慌てて肩に置かれた手を振り払った。飛び上がってそちらに視線を向けると……。
「どっ、どうしたんだよ?」
「健吾……?」
俺に払われた手を宙に彷徨わせたまま驚いた顔をしている健吾が立っていた。何だ?ここはどこだっけ?俺は何をしていた?
「おい?本当に大丈夫か?授業終わったぞ?」
「え?……あっ、あぁ……、大丈夫……、大丈夫だ……」
辺りを見回してみる。ここは教室だ。どうやら今日の授業は終わったらしい。ちょっとアイリスのことを考えているだけでいつの間にこんなに時間が経っていたのか。他の生徒達は俺達に興味もないかのように誰もこちらを見ることもなく片付けて帰っていた。
「具合が悪いなら医務室に行くか?連れて行こうか?」
「あぁ……、あっ!いや!いい!大丈夫だ!」
そう言って俺は慌てて立ち上がった。医務室は駄目だ。医務室にはあいつが来る可能性がある。それに前の戦闘のあと治療を受けてからの記憶もなくなっている。俺にとっては医務室は信用ならない場所の中でも相当上位にランクインしている。あんな所に行くくらいなら部屋で寝ている方がまだしもマシだ。
「じゃあ帰ろうぜ」
「いや……、悪い。ちょっと図書館に寄っていくよ」
俺は真っ直ぐ寮に帰っている暇はない。毎日体育館と図書館に交互に通っている。今日は図書館の日だから帰るわけにはいかない。
「本当に大丈夫かよ?たまには帰って休んだらどうだ?」
今日の健吾はどうしたんだろう?随分俺を帰らせようとしてくるな。いつもなら、ああそうか、って言って別れて終わりなのに今日は色々と食い下がってくる。
「大丈夫だ。ちょっとボーッとしてただけだよ」
「……そうか」
健吾もそれ以上食い下がってこなかったから俺は荷物をまとめて図書館へと向かった。慣れ親しんだいつものルートを通って……。
「貴女!私の言ったことが理解出来なかったのかしら?私はパトリック王子様に近づくなと言いましたわよね?」
「あの……、私はただ……」
嫌な予感がヒシヒシ伝わってくる。もうすぐ図書館だっていうのに廊下の角の向こうから女が言い争うような声が聞こえていた。そーっと階段から廊下を覗いてみればそこには予想通りの展開が起こっていた。
「言い訳するんじゃないわよ!」
「あっ……」
アイリスがアンジェリーヌに絡まれている。図書館へと向かう廊下の途中で……。アイリスの態度が気に入らなかったのかアンジェリーヌはアイリスが持っていた教科書やノートを手で払った。持っていた物がボトボトと落ちてアイリスは思わずしゃがみこんで拾おうとしている。
こいつらはどうしていつもいつも俺が行こうとしている道の途中で騒いでいるのか。わざと俺の邪魔をしてるんじゃないだろうな。なんてな。ははっ……、そんなことあるわけ……。
あるわけ……、あるわけが…………、ないと言い切れるか?
あの女……、あの得体の知れないアイリスならもしかしてここを俺が通るのを知っていてやっているんじゃないかと思ってしまう。
アイリスがわざわざそんなことをするメリットはわからない。もし仮に俺がここを通るのを知っていたとして何故わざわざ俺の前でこのようなことをしなければならないというのか。普通に考えたら自意識過剰も甚だしい恥ずかしい奴だと思われるだけだろう。
だけどそう言い切れるか?この女は……、アイリス・ロットフィールドは得体が知れない。
俺が勝手にそう思っているだけだと言われたらそれまでだ。別に直接何か変なものを見たというわけでもない。だけど俺の直感がこの女は危ないと告げている。関わるべきじゃない。俺はモブなんだから黙っていればアイリスと接触することもなくスルーして埋もれることが出来るはずだ。
俺より使えるモブは他にいくらでもいる。今後主人公チームがパーティーメンバーを増やすにしても俺が選ばれるなんてことはまずないだろう。俺だってそこまで自惚れちゃいない。
だけど……、何だろう……。例えば俺が地球の……、日本の記憶があると見抜かれているとしたら?それなら俺に利用価値があると思われている可能性はある。イケ学プレイヤーなら様々なゲーム知識を持っている。こんな腐れた世界でならばそれは何物にも変え難い貴重な知識だろう。
もちろんこれはただの俺の自意識過剰だ。そもそもアイリスのイベントはたくさんあるわけで、たまたまその中のいくつかのイベントに遭遇しているだけに過ぎない。俺が遭遇していない他のイベントも発生しているわけで、俺がアイリスのイベント全てにこうして遭遇しているわけでもないんだから狙っているわけじゃなくてたまたまと考えるのが普通だ。
だけど俺以外にアイリスのイベントに誰かが遭遇している所を今まで一度でも見たことがあるか?一度でもそういう噂を聞いたことがあるか?
何かがおかしい。普通ならイケ学で唯一の女子生徒であり、史上初めてインベーダーと戦える女であり、聖女候補と言われているアイリスに他の男子生徒が一切興味を持っていないなんてことはあり得ないんじゃないか?
普通ならアイリスのおっかけやファン倶楽部が出来ていてもおかしくはない。それに目立つ存在であるアイリスの噂があちこちに流れているはずだろう。それなのに俺は今まで学園でアイリスの噂なんて聞いたことがない。
わからない……。モヤモヤして気持ち悪い……。だけどどうすれば良いのかもわからない……。俺に出来ることは極力アイリス達に関わらず目をつけられないことだ。俺がただのモブに徹していれば俺の存在なんてアイリスに伝わることもない。ただひっそり隠れてやり過ごせば良い。
「ちょっと!何とか言ったらどうなの?」
「あっ!やめてください!」
アンジェリーヌが落としたアイリスのノートを踏み躙る。アンジェリーヌの取り巻き達もアイリスを取り囲んでいた。
「……ん?」
その中にまた見知った顔を見つけてがっかりする。あの瓶底眼鏡の地味な女、あの女もアンジェリーヌと一緒になってアイリスを取り囲んでいた。
正直俺はアイリスが怖い。不気味な女だと思っている。だけどだからって複数人でこうやって取り囲んでいじめみたいなことをするのもどうかと思う。その中に参加しているなんて何だかがっかりした気分だ。
……俺は何にがっかりしているんだろう?俺とあの瓶底眼鏡の女には何の接点もない。そもそも瓶底眼鏡の女について何も知らない。そう、名前すら……。そんな相手に何を期待して何をがっかりしたというのか。
これはゲームで決められたシナリオ通りであり、あの瓶底眼鏡の女どころかアンジェリーヌでさえただ決められたシナリオに沿って動いているだけだ。基本的にこの世界はゲームのイケ学に準拠している。イベントもシナリオも展開は基本的にそのままだ。
だからこれは彼女達の意思ではなくイケ学というゲームの性だ。アイリスはアンジェリーヌとその取り巻きにいじめられる。そういうシナリオが最初から決められている。
それはわかっているのに何だろう。この空しさは……。
まぁいい……。俺にとってはどうでも良いことだ。俺はただこの場を切り抜けられればそれで良い。このイベントはアンジェリーヌがアイリスをいじめている場面に初めてパトリック王子が遭遇するイベントだ。だから黙って見ていればそのうちパトリック王子が助けに現れるだろう。
現れる……、はずなのにいつまで経っても現れない。おかしい。このイベントは確実に覚えている。絶対にここでパトリック王子が現れてアンジェリーヌを問い詰めるイベントだ。パトリック王子に問い詰められたアンジェリーヌが逃げていって終わるイベントのはずなのにいつまで経ってもパトリック王子が現れない。
「貴女のような者はパトリック王子様に相応しくありません!黙って手を引きなさい!」
「…………」
くそっ!どうなってるんだ!何故パトリックは現れない!どうすればこのイベントは終わるんだ?……仕方がない。ここは……
「何をしている!」
「あっ……、貴女達、帰るわよ!」
「あっ、お待ちくださいアンジェリーヌ様」
俺がちょっとだけパトリック王子の声と話し方を真似して声をかけるとアンジェリーヌとその取り巻き達は慌ててこちらに向かってきた。俺の声をパトリック王子と思ったかどうかはわからないけど人の気配を感じて逃げ出そうと思ったんだろう。
今回はこうなることも考えていたからすぐに階段まで戻って上に上る。上の階へと続く踊り場に身を潜めてアンジェリーヌ達が通り過ぎるのを待った。
パタパタと取り巻き達を連れて通り過ぎるアンジェリーヌ達をそっと見送ってみれば……。
「ぁ……」
瓶底眼鏡の女が階段の近くで何かを落とした。でも大勢がバタバタと歩いている音で物を落としたことに気付かなかったようだ。全員が通り過ぎて暫くした後でもう一人やってきた。怖い……。我知らず俺の体が震えてくる。早くいけ!さっさと通り過ぎろ!
カツカツカツ
今さっきまでいじめられていたはずなのにしっかりした足取りと足音をさせながらあの女が歩いて行く。怖い……。怖い怖い怖い!気持ち悪くて吐きそうだ。
今回は覗き込んだりしない。下手に顔を出せば見つかる恐れもある。だから絶対に覗いたりはしない!
カツカツカツ トントントン
階段を下りて行く音が聞こえる。まだだ……。まだ動くな。完全に音がしなくなるまで……。
それからどれほど時間が経っただろうか。響いてくる音が完全に下まで行ってからさらにじっと息を潜めて待っていた俺はようやく踊り場から出た。元の階に戻ってさっき瓶底眼鏡の女が何かを落とした所に向かってみる。
「これは……?」
それはどこかで見たことがあるキャラクターのキーホルダーだった。もう古い、昔の子供向けのアニメのキャラクターだ。名前は思い出せない。確かあの子が好きだった……。
…………あの子って誰だ?
何だ?俺は今何を考えていた?
ブワッ!と俺の全身から嫌な汗が出てきた。わけがわからない。気持ち悪い。俺は知らない。こんなキャラクターも『あの子』とやらも……、知らない!こんな記憶俺の記憶じゃない!
違うはずなのに……、何だこれは?俺は……、二人いる?
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フラフラとした足取りでいつの間にか図書館に行き瞑想部屋に入っていた。正直ディオと会った記憶も曖昧だ。ただ何も考えず、いや、何も考えられず機械的にいつものように動いているだけだった。
「八坂さん、少し良いですか?」
「え……?」
俺が瞑想部屋に入っていると外からディオの声が聞こえてきた。何だ?今までこんなこと最初の案内をしてくれた時にしかなかったことだ。あとは閉館時間を過ぎているのに俺が出てこなくて呼びに来た時以外でディオが瞑想部屋に来たことはない。それなのに今日はここまで来て声をかけてきた。
「そのような状態で瞑想しても何も得るものはありません。もっと心を落ち着けて。ただあるがままに流れに身を任せるのです。それが出来ないのならば今日はもうお帰りなさい」
「…………はい。ありがとうございます……」
そうだな……。こんな錯乱した状態でただ座っていても時間の無駄にしかならない。ディオの注意のお陰でようやく落ち着いてきた。
もちろんまだ気持ち悪さはなくなっていない。考えることもたくさんある。だけど今は瞑想の時間だ。今はただ瞑想に集中すれば良い。考えるのはその後だ。
ディオが注意してくれてからは落ち着いていつも通りに瞑想が出来たのだった。