第百十四話「思い出しました」
饐えた匂いが充満し、暴力が支配する場所。王都の暗部、スラム街。しかしスラムだからといって女性は全て暴行され、子供は誘拐され、男は金品を奪われて殺されるというわけではない。
当然ながらスラムにはスラムなりの秩序もあるし、少し歩いているだけで誰もが何らかの犯罪に巻き込まれるというものではない。
外から来た者に対してはスラムで団結して抵抗したり、襲って金品を巻き上げたりする。しかしスラムで育ち生活している女性もいるし、そこで生まれた子供達もいる。他よりも貧しい生活を送り、事件や犯罪に巻き込まれる可能性が高いというだけで、確かにそこで平穏に生活している者達もいるのだ。
「待ってよ伊織ちゃん!」
「舞!遅いぞ!」
そんな場所で二人の子供が路地を走っていた。その先は子供達の遊び場になっている空き地がある。スラム育ちの八坂伊織と神楽舞はいつもここで遊んでいた。
二人がいつ出会ったのか、出会った瞬間の記憶はない。恐らく本当に出会ったのは二人が生まれた時だろう。共にこのスラムで生まれ、育ってきた二人は赤ん坊の頃からずっと一緒だった。
他にも年齢の近い同世代の子供達もいる。しかしそういう子供達が突然いなくなることは珍しいことではなかった。外部の者に対しては団結して対抗し、内部の者にはそれなりの秩序があるスラムではあるが、それでも内部の者だから絶対に大丈夫だということはない。
他のグループに襲われる者、犯罪に巻き込まれる者、実の親に売られてしまう者までいる。スラムでは十人が生まれて、十人どころか八人、いや、五人、三人……、ほんの一握りしか大人になるまで生きていられない。たくさん生み、たくさん死んでいく。その中で自分がうまく生き残れるのは奇跡のような幸運だ。
そして仮に大人になるまで生き延びたとしても、何の問題もなく無事に育つとは限らない。喧嘩に巻き込まれて大怪我を負ったり、女の子ならば暴行を受けたり……。それらを乗り越えて大人まで成長したとしても、今度は自分が犯罪者になる可能性も高い。スラムでは真っ当に生きていくのは難しい。皆、大なり小なり何らかの罪を犯して生きている者がほとんどだ。
「伊織ちゃん、今日はおままごとしよう?」
「いや!今日はヒーローごっこだ!」
舞は普通の女の子らしくおままごとで遊ぶのが大好きだ。それに比べて伊織はいつもヒーローごっこをしたがる。同世代の男の子達がいたら一緒になって棒きれを振り回している。
「えー!昨日ヒーローごっこしたら今日はおままごとしてくれるって言ったのに!」
「ヒーローごっこもおままごとみたいなもんだろ?」
「全然違うよー!」
まだ幼い二人は犯罪に巻き込まれることもなく、いつもの空き地でいつまでも遊んでいたのだった。
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数年が経ち、二人も少年少女と呼ばれる年齢になっていた。いつもの広場で二人で向かい合う。
「舞……、あのさ……、これ……」
「え?あっ!プリティーちゃん!伊織ちゃん、これどうしたの?」
伊織が差し出したのは舞が好きな低年齢層向けアニメのキャラクター、プリティーちゃんのキーホルダーだった。スラムではテレビなど存在しないが、スラムを出て町の方へ行けば街頭で観れる場所がある。テレビを観にいくといつも舞はこの番組を観ている。このキャラクターが好きなのは一目瞭然だった。
「舞への誕生日プレゼントなんだけど……」
「ありがとう!伊織ちゃん大好き!絶対、絶対大切にするね!」
「ちょっ!舞!」
飛び上がった舞は伊織に抱きついた。舞に抱きつかれて困惑している伊織もその表情は満更でもなさそうだった。
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「このままじゃ駄目なんだ……。このままじゃスラムはずっとスラムのままだし、この国だってそのうち滅んでしまう!」
「それはそうかもしれないけど……、でもだからってどうして伊織ちゃんがそんな危険なことをしなくちゃいけないの?」
さらに時が経ち、伊織はヒーローごっこではなく、本当にこの国をどうにかするヒーローになろうとしていた。スラムの貧民の子供の一人に過ぎない者が、一体国の何がわかるというのか。それでも伊織は本気だった。毎日思いが募る。この国をもっと良くして、スラムもなくす。そんな正義感に燃える。
しかし……、伊織がそれを望むのはただ一人の少女を守りたいがため……。
「舞には関係ないだろ!俺は本物のヒーローになってこの国を救うんだ!」
「あっ!伊織ちゃん!」
伊織は駆け出す。そして……、その日から数日、伊織と舞は会うことがなかった。
数日経っても伊織は顔を見せてくれず、舞は一人でトボトボと路地を歩く。薄暗くジメジメして臭い。普通の人が来て歩けばそう思う場所も、そこで生まれ育った者にはさほど気にならない。
「ひひひっ!おい、いつも一緒のもう一匹のガキはどうした?」
「え?あの?」
舞の周りにゾロゾロと男達が寄って来て取り囲む。確かにスラム内にもそれなりにルールや秩序はある。平穏にそこに暮らしている者達も大勢いる。女の子は生き残れる可能性が高い。男なら何かの争いであっさり殺されてしまうことはあるが、女の子は中々殺されないからだ。
ただしそれが何の事件にも犯罪にも巻き込まれず育つということは意味しない。むしろ女の子には女の子にしかない災いが降りかかることがよくある。
「こっちへこい!」
「きゃー!いやー!はなしてー!」
男の一人が舞の腕を掴んで引っ張る。もしこのままこの男達に連れて行かれたらこの後どうなるかは明白だった。舞がまだ子供でもこの後どんな目に遭わされるかは理解している。
「やめろ!舞を離せ!」
「いてっ!このクソガキが!」
舞の悲鳴が響き渡った時、物陰から飛び出した影が男の腕を棒で叩いた。反射的に叩かれた男は腕を引いて舞を離してしまった。
「伊織ちゃん!」
「舞!逃げろ!」
飛び出してきた影は伊織だった。あれから何度も舞と会って謝ろうと思っては会いに行けず、辺りをウロウロしては引き返していた伊織が、今日たまたま舞の悲鳴を聞いて駆けつけたのだ。転がっていた棒を拾って男の腕を殴ったのは良いが、子供が棒で殴ったくらいで大の男を倒せるはずがない。
「このクソガキがぁ!」
「やっちまえ!」
いつも舞は伊織と一緒にいた。子供二人くらいどうということはないが、流石に二人も相手だと声を出されたり、抵抗されたりしてしまう。モタモタしている間に周囲の大人がやってきたらお楽しみが出来なくなる。だから最近伊織と離れて一人でいるという話を聞いて舞を襲いにきたのだ。
それなのにいないはずの伊織に腕を叩かれて男は血走った目で伊織を睨みつける。他の男達もナイフを取り出して構えた。おもちゃは一匹いればいい。二匹もいたら騒がれて面倒になるだけだ。どっちも女であることは知っているが、伊織のような跳ねっ返りはいらない。
目の前で一人刺し殺せば舞の方も大人しくなるだろう。男達はそう考えてジリジリと伊織との間合いを詰める。
「舞!早く行け!」
「でも!」
「余所見してる余裕があるのか……、よっ!」
「ごふっ!」
チラリと舞の方を振り返った伊織に一人が蹴りを入れる。まだ小さな体はそれだけで飛ばされて転がった。
「伊織ちゃん!」
「逃げろ……、舞……」
転がっている伊織に男達がニヤニヤと笑いながら近づく。そして……。
ドカッ!バキッ!
「がっ!ぐっ!」
「このクソガキが!さっきの礼だ!」
寄って集って伊織を蹴り飛ばす。この間に舞に逃げられるかもしれないがそんなことはどうでもいい。この男達は確かに舞で獣欲を満たそうと考えていたが、男達の楽しみはそれだけではない。弱い者を甚振り、嬲り者にし、泣いて許しを請うまで痛めつけるのも大好きだ。
例えここで舞に逃げられても、またそこらで女を捕まえて獣欲を満たせば済む話だ。それよりも今の興味はこの生意気なクソガキを甚振ることに集中している。
一体どれほど甚振られていたのか……。とても長い時間のような気もするし、ほんの短時間のような気もする。しかしその時間で十分だった。
「おう!随分うちのモンを可愛がってくれてるみてぇだな?」
「げっ!しまった……」
男達は他の男達に囲まれていた。スラムでもグループや派閥というようなものがある。舞に絡んできた男達は本来この付近にいるグループではない。自分の属するグループ内でこんなことをすれば自分達が仲間からやられてしまう。だからこういうことは他のグループのシマに行って行うのだ。
外に対してはスラムとして団結しても、スラム内はスラム内でこういった争いが起こる。男達はこのシマのグループが他所に行っている隙を狙って入ってきていた。しかし伊織が体を張って時間を稼いだお陰で、男達が何かする前にこの辺りのシマを取り仕切るグループが帰って来たのだ。
「くそっ!こうなったらやっちまえ!」
「逃がすな!殺しても捕まえろ!」
二つのグループが争っているが人数差もあり勝敗は明らかだった。この辺りを取り仕切るグループのリーダー格の男が伊織の方へ歩いてくる。
「中々やるじゃねぇか。お前のお陰で彼女は助かったぜ」
「…………へっ」
リーダー格の男はそれだけ言うと倒れている伊織から離れていった。別に同じグループだからと伊織を助けてなどくれない。それがスラムというところだ。
「伊織ちゃん!」
「舞……、この前は……、ごめんな……」
「いいの!いいから!伊織ちゃん!しっかりして!伊織ちゃん!」
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ちょっと揉め事があってもスラムでは日常茶飯事だ。伊織が大怪我を負っても迂闊だったと言われておしまい。それがスラムの掟でもある。
事件があってからかなりの年月が経ち、伊織も舞もそれなりの年齢になってきた。都会の子供ならまだまだ子供だろうが、自立の早いスラムの子ならもう精神的には相当大人になっている。
「伊織ちゃん!パレードがきちゃうよ!早く早く!」
「大丈夫だって……」
今でも、伊織と舞はずっと一緒だった。あんなことがあって舞は自分を責めたが、伊織が舞は悪くないと言い張り、二人でお互いに自分が悪かったと言い合い、そして笑い合う。心も、体も、傷ついても、どんなことがあっても二人は離れない。死が二人を分かつまで……。
「パレードを見る時だけこの眼鏡外していいかな?見難いんだけど……」
「駄目だ。舞は可愛すぎる。その眼鏡と髪型で顔を隠しておかないとまた襲われるぞ」
あの事件があってから、伊織は舞にぐるぐる眼鏡をかけさせ、髪形を地味にして、目立たない女の子に仕立て上げた。伊織の考えでは舞が美人すぎるから男に狙われてしまうのだという結論に到った。ならば目立たないように変装すれば良い。そのためのこの出で立ちというわけだ。
「あっ!来たよ!」
「ああ……」
今日王都はお祭り騒ぎで浮かれていた。この国の王子と、どこかのお貴族様が婚約されたということで、王都中がパレードとお祭り一色になっている。
「うわぁ……。綺麗な人……。あの人が将来王妃様になられるんだね」
「舞の方が綺麗だよ」
伊織はブスッとした顔でそんなことを言った。
「え?」
「だから舞の方が美人だし、綺麗だし、可愛い!貴族の娘なんてケバいだけだろ!」
伊織は舞が世界で一番可愛いと思っている。実際スラムだけではなく、こうしてスラムから出てきて街中を見ても舞より可愛い女の子なんて見たことがない。
「そんなことないよ。ほら!伊織ちゃんも良く見てご覧よ!」
「どうせそんな……、え?」
そして、パレードで馬車に乗って手を振っている少女を見て伊織は固まった。
「ほらほら!可愛いでしょ?」
「それは……、舞よりは圧倒的に劣るけど……、まぁまぁなんじゃねぇの?」
少し顔を逸らせた伊織がそんなことを言う。伊織がそう言ってくれるのはうれしいが、やっぱりああして綺麗に着飾っている姿を見ていると憧れてしまう。舞があんな格好をしてもきっと似合わないだろうと自分では思っていた。
「アンジェリーヌ様っていうんだよ……。素敵だね」
「あぁ……、まぁ……」
二人は内心テンションを上げまくってパレードを眺めていたのだった。
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舞が襲われた事件があってから、伊織はひたすら体を鍛えていた。あの時自分がもっと強ければ、グループの者達が戻ってくるまでもなく舞を助けることが出来たはずだ。子供と大人の差があったというのは言い訳にはならない。男と女の差があるというのも言い訳にはならない。
「伊織ちゃん……、あまり無茶したら駄目だよ」
ごっこ遊びではない。毎日素振りをして、走ったり、筋トレをしたり、とにかく伊織は思いつく限り体を鍛えた。それが舞には無茶に見えるらしい。
「舞……、俺、町の学校に行く」
「……え?」
伊織の言葉に舞はポカンとする。女が入れる学校と言えばプリンシェア女学園しかない。しかしプリンシェア女学園に入るのは簡単なことではない。スラムの貧民では払えないような学費を払うか、学費免除となる成績優秀者とならなければならない。
「この世界を変えるために……、舞を守るために……、俺はイケシェリア学園に行く!」
「伊織ちゃん……」
伊織の決意が固いことはわかっている。本当に通えるかどうかは別にして、伊織が本気で目指しているのは間違いない。ならば舞のすべきことは伊織を止めることではない。
「わかった……。それじゃ私はプリンシェア女学園に行く!」
「舞……」
二人はお互いの決意を語り合う。そして二人の手が合わさった時、仄かに淡い光が灯った。そして二人の頭の中に直接何かが流れ込んできた。
「え?これって……」
「俺と舞が……?」
二人はその流れ込んできた情報を徐々に理解し始める。伊織と舞は二人で一人。どちらが欠けても駄目だ。
自分達のなすべきことを知った伊織と舞は、すぐにそれぞれの学園に通えるように努力を始めた。そしてこの後二人は目標通りそれぞれの学園に入学を果たしたのだった。