虚偽の中に
初夏の夜。生ぬるい風が吹き抜ける屋上。小さく見える街並みは賑やかに光を放出している。見下ろしても、高い所にいるという恐怖を掻き消すほどの綺麗な夜景が広がっていた。
また一つ風が吹き抜け、私を足下に広がる街へと突き落とそうとする。いや、背中を押してくれているのだろう。随分と心地の良い風にも思えた。
私は何も信じれなくなっていた。親も、友人も、恋人も、同僚も。
みんな私を裏切った。馬鹿にしていた。騙していた。空虚な言葉でよく取り繕われるけれども、その中身が空っぽなんだと、すぐにわかってしまった。誰一人私に真実を与えてくれない。嘘しかつかないんだ。みんな嘘ばかりなんだ。
私はそんな偽りの世界から逃げ出す決意をした。きっと来世は嘘のない世界に神様も連れて行ってくれるだろう。いや、もしかしたら神様も生まれる前の私に嘘をついてこの世界に送ったのかもしれない。だとしたら、もうなんでもいいや。何も無い暗いところでただ独りでいよう。
「君、何してんの?夜景でも見に?そんな所じゃ危ないよ」
突然、背後から呑気そうな男の声が聞こえた。でも私は振り返らない。聞いたこともない声だ。知り合いでもなんでもない。今の私は赤の他人に構うつもりなどないのだ。
「ねぇ?大丈夫?寝てるの?…あ、もしかして自殺?」
やめろ、と言われてもやめるような生ぬるい覚悟で私はこの場所に立ってはいない。この長い人生の中ずっと考えて考えて、今に至っているのだ。赤の他人がどうにもしようがないことくらいわかってもらいたいものだ。
「ね、自殺すんの?…奇遇だなぁ。おれも自殺するつもりで来たんだ」
その男の思いもしなかった言葉に私は思わず後ろを振り返ってしまった。
目が合った男は声のとおり呑気そうな顔で、パーマの入った少し長めの髪だった。しかし、淡い電球の光しか届かないこの屋上ではっきりとその男の全貌を確認することはできない。
「あ、よかった。美人だ」
「……いま、自殺するって言った?」
私は男のさっきの言葉を確認する。
「あ、今のね嘘だよ」
「……はぁ、あの、初対面の人に言うのも少し悪いかもしれないけど、私は嘘吐きが大嫌いなの。あっち行って」
「冷たいなぁ、初対面なんかじゃないのに」
「え?知り合いだっけ?」
その男はまた、嘘だよと言って舌を出した。
私はこみ上げてきた怒りをフェンスにぶつけた。ガシャン、とフェンスが音を立てて揺れる。
「こわいなぁ…おれはむう。よろしく」
「なに、むうって」
「おれの名前だよ」
「馬鹿にしてんの?というか、何しに来たの。止めに来たってなら無駄だからね。それにこれから死ぬ人によろしくするなんて馬鹿なのね」
男は、ひどいなぁ、とまるでまったくそう思ってないような笑顔を浮かべる。さっきからこの男はヘラヘラと笑っている。
「ここの夜景好きなんだよなぁ。だからいつも見に来てる。自殺者が出たら流石にもう来れそうにもないけどね」
「私には関係ない」
私がそういうと、その男はやはり悲しい顔もせずヘラヘラと笑っている。
「君は名前なんて言うの?」
「これから死ぬやつにそんなこと聞いて何になるの?」
また男は笑っている。一体何を考えているのだ。まぁ、別に気にする必要もないが。
私はフェンスを登って内側に降りる。
「あ、死ぬのやめてくれたんだ。なんか嬉しいな」
「べつに、やめたわけじゃない。人前で死にたくないって思っただけだし。日時と場所を変更することにしただけ」
そっかぁ、とか言いながらその男はまたヘラヘラと笑っていた。
私はできるだけ男に目を合わせないように横を通り、ドアに手をかけ中に入る。
その男は私のすぐ後ろをくっついてきた。それも階段を降りる時にも、廊下を進む時も、最後には私のマンションの部屋にまでついてきた。
「あんた、何のつもり?私を殺しに来たって言うなら今すぐ殺してよ。……なんで付いてくるの?」
「うーん、なんとなく。おれに行くあてなんてないし」
「わけわかんない。警察呼ばれたくなかったら今すぐ離れて」
「なんだよ〜さっきまで何とも言わず、付いていくこと許してくれてたのに。突然気が変わるなんてひどいなぁ」
確かに無視していたけど、そういうわけじゃない。単純に関わったらまためんどくさいと思っていただけだ。でも部屋まで付いてこられたら我慢もできない。
「呼ぶよ」
「まってまって、何もしてないじゃんか、何も悪いことなんてしないよ」
「がっつりストーカーしてますよ。それに赤の他人の言葉なんて信じられるわけない。まあ、他人だけじゃないけど…」
私はため息をついて、自分の足元を見つめた。
「頼むよ、まじで。帰る場所がないんだって」
人にお願いをする時でもこの男はヘラヘラと笑っていた。
「うわ、死ぬ前の人だから部屋も散乱してるんだろうなって思ったけど、そうでもないね」
「うるさい。黙って座っといて」
その男は私の言葉に従い、私の部屋のソファに座る。
私は結局この男を中に入れてしまった。お願い、と何度も言われたのはほとんど関係ない。単純にどうせ死ぬつもりだから、いちいち説得したり、警察呼んだりとか、めんどうなことをしたくなかっただけだ。それにこの男が危険だろうがかまわない。どうせ死ぬつもりだから。しかし、この男は私が快く家に迎え入れたと勘違いしているようだ。まだヘラヘラと笑ってソファに腰をかけている。
「あんたさ、なんでそんなずっと笑ってんの?」
「楽しいからじゃないかな」
やはり男は笑いながら、そう答えてきた。
まぁ別にどうだっていいか。
「そう。ところで名前は?」
「だからむうだって。というか、あれ?さっきはこれから死ぬやつにそんなこと聞いてとか……」
「うるさいわね。あんたがなんかしでかしたら、名前くらいわかっといた方が警察も捕まえやすいでしょ。それにそのふざけたやつは名前じゃないだろ」
「いや、そんなに正直に言われたら逆にほんとの名前なんて教えないでしょ、ふつー」
「言え。追い出すよ」
「わ、わかったって!おれはむう……違います。はい。聖也って言うんだ。聖なる夜に、漢文でよく使う〝なり〟って字の組み合わせで聖也。よろしく」
空中に指で自分の名前の漢字を書きながら答えている。
「聖也、ね。で、住所は?」
「だから、帰る場所なんてないんだって。それで、あんたは?名前」
「何が帰る場所なんてないだ。嘘吐き。私は姫奈。姫様のひ、奈良のな」
「あ、意外と素直に教えてくれた。へぇ〜、可愛い名前だなぁ。姫奈」
そう言って聖也は私の名前を何度か呟く。
私は自分の名前をあまり気に入っていなかった。だから可愛いなんて言われると逆に腹が立つ。
「自分でも可愛いって思ったこととかあるでしょ?」
それなのにこの男はさらに私の業を煮やす。
「出て行け、ばか」
「ご、ごめんごめん!そんなに怒るとは思っても……」
「思ってただろ」
聖也はまたごめん、と言って両手を合わせる。まぁ、どうせこんなやつが言うことをそんなに気にすることもないか。いや、誰の言葉もそうだ。もう、気にしなくていい。もう一生関わらないのだから。いや、その一生が無くなるのだから。
「あのさ、また怒るかもしれないけどさ…」
「やっぱり怒るってわかってて言ってんだ」
私は自分でも怖いと思うほどに聖也を睨みつける。聖也は少し慌てた様子でもごもごと、いや、その、などと言っている。私もそこまで冷徹ではないので、話くらいは聞いてあげることにする。
「で、その、姫奈さっき屋上いたよね」
「うんいたよ」
なんだ、何を言うつもりだ。というかいきなり呼び捨てで…。
「本当は、死ぬつもりなんて、なかったんじゃな…」
「出て行け、ばか!!出て行け!」
私は聖也が言い終わる前にそう怒鳴った。
私がキレたのが予想どおりだったのか、聖也は困った苦笑いでごめんごめんとあやまる。
困ってるのはこっちだ。最初からおかしい奴とは思っていたけれど、ここまで狂った奴であるとは。私ももう少し人付き合いの相手を考えるべきなのだろうか。今さらながら考える必要もないのだが。
聖也は相変わらずまだごめんごめんとあやまっている。
私はじっと聖也を睨みつけ、出て行けと連呼する。
しばらくして聖也が黙って俯いたので、私も黙り、二人の間に沈黙が漂った。
なんで出て行かないのだろうか。自分がどれだけ愚かなことを言おうとしたのか分かっていないのだろうか。それともまだ私をからかっているつもりなのだろうか。
すると、その答えを聖也が言った。
「出て行けって言われても、おれには帰る場所がないんだって」
「嘘つきも大嫌いって言ったよね、私。警察呼ぼうか?」
ごめん姫奈、と聖也がまたあやまる。まだ今日あったばかりだと言うのに、馴れ馴れしい呼び方をされると腹が立つ。名前なんて教えなければよかった。
ただ嫌がらせに来ただけなのかもしれない。でも、もう終わりを迎える私の心に嫌がらせの言葉なんてものは深く根付かない。
私は出て行こうとしないこの男をほったらかしにして、自室にこもった。ベッドに横になっていると、何気なくゆっくりと瞼を閉じた。
「ひな、今日は何して遊ぼうか」
「お城つくりー!」
砂場で遊ぶ2人の兄妹。2人は幸せそうな顔で砂をぺたぺたしている。
「お兄ちゃんはなんでいつも私とばっかり遊ぶのー?友だちいないのー?」
妹が無邪気な質問をする。兄は少し顔をしかめた後、笑顔で言う。
「ひなだっていつも兄ちゃんと遊んでるだろ?そんな言い方したらひなも友だちいないみたいに聞こえるよ」
「ひなには友だちいないもーん。お兄ちゃんがいるからいいのー」
兄は困った顔で うーん、と唸ってから妹の顔を真っ直ぐに見る。
「いいか、お兄ちゃんはずっとひなのそばにいれるわけじゃないだろう?」
「ううん、いるよー」
「いや、いられない時もあるんだ。そんな時にはひなをお兄ちゃんの代わりに支えてくれる人がいないといけないんだ」
「ささえてくれるひと…?」
「お兄ちゃんみたいな友だちだよ」
「変なのー。お兄ちゃんは友だちなんかじゃないよ。ひなのお兄ちゃんはお兄ちゃんだもん!」
兄は困った顔に微笑みを混ぜながら、そうかそうか、と頷いていた。
カーテンの隙間から差し込む光とともに、私は目を覚ました。
部屋から出ると、聖也はソファで寝息を立てていた。
時計は朝の6時を指している。最近は昼に起きることが普通だったため、久々の早朝だった。
昨日のやりとりのあと、私はどうしてあの時飛び降りなかったのだろうか、と考えていた。
もしかしたら、聖也の言った通りだったのかも知れない。そんな考えが脳裏をよぎった。
いや、ちがう。
私は騙されて生きてきた人生に絶望した。そして死を選んだ。あのときの苦しみはまだ消えていない。
死ぬことが怖くないわけではない。それでも、それ以上に生きていくことが怖い。
本当はひとりぼっちの人生だった。それを知った時から私は生きる意味を忘れた。
生きる気力を失った。
どうして、と問いかけても誰も答えてくれない。
まるで私のことはもともと気にしていなかった、ということを私に伝えるように。
やはり死ぬしかない。
考えるうちにまたその結論に至った。
私はできるだけ音を立てないように外へ出た。
爽やかな朝の風が吹いていた。
風が髪に絡まり、長らく切っていない髪を引っ張る。
その重みでバランスを崩して落ちてもおかしくはない。
ここに立つのは2度目だ。昨日は夜中で建物や車の光くらいしか見えなかったが、今は街並みが綺麗に見える。早朝であるにもかかわらずたくさん行き交う人や車が小さく見える。高層ビルや東京タワーなどよりも全然低いが、ここから落ちた人の命を奪うには十分な高さだ。
フェンスにつかまったまま、右足を上げてみる。左足だけで立った私はまさにこれから死ぬ人間としか思えないだろう。
強い風が吹いてきて、私は右足を元に戻す。
死ぬのは本当に怖い。
どれだけ人生に絶望しようと、もう一欠片の希望さえも失ったとしても、やはり怖い。
死ぬ時の痛みが怖いのだろうか、そんなのは死ねば忘れることだろう。
何かやり残したことでもあるのだろうか、あったとしてもそれはもう叶わないだろう。
私が死んだら迷惑を受ける人がいるだろうか、私は人に養われてしかいない。誰かを養ったり、誰かに愛を与えているわけでもない。私が死んだら多少の手間は両親にかかるだろうが、彼女らの人生を崩すほどでもない。むしろ、思い出の一片くらいにしか残らないだろう。
私はもう一人だ。孤立した存在なんだ。もう死ぬしかない。怖いけれど、何が怖いのかもわからないけど、この足を踏み出せばそれも時期に消えるだろう。
目を瞑って、息を飲んだ。
ふと、脳内に私の名前を呼ぶ誰かの声が響いた。
私はまだ誰かの差し出す手を望んでいるのだろうか。
そっと目をあける。
徐に後ろを振り返った。
「あっ……」
そこにはまた聖也が立っていた。
「姫奈!あと三日!あと三日だけおれに時間をくれ!!」
必死の表情で私にそううったえる聖也は、顔を真っ青に染めている。激しく息切れもしていた。
「どうして、赤の他人のあんたに、私の何を変えれると思ってるの?…調子に乗るのもいい加減にしてよね!」
朝の涼しい空気の中を私の声が響き渡る。
怒鳴る私を宥めるでもなく、聖也は俯いた。そして小さい声で言う。
「頼む。三日でいいから、頼む。三日だけでいいんだ、お前は死んじゃダメだ!!」
最後の言葉と同時に顔を上げた聖也は、泣いていた。
その顔を見て、私はただ呆然とするしかなかった。
まるで立場が逆になった気にもなる。
「どうして、昨日会ったばかりの私なんかを…助けようとするの?」
「三日あれば、きっと教えられる。だから、まだ死なないでくれ」
まるで聖也のほうが人生に絶望し、これから死ぬ人のように思える。
そのときの私はそれを、本当に私の気持ちになってくれているのだろうか、と思った。
今すぐにでも止める理由を聞きたかったが、それができず、私は黙る。
「頼む、姫奈。おれに時間をくれ。人生最後の時間を、頼む」
聖也は最後まで泣いていた。頬を伝って零れた涙が、顔を出したての朝日に照らされて輝いていた。
温かい朝日に照らされながら、薄らと涙を浮かべる。
そういえば、またいつもの夢を見た。仲のいい幼い兄妹の夢。あの日からいつも同じような夢を見ている。あの光景は私の望んでいたものであって、叶わなかった光景でもある。独りぼっちの私には。
「姫奈、そろそろお腹すいたなぁ」
そうだ、こいつがいたことを忘れていた。私が起きるまでずっとそこで見ていたのだろうか、聖也は私のベッドの横に座り込んで私の方を見ていた。
「はぁ〜…。あのね、昨日忍び込んだよそ者のくせに、なに馬鹿みたいなこと言ってんの?というか、さっさと出ていってよ」
そう言う私に聖也は笑顔を向けて、帰る場所ないし、とまたふざけたことを言う。
いや、もしかしたら私はホームレスの男に寄り付かれたのかもしれない。食い場所も寝る場所もないから、私にこうしてつきまとっているのかもしれない。
「じゃあ、あんたってホームレスかなんかなの?私にお金を恵んでください、とかも言わず食っちゃ寝するわけ?」
聖也は首を大きく横に振る。
「じゃあ、なんなの?もしかしてずっと私をストーカーしてたとか?それだったら本当に警察呼ぶからね」
「ストーカーって表現も悪くないかもね、ずっと姫奈を探して、追っかけてたから」
「呼ぶからね」
「違う違う、その…ストーカーってのとはちょっと違うっていうか……」
「じゃあ、なんなの?今すぐ答えて。御託はいいから」
呆れる私を前に、聖也は口をもごもごとさせている。
「もういいよ、それよりなんだっけ?ご飯?もうどうでもいいから勝手に冷蔵庫でも見てきたらいいじゃん」
私がそう言うと、聖也は喜んで一直線に冷蔵庫へ向かった。まるで私の家にきたばかりとは思えないほどまっすぐに冷蔵庫へ向かっていった。
聖也が何者なのかはさておき、私は聖也を追い出す方法を考え始めた。そのための一手はもうすでにうってある。それからのながれをどうするか、と考えていると。
「ねぇ、姫奈…冷蔵庫の中何も無かったよ…」
そのとおり。私の家の冷蔵庫には今は何も入っていない。自殺後、部屋を捜索などされていろいろみられるのは好ましくない。なのでまず食生活の発見場である冷蔵庫は空にしてある。
つまり、腹を空かせたこいつは、なにも食料をこの家の中で見つけることができないのだ。私の考えはまとまっていた。食べ物のないこの家で腹を空かせた聖也は何かを買いに外へ出る。そうしたら、あとは家の鍵を閉めてしまえば、もう私の勝ちだ。
「じゃあ、何か買いに行くしかないかぁ」
「はやくいってきなよ」
よし。これでやっと……。
「え、姫奈も来てよ」
「なんでよ!」
「だって、おれここら辺のこと全然知らないから、どこに買いに行けばいいかわからないし」
「じゃあ、スマホでマップ見ながら行けばいいじゃん」
「金がない」
「あんた、じゃあどうやってここまで来たの?」
聖也は、さぁ?っとニヤニヤしながら首を傾げた。本当に訳が分からない。一体この男は何者なんだろう。とりあえず腹が立つ男だということはわかる。それ以外は何も知らない。聖也は私のことを何か知っているのだろうか、それすらもわからない。
私の考えは失敗に終わった。聖也は私が外に一緒にでるまで、ここに居続けるらしい。私もお腹が空くのだから、どうせ買いに出るんだろう、と。
「死ぬつもりだったから、餓死でも悪くないかもね」
「いや、それは困るよぉ。姫奈の死体をおれはどうすればいいかわかんないし。警察にも真っ先に捕まるだろうしぃ」
「じゃあ、今すぐ捕まえに来てもらおうか?」
「いや、まって!それ脅しだけでも心臓に悪いからやめて!」
何を馬鹿な事を言っているのだろうか。脅しでもなんでもなく、本当のことを言っているのに。
「まずさ、なんであんたはこの家に居るの?はたから見たら本当に変質者だからね?私じゃなかったらとっくに捕まってるからね」
「姫奈だから来たんだよ」
また聖也は意味のわからないことを言って笑っている。本当に腹が立つ。でも結局、何故か私は聖也を振り払うことができなかった。
「財布、ちゃんと持ってきた?」
私は聖也の言葉を無視して歩く。
どうしてか、やっぱり私はこいつと一緒に外へ出てきていた。とりあえず最寄りのコンビニに入り、ちょっとした食料を集め終わった。
そのまま家に帰ろうとすると。
「ねぇ、姫奈って洋服もう古いよね。ちょっと買っていこっか」
「は?そんなのいらないし。どうせもう着ないんだから。それにあんた、買うのは私のお金だから」
「ごはん買う人が死ぬようには思えないけどね。やっぱりちゃんとした服じゃないと怒られちゃうよ」
「いや、食べ物はあんたが……怒られるって、だれに?」
聖也はニヒッと笑いかけてきて、そのまま服屋の方へ向かっていってしまった。
このまま帰ろうか、そう思っていたけれど、私はやっぱり聖也のあとを追いかけて歩き出す。
そうしていくつかの買い物袋をぶら下げながら、私達は店から出た。店が遠かったこともあり、時刻はもうお昼前になっていた。
「ねぇ姫奈、ちょっと近くでご飯食べてかない?」
「は?あんたね、食べ物買うためだけに外に出たのに、服も買って。挙げ句には食べて帰るって、やっぱりばかなんでしょ。というか、ここまで全て私がお金払ってるんだけど」
私は本気で呆れてそう言った。しかし、聖也はニヤニヤしながらこう言う。
「いいじゃんかぁ、姫奈は自称自殺願望者なんでしょ?気にすることなんて何も無いじゃん。あ、それとおれが一緒に帰ることは認めてくれてんだね」
早朝の態度とは一変して、私をからかう聖也に苛立ちを覚える。
「認めてない。というか、自殺っていうものをそういう風に使うとか最低じゃん」
私はさすがに限界になって、1人で歩き出した。聖也は慌てて小走りで私を追いかけてくる。
「姫奈って、」
聖也がまた話しかけてこようとするのを振り払い、私はさらに速く歩き出す。すると聖也は立ち止まり、少し大きめの声で私に言ってきた。
「姫奈ってさ、オムライス好きだよね?」
私はピタリと足を止めてしまった。オムライス、確かに私が小さい頃からずっと好きだった食べ物だ。でもそれは誰にも言った覚えはない。家族…くらいだろうか。なのにどうしてこいつがそんなことを。
「あんた、本当にストーカーだったの?」
私はスマホを取り出そうとしながらそう言った。
「違うっ!これには深い事情が…」
そう言って、また笑って誤魔化そうとする聖也に、私は少し怒鳴るように言った。
「そうやって、そうやって毎回誤魔化して、私のことは何も知らないふりしてて、本当は色々知ってて、そのくせに自分のことは何一つ話そうとしない。いいよ、私が思い出せないのが悪いんでしょ?あんたはきっと、過去に私と関わりがあったんでしょう?私が何も思い出せないから、思い出すまで待ってるの?そんなことしないではやく教えてよ!あんたは誰なの?何者なの?」
人通りは少ないとは言え、誰も通らない道ではなかった。何人かの通行人が、私たちの方へと視線をチラチラ向けてきていた。
なんて馬鹿なんだろう、私は。こんな場所で熱くなってしまっていた。恥ずかしい。
しかし本当にこの男は理不尽だ。それに見覚えなんてない。だけど、だけどやっぱりどこか知っている気がする。まったく知らない人とは思えなかった。それも、出会った時からずっと。
聖也は私の突然の怒鳴り声に戸惑いを見せながら、苦笑して言った。
「後で、分かると思うから、それまではまだ待っててほしい、な」
恐る恐るそう言う聖也を見て、私は熱くなったことを半ば反省しながら、そう。と一言だけ返した。
「姫奈ってやっぱり優しいよねぇ」
向かいに座った聖也が、オムライスをスプーンですくいながらそう言う。
「勘違いしないでよね。私の中では、今でもあんたはストーカー扱いだからね。あと、いそーろーって情報も追加してるから」
「ちょ、え…。いそーろー……」
「無自覚なの?人の家にごろごろして。人の金でご飯も食べて。この、いそーろーのヒモ男」
「なんか増えたよね?今また追加したよね??…というか、おれが」
「はいはい。というか、おれがここにいるのは意味がある、でしょ」
聖也はびっくりしたように目を見開いて私の方を見た。私もびっくりして同じ行動をする。
「え、なんで、わかったの?」
「……い、いや、わかんない」
なぜわかったのか、と言うよりも自然と言葉に出ていた。すると呑気な聖也は、さすが姫奈だね。なんて言ってニコニコしている。私は目の前のオムライスをすくって、口へ運んだ。
「ところでさ、姫奈」
「なに?」
「どうして自殺なんてしようと思ったの?」
「なんで今さら聞くの…。というか、こんな所ではやめて」
本当に今さらだ。私の自殺現場に遭遇してから、どれだけ時間が経ったか。なぜその間一切聞かなかったのか。まぁ、しかし、出会ってからずっと変だと思ってきたこの男ならおかしくはないのか。
オムライスを食べ終えた私たちは、少しだけ膨れた腹を抱えて店をでた。
そしてそのまま家へと帰る。私は今度こそ寄り道をしないと決めていた。どうやら聖也の方も、もう行く場所はないらしく、おとなしくついてきた。ただ、黙ってついてきたわけではないが。
「姫奈、さっきの話、家で教えてくれる?」
「うーん…たぶん」
私は前を向きながらこたえる。
こいつに正直に言ったとしても、何かが変わるわけでもないし、後悔するわけでもない。ただ、まだ誰にも打ち明けたことがないことだったから、誰かに聞いてもらうっていうのも悪くないと思っていた。でも、ろくでもない話だ。それを私となんの関わりもないこいつに言うなんて…。本当にそうなのだろうか、ふと私は歩きながら考え事を始めた。
そもそもあの屋上に聖也が来たこと。この近くに住んでいるわけでも無さそうなのに、どうしてあそこに来たのか。そして、私に声をかけ、今もこうしてついてきていること。ついてこさせている私も変ではあるが、そもそも知らない人の自殺現場で、あれほど冷静でいられるのだろうか。私だったら…と考えてみると、何だか自殺をしようとしていた自分を考えるのがいやで、やめた。
「ねぇ、聖也は私についてどれぐらい知ってるの?」
立ち止まって、聖也の方を振り返った。
聖也もそれと同時に立ち止まり、しばらく私の顔を見つけてから、ニコリと笑った。
「たくさん」
聖也が言ったのはそれだけだった。私はその言葉だけを聞いて、また歩き始めた。
聖也の笑顔に、なぜかよくわからない心地良さを感じた。最初はイライラしていたのに、今じゃ受け入れてしまっている。ほんの半日ほどしか共に過ごしていないこいつに、私は少しだけ心を開いていた。
「……へんなの」
「ふ〜、疲れたね。初めての街を歩くのはやっぱり疲れるよ」
聖也はそうため息をつきながら、我が物顔で私のソファに足を広げる。
「なに堂々とくつろいでんの。ここあんたの家じゃないからね」
「いいじゃん、もう一泊しちゃったし。今さらそんな気にすることでもないでしょ?」
「ほんっとに、ただのいそーろーでしかないよね。どこから来たか、とかもどうせ教えてくれないくせに」
呆れたようにそう言い放って、買ってきたものを冷蔵庫などに整理していると、胡椒やら、スライスチーズやら、ケチャップやら、買った覚えのないものが次々と出てきた。
「ねぇ、聖也」
「ん?どした?」
「あんた、何買ったか言ってみて」
私が少し圧をかけた声で言うと、聖也は呑気な声でこたえる。
「うーんと、卵、チーズ、胡椒、牛乳、それと……」
聖也の口から、私の手元にある食品の名前がほとんど出てきた。確か、お金はないって言っていたはずだが。
「どうやって買ったの?」
私の質問に、聖也はとぼけたようにこたえる。
「え、ふつーにレジ通して買ったよ?」
「違うでしょ。あんた、お金ないって言ってたよね?」
「あ……そう…だったね…。いやぁ〜ごめんごめん。あれ、うそです」
私は、笑って誤魔化そうとする聖也を睨みつけて、冷蔵庫のドアを勢いよく閉めた。
そして、あくどい表情をしながら、
「じゃあ、宿泊料も払えるよね?」
「これから自殺しようとしてた人がお金とるって…」
「あんたのせいで、もう気が失せたよ!」
「えっ!?」
「あっ……」
素直に驚く聖也と、口を抑えて驚く私。二人の間に少しの沈黙がおとずれた。
私は、自分でもなんでなのかわからなかった。あんな言い方をしたものの、聖也に心を動かされたという事実を思うと、急に恥ずかしさが増した。先程まで強気だった私は、いつのまにか肩の力が抜け落ちている。そんな私に聖也は、
「よかった、姫奈も死んだらどうしようかと」
「うるさい。あんたが昨日から……え?」
聖也の言葉に違和感を感じた私は、目の前の聖也に視線を向ける。
「私、も?あんたって、もしかして、死神とか?」
そんな私の素の言葉に、聖也は声を上げて笑った。
「なにそれ、姫奈もおもしろいこと言うじゃん」
「うるさい!じゃあ、どういう意味?」
聖也は笑いながらこたえてくる。
「いやいや、誰かが死んだのを見たっていう意味じゃないよ。それにしても、さすがに死神は……」
「うるさい!じゃ、どういう意味なの?……どうせ、教えてくれないんでしょ」
私が諦め気味にそういうと、聖也はいつもと違って、こたえてくれた。
「…人って、誰だって最後には死ぬじゃん」
「ばかみたい」
私は聖也の言葉をそこで切って、少し勢いを付けて立ち上がった。そのまま冷蔵庫の方に向かい、飲み物を取り出す。
「あ、おれのお茶もお願い」
「自分でとれ」
そう言いながらも、私はお茶を二本取り出す。そして、そのお茶を聖也に投げ渡した。水しぶきをあげながら、ペットボトルは、聖也の手の間をすり抜け、聖也の額へと直撃する。
「いって!」
「…………まじか」
ださい。かなり遅めに投げたつもりだったが。私は笑いよりも呆れが前衛に出てしまい、蔑む目で聖也を見下ろした。
「今のは、ださかったね」
聖也はぶつけた額をさすりながら抗議してくる。
「い、いや、だって!自分でとれっとか言っときながら、いきなり投げてくるってどうよ?まぁ、でもありがとう。ツンデレ姫奈ちゃん」
聖也はニコニコしながら私を挑発してきた。
「取ってもらった分際で!!」
私はもう片方のペットボトルを振り上げて聖也を脅す。
「わぁ!いや、や、やめてください!!!」
「ふっ…」
慌てふためく聖也を見て、私は小さな笑みをこぼしてしまった。
「あ、今、姫奈が」
「おい、それ以上何か言おうとしたら、このお茶がそのまま…」
「ごめんなさい!言いませんから!ごめんなさい!!」
必死に謝る聖也に妥協し、私は振り上げていたペットボトルをおろした。すると、聖也は、ひひっ、とわざとらしく笑った。
結局、二発目のペットボトルが聖也の額に直撃した。
その日の夜、私は、晩御飯に聖也が作った料理を平らげ、黒に包まれたベランダの窓をひとりで見ていた。そこには部屋の景色が反射し、質素な私の部屋と、疲れた顔の私がうつっている。昨日、自殺をしようと決断したのも、この窓を見てからだった。その時にうつしだされていた私は、ただ、とてつもなく暗い顔をしていた。しかし、今こうしてうつしだされている私は、どこからか少しだけ光が差し込んでいるような顔をしている。それでもまだ、曇りなく晴れている快晴模様などとは果てしなく遠い顔である。後ろの方から水の流れる音が聞こえる。聖也が食器を洗っているのだろう。水の音は時に途絶え、時に一定で、時に激しく、また弱々しく、そして時に違う音をたてている。水という変わらない物質にたいして、音という変わり続けるエネルギー。この二つの要素の調和によって、今私は雰囲気というものを感じ取っている。昔から神秘的なものというのが好きだった。それも自然によって奏でられる、神秘的なシンフォニーが好きだった。自然はあるがままで、決して裏切らない。嘘もつかない。私にとって、孤独の私にとって何よりも信頼できるものだった。自分も人間の一員であるくせに、その人間という部類を嫌い、人間には手も足も出すことができない、自然の世界を私は好んでいた。人は自然と違って、平気で裏切る。うそをつく。そして見捨てる。生命という、かけがえのないものをいただいている身のくせに、とても卑怯で、醜い生物である。しまいには、それを思考のせいにする。考える力をもった自分たちを崇めつつ、その考える力を否定している。本当に自己中心的な生物だ。どうして私は人間として生まれたのだろう?どうして人間は生まれてしまったのだろう?そんな哲学者のようなことをいつも考えていた。そして、その答えはいつも曖昧のポケットの中に沈んでしまって、いつしか見えなくなり、忘れてしまっている。
目の前の自分を改めて見つめる。自分を見ると、どこか落ち着かない気持ちになってしまう。心がそわそわとしてしまう。でも、原因はわからない。いつかこの答えもわかるのだろうか。それとも、曖昧のポケットの中に沈みこんでしまうのだろうか。今のところ、その答えはどうでもよかった。
「なにぼーっとしてんの?」
食器を洗い終えたのか、背後から聖也が突然話しかけてきた。対して、私は驚かない。なにせこちらに向かって来ている時から、窓越しに見えていたからだ。窓にうつる聖也へと視線を向け、
「なにも、ただぼーっとしてるだけ」
私はそっけなくこたえた。ふーん、と返してきた聖也は、当たり前のように私の隣に座った。
「そういえばさ」
と、聖也が話を切り出す。
「姫奈は仕事やめちゃったの?それとも、休みとってるとか?」
「……話したくない」
そんな私に、窓にいる聖也は口を尖らせてみせる。
「……私、販売店で働いてるし、店員も店長と私ともう一人の三人だから、無断で休んでる」
私は少し寂しげにこたえたつもりだったが、聖也は無駄に大きい声で感嘆する。
「へぇ〜、三人きりで経営してるのかぁ。すごいね。でも、無断はだめだよ、無断は。三人なんだから、残ったお二人さんはとても困ってるんじゃないかな」
「そんなこと、ない」
私は、表現できる限りの最大の不快感を顔に表す。そしてゆっくりと話し始める。
正直、今の職場は好きではない。もう、職場と呼べるかはわからないが。男の店長と、もう一人の店員である女性の先輩、そして私。店長は、フワフワしてそうな顎鬚を生やし、髪の毛も同じくフワフワの黒髪で、一概に言うと気が良いおじさん。先輩は顔立ちがとてもクールで美しく、肩より少し下までの長い艶やかな黒髪がとても似合う。それに相反して、とても元気で常時笑顔な人だ。二人は開店当初からともに働いているのだが、私は開店から二ヶ月くらいあとで店長に雇われた。バイト先を探して、街の広告を見ていたのだが、店長はふいに声をかけてきて、バイトならうちで働かないか?なんて私に微笑んできた。私は正直、お金が貰えればそれでよかったので、迷うこともなく歓迎してもらった。当初の私はバイト先、という予定だったのだが、店長はその時点ですでに正社員として私を見ていたらしい。働き始めて間もない時は、店長や先輩にいろいろとアドバイスをもらって、少しずつ成長していき、それとなく充実していた。店は意外と売上は良く、収入も安定していた。だから私は安心してそこで働くことができていた。私は店員として良く成長し、店長に褒められることも多々あり、ときどき食事なんかに誘われる時もあった。『食事』と上品げには言うものの、その場の雰囲気や店などから称して言うと『飲みに行く』のほうがしっくりくることには目を瞑っていよう。しかし、そんな働くことの楽しさを知り始めたある冬の日、私は人生を左右するほどの出来事に遭う。
その日は、いつものように仕事を終え、帰り際に、店長に今晩の食事に誘われていた。店長が少し先に帰って、商品の整理を先輩とともにしていた時のこと。
「ねぇ、渕川さん」
「はい?」
私はその先輩に苗字で呼ばれていた。
「お願いがあるの」
先輩は真剣な顔で、私をじっと見てくる。突然のことに私は少し動揺していた。
「えっと…どうしました?」
私がそうきくと、先輩は少しの間黙って私を見つめたままで、何か言うのを躊躇っているようにも思えた。
「あのね、店長との食事、今日は断ってほしいの」
「え?…どうしてですか?」
私の言葉に、先輩は少し困ったような顔をした。
「実は、やってもらいたい仕事があって…それが今日中のものだからさ、私は外せない用事があるの」
「あ、お仕事ですね、それなら仕方ないです。やっときますよ」
「ありがとう、とても助かるわ」
先輩はそう言うとニコッと笑って、それじゃ、と続ける。
「店長にごめんなさい、って電話しちゃって」
「え、あ、今ですか?」
「ん?そうよ」
後からでも、という言葉が出そうになったのをこらえて、はい、と頷きながらポケットのスマホを取り出す。
私は先輩に疑問を抱きながらも店長に電話をかけた。電話越しの店長は、少し落胆していたものの、あっさり了解してくれた。電話が終わった後、先輩はまたニコッと笑って、
「じゃあ、仕事のことね、商品の仕入れをお願いしたいんだけど」
「あ、仕入れですか」
なんだ、そんなことか。とか思いながら、私はその仕事を引き受けた。仕事の内容を伝え終えた先輩は、すぐに店を出てどこかへ行ってしまった。
ふぅ、と小さな息をつき、重ねられたいくつかの注文書と職場のパソコンの前に座る。インターネットで商品を注文するだけのただ短調な作業はそんなに時間もかかりそうになかった。
案の定、注文は書類上のものはすべて終わり、私はチラリと時計の針を見る。時刻は7時半過ぎ。店長との待ち合わせは8時頃であったから、今からでも間に合わないことは無い。しかし、小一時間前に断ったばかりだ。今さら、とは思ったものの、店長の器の大きさに頼って私はもう一度電話をかけてみる。だが、スマホからはコール音だけが鳴り、誰かが出る気配もない。私は諦めてその日は家に帰ることにした。人付き合いをこれまであまりしてこなかった私にとっては、食事が一回潰れるくらいどうってこともなかった。
店の戸締りを行い、裏口から出て鍵を閉める。鍵はここで働く私達二人にもスペアを渡されていた。なので全員ここの鍵をそれぞれに持っている。店の外に出ると、思ったよりも外の空は真っ暗で、肌に冷たい風が吹き付ける。その反面に、街中はイルミネーションで彩られ、人々も街も、まもなく訪れる冬の一大イベントを楽しみにしているように思える。そんな無駄に明るい大通りを、私は一人でとぼとぼと歩いて帰った。
次々にすれ違う人たちを横目に見ながら、誰にも聞こえないように小さくため息をつく。歩いている人々はどこもかしこも若者のカップル達。また一つため息をつく。私は若者のカップル達を見て、少しだけ思い出を掘り返す。かといって、良い思い出でもないのだが。もう既に別れた彼氏、そいつとの思い出は何もかもが最悪である。裏切られ、裏切られ、裏切られ続け、そして捨てられた。思い出すだけでも鬱になる。そんな気分で冬空の下、私はだんだんと歩むスピードを上げていった。
翌日は休日で、家で静かに過ごしていた。店長からの電話が朝の8時頃にあっただけで、それ以外は特に何も無い一日だった。
そして迎えた月曜日、私はいつも通りの時間に起き、いつも通りの準備をし、いつも通りの道を通って、いつも通りの店にむかった。しかし、ついた先はいつも通りの店とは違っていた。場所を間違えたというわけではない。店長の雰囲気が明らかにいつもと違ったのだ。
「おはよう、姫奈」
「おはようございます」
いつもよりトーンの落ちた店長の挨拶を気にかけながら、私はいつも通りの挨拶を返す。いつもならこの後、今日もがんばれよ、と肩を軽くたたいて行く店長であったが、今日はやはりいつもと違う。挨拶を返した私を一瞥し、ゆっくりと唇を動かす。
「姫奈、一昨日は珍しく姫奈が仕入れしてくれたんだよね?」
一昨日、先輩に頼まれて初めてやった仕入れ。そのおかげで店長との食事に行けなかったわけだが。もちろんのこと、私は素直に頷く。
「ちょっと、これを見てくれるか?」
店長はそう言うと、新しく届いたのであろう商品たちを私に見せた。いろんな種類のものがある。昨日はほぼ無意識的に作業を行っていたから、何を注文していたかを今改めて知った。
「えっと…注文品、ですよね?」
「そうだな」
と店長は届いた品々を見ながら言う。
「わからないか?……これほとんどうちの店で扱うものがないんだけど。それに、不足分のものとかが一切無い」
店長の言葉に私は驚いた。そして、ダンボールに入った商品もどきを何度も何度も見る。
「あ、あの!すいません!今すぐ返品を……」
「もう一個言い忘れたけどさ」
店長は私の言葉を遮って言う。
「これ、発行元がいつもの所と違ってて、その上返品不可らしい。さっき調べたらそんなことに。いや、変な所に注文したもんだな」
私は言葉が出なかった。確実に取り返しがつかないことをした。確実に店長は機嫌を損ねている。大きすぎるくらいの器にひびが入り始めている。
いや、まて、私は確かにこれらを注文した。しかし、それは全て注文書の通りにやったことだ。なぜそんな注文書がこの店の中に?
私は慌てて店長に説明した。注文書通りの会社に、注文書通りの商品を注文したのだと。その時、注意して商品などを見ていなかったことも付け加えた。その上、私は仕入れが初めてということも店長は知っていた。
そして、その例の注文書取りに行った。が、置いていたはずの注文書が無い。店長に聞いても、来た時から無かったという。そんなはずはない。確かにここにそのまま置いていたはずだ。そして、ふとある人物を思い浮かべる。それと同時に彼女は店に入ってきた。
「おっはよーございまーす」
いつも通りの挨拶。いつも通りの時刻。いつも元気で明るい先輩は、店長と違って特に何も変わった雰囲気はない。ただ、少しだけいつもよりその元気さが増している気もした。
「あ、おはようございます、先輩」
「おー、おはよう優香。昨日はありがとうな」
「いえいえ〜」
店長は私達二人のどちらも下の名前で呼ぶ。店長はいつも通りの挨拶を先輩に返した。いや、昨日はありがとうな、というのは聞き慣れない。いったいどういうことだろうか、とは思ったものの、二人の話にづかづか入り込むような勇気は、生憎私にはない。それに、そんなことよりも優先すべきことがあった。
「あの、先輩」
「ん?どしたん?渕川さん」
「ここにあった書類って、どこにあるか知りませんか?えと、一昨日の注文書のやつです」
「んー、ごめんわかんない。そもそも私今来たところだし」
そう言って先輩はニコッと笑顔を私に向ける。
「わかりました。すいません」
確かに今来たところだから、先輩が知るはずもないだろう。だが、少し引っかかる。ならば、注文書はどこに行ったと言うのだろう。一昨日は確実に鍵を閉めて出たから、この三人以外が店の中に入るということはありえない。泥棒なんかが入ったと言うのならば、それなりになにかが荒らされていたり、窓とか、どこかが破壊されているはずだろう。しかし、店内は何一つ変わりもない。ただ、注文書だけが無くなっていた。注文書だけを盗むような人がいるだろうか?それにあの注文書はもともと正しいものではなかったし。このような状況となり、私はただ率直に、先輩を疑っていた。一昨日、私に突然仕事を代わらせた張本人。そして、注文リストはそこにあるから、と机を指さしたのも先輩。まるで、私を陥れたとしか思えなかった。しかし、もちろんそのようなことを口にする勇気などない。それに、私は先輩のことは嫌いではなかったので、自然と自分の中の疑いを否定したい気分にもなっていた。
「あ、そうそう優香、姫奈がこの通りミスっちまったから、仕入れし直しといてくれ。金の方は何とかしないといけないし、このミスのやつも売ってみるしかないな」
「了解で〜すっ」
「ごめんなさい、店長…」
私は例の注文書が見つからない限り、ただ店長に謝るしかないと諦めがついた。どうしようもないことは本当にどうしようもないのだから。
その後、私は自分のミスを何度も何度も店長に謝った。不幸中の幸いに、注文量がとてつもなく多い、などということはなかったので、店長は私に次はしっかり頼むぞ、と優しく許してくれた。
それから、お昼の休憩の時間となり、私はまた今回のミスについて考えていた。するとある疑問が浮かぶ。あの注文書が偽物だったというなら、本物はどこにあるのだろうか?今さら気づいた自分に呆れながらも、私はすぐ行動に出る。
「あ、あの……」
「ん?どした、姫奈?」
「あ、えっと、一昨日の……その、食事断っちゃってごめんなさい」
私は店長に一昨日のことを言いかけた瞬間、思いとどまった。それを誤魔化すために食事へ行けなかったことを話題に出した。
「あ〜、いいよいいよ仕方ないじゃん、仕事してたわけだし。まぁ、ミスはあったけどね」
軽く笑いながら言う店長に、私はすいませんと頭を下げる。そんな私を店長はニコニコしながら慰めようとする。
「いいよいいよ、だから気にすんなって。初めてだったんだろ?今回のことでしっかり学んでくれればいいさ。それに飲みの方は優香が付き合ってくれたし」
「へ?」
店長の最後の言葉に驚き、思わず素の声が出てしまった。
「ん?どう…」
「あ、あぁ!いやいや!何でもないです!じゃ、じゃあ昼ごはんいってきますね〜」
店長の言わんとする言葉を遮って、そそくさにその場を立ち去ろうとする私を見ながら、店長はニヤついていた。嫉妬しているのか、と言いたげな顔の店長に、違う!と大きな声で否定したかったが、その勘違いに救われている今、私は弁解のチャンスを見逃すほかなかった。ニヤつく店長を尻目に、私はその場から立ち去る。自分の弁当を買いに外へ出ると、ちょうど先輩が買い終えたのか、すぐ近くのコンビニから出てきた。先輩もそうなのかは知らないが、弁当を作るのが苦手な私は、いつも店のすぐ近くのコンビニの弁当にお世話になっている。目の前から歩いてきた先輩は、弁当の入ったレジ袋を持っていない方の手を私に振りながら、笑顔で、
「ごめんね?今日のこれ、ラストだった。いひひ」
先輩はそう言ってぶら下げていたレジ袋を私に見せつける。これ、とはそのコンビニのオムライスのことである。先輩は何かとそのオムライスを好んでいて、売れ残っている時はほぼ毎回のごとく買ってきていた。同じくオムライス好きの私も、毎度それがあるかないかを少し楽しみにしているところがある。それが最後の一個だったという報告を聞いた私は、本来なら大げさに落胆していただろう。しかし、私は本来のように落胆をあらわにすることが出来なかった。
「あ…そ、それは残念!です…」
「あれ、思ったよりも落ち込まなかった」
そう言って先輩は声を出して笑いながら、私の横を通り過ぎた。私はそんな先輩の後ろ姿をチラ見し、少し早足でコンビニの中に入った。
コンビニに入るとすぐ、自分の心臓がバクバクと鳴っていることに気づいた。入り口の前でゆっくり一呼吸をし、店内を歩く。そんな私の脳内は、店長のさっきの言葉と、先輩のこととでいっぱいだった。
店長の言葉、一昨日は私の代わりに先輩と食事に。私は先輩の代わりに仕入れを。そしてミスをする。店長は私が先輩の代わりに仕入れやった、という訳でもなく、ただ単に私がやった、珍しい、で完結している。つまり、先輩が私に仕事をやらせた、ということは知らない。考えればわかりそうなものの、まぁ店長だから、と割り切る。それよりもおかしいのは、先輩の行動。私に用事があるから、と仕事を頼んできた先輩は、本来私が行く予定であった店長との食事に顔を出している。仕事に取り掛かる前に、先輩が私に電話をかけさせたのも、これと関係があったのだろう。なんとも大胆過ぎる手口だ。それに、あまりにも酷い仕打ちだ。そして、その仕入れの仕事にはミスの書類が添えられていた。あの偽の注文書のことに関して、私はもう、先輩を疑わざるを得なくなっていた。
ここで私は店長に言いかけた本物の注文書の行方のことを、言わなくてよかったと心底喜んだ。あの偽の注文書を作ったのが先輩であるならば、本物の注文書は彼女が持っているに違いない。開店中、先輩と私は常に店内の品の整理か、カウンターの対応におわれている。つまり、先輩は仕事が終わった後に本物の注文書で、本物の仕入れを行う。店長にもしこのことを話していたら、私が本物を探していることがはっきりと先輩にも伝わり、先輩に警戒されるだろう。まぁ、かといって今の状況でも警戒されないことはないだろうけれども、警戒度はまだマシなはずだ。店長に言いつけて、店長の権力を使って本物の注文書の場所を先輩に吐かせるのもありだが、やはり私に三人の関係を掻き乱すような勇気など備わっていなかった。つまりこれで、この後の私のすべきことはただ一つ、先輩が仕入れをし始める瞬間をその目でしっかりと確認することだ。さっきも述べた通り、私は勇気がない。だから、その一部始終を目に収めたとて、先輩にその場ですぐに問いただすつもりは全くもってない。ただ、真実を知ることが出来ればそれでいい。
今日は弁当ではなくおにぎりなどの軽食をいくつか購入して、コンビニを出た。
午後からは細心の注意を払いながらすごした。先輩に勘づかれないよう、警戒心を煽らないように、と気を付け続ける。警戒心を持っている相手を逆に警戒している。精神的な疲れが半端じゃなかった。しかし、ヘタレるわけにはいかない。まぁでも、先輩の手口はもともとから大胆過ぎていたから、私はなんとか先輩の警戒心を刺激することなく仕事を終えた。
店のシャッターを降ろすと、そこは外界から隔たれた空間となる。店長は今日も先に帰り、店に残っているのはいつも通り、私と先輩のみ。私達は二人で店の戸締りをしている。私はできるだけ先輩から離れないように気を付けながら、好機をうかがう。
戸締りが終了し、店内の奥の個室へと二人一緒に入った。私は荷物等の整理をしながら、できるだけ先輩から目を離さないようにしていた。
「ふぅ〜、渕川さん今日もおつかれ〜」
「おつかれさまです」
挨拶一つに緊張してしまう。しかし、それもあと少しだけのことだ。もうすぐ先輩は再仕入れの作業に入るだろう。その時に取り出す、本物の注文書を、取り出し場所を確実に見届けなければならないのだ。
先輩がパソコンの前に座った。そして、その机の引き出しに手をかける。なんとあからさまに、かつ大胆過ぎる。本物の注文書はそんなにわかりやすい所に置いていたなんて。
先輩は引き出しを引き、中身を確認する。そして注文書を……取り出すことなく、先輩は引き出しを閉じた。そして、下の段の引き出しを引く。しかし、そこでも同じように中身を確認した後、何も取り出さずに閉じた。もしかしたら、と思った瞬間。
「渕川さんここにあった紙知らない?」
そういいながら先輩は私の方を見てきた。先輩と目が合い、私は思わず逸らそうとする視線を留まらせる。確実に想定外のことだった。
「え、いや、私はその…一昨日先輩がパソコンの上にある書類が注文書と聞いていたので、それしか知らないです」
「そっか」
私は背中に冷汗が服に滲む感覚を覚えた。先輩はまた同じ引き出しを引いた。最初は一番上に置いていたつもりだったのだろう、今回はいくつか重なった紙を漁り始めた。しかし、本物の注文書は姿を見せず、先輩は眉間に皺を寄せながら首を傾げている。何処になおしたか、自分の記憶を探っているのかもしれない。私は身動きとれず、じっと先輩を見ている。
「どうしたの?渕川さん」
しかし、すぐに先輩の言葉が私の硬直を解いた。
「あ、なにもないです。それより見つからないんです?」
「うーん、だねぇ。どこやったっけなぁ…」
「えっと、じゃあ昨日の書類は……」
私のその言葉は小さ過ぎたのか、先輩の耳に届く前に、あっ、と言って立ち上がる音に掻き消される。先輩は立ち上がって自分のバックの方へ向かう。そのまま中を漁り、一つの書類を取り出した。
「あったあった」
と言ってることから、その書類が本物の注文書であると私は確信する。大胆過ぎる。あまりにも大胆過ぎる先輩の行動に、私は言葉を失っていた。
私に偽の注文書で注文を行わせ、本物の注文書を堂々と私の前で取り出した。それも自分のバックの中から。私はお腹のあたりから急に喉元まで何かが込み上げてくるのがわかった。それが何だったかはよくわからない。言葉なのか、あるいは感情なのか、それとも何か違うものなのか、私は今もわからない。ただ、その何かを私は必死に抑えて、吐き出そうとはしなかった。そして無言のまま荷物を持ち、店を出た。先輩に挨拶することもせず、その場を立ち去った。先輩は私の後ろ姿を見て驚いていただろうか、それとも笑っていただろうか、私には知る由もないことだった。外に出ると急に体が熱くなり、私は勢いよく扉を閉め、足早に家の方へと向かった。
次の日、私は仕事に行かなかった。その次の日も行かなかった。その間、私のスマホは店長からの不在着信の電話と、未読のメールともう一つ違う宛先からのメールとで埋まっていた。
二日前の先輩の姿。四日前の行動。店長と楽しむ先輩。それらが私の脳裏に浮かび、なかなか消えてくれない。油断すると手足は小刻みに震え始める。人生のうち、何度も何度も裏切られてきた。そんな私の精神は、常人と比べ物にならない位にか弱い。そのか弱い精神を引き裂かれ、私は今にも崩壊しそうだった。
それから数日が経ち、私は未だに職場へ顔を出せずにいた。家の中に閉じ篭り、ただ時間が過ぎるのだけを待つ。思えば日光をもまともに浴びていない。カーテンを締め切った部屋は、電気もつけられておらず、夜間は真っ暗である。日中、辛うじてカーテンの隙間から入り込む日光は、室内を淡く照らすのだが、私の視界はずっと暗かった。視界に光が入り込むのを拒んでいた。店長からの着信もいつしか聞こえなくなり、私はただただ時間を過ぎるのを待つ。
そんな時、突如におとずれる感覚。それは空腹。何か特別なものでもなんでもない、ただの空腹感。生理的現象に打ち勝てない自分の愚かさを嘆く。そのまま餓死を選ぼうとする思考に相反し、私の身体は毎度のごとくエネルギーを求め、冷蔵庫へ歩み寄る。しかし、その日の冷蔵庫には、私の求めるものは入っていなかった。もう無くなっていた。この数日の間、ほんのちょっとずつ食い繋げながら過ごしてきた。しかし、もともと多くはなかった食料は底を尽き、室内に残るのは私の空腹感だけ。買いに行かないと。私はただその空腹感だけに身を任せ、外へ出る。
食べて、寝て、食べて、寝る。生物としての超基本的な行動、ただそれだけをしている私はもはや人間のようには思えなかった。だが皮肉にも、その肝心な食料の集め方はいたって人間じみている。
外に出ると、明るい陽射しが私を迎え入れる。数日間ほぼ動かしていない私は、ふらふらとした足取りで歩みを進める。空いた腹を満たすためだけに歩みを進める。車道を走り抜ける車の音、遠巻きに聞こえる人々のざわめき、そして地面を小突く私の足音。どれもが聞き慣れたもののはずなのに、何もかも自分からかけ離れたもののように聞こえる。視界はまるで周りに靄がかかったように暗い。そんな不安定な足取りで、私はなおも歩む。感情を失った人間、空腹な身体の欲するままに動く私、それはもはや人間といえたものであろうか。
仕事に行かなくなった初日はまだマシだった。時間が経てばやがて気も変わるかもしれない。そんな風にも考えていた。しかし、日を重ねる度、私は私自身の心を閉塞し始め、密閉された心を自分自身で傷つけていた。あらぬ妄想、極限にネガティブな考え、自分はこの世界にいらないんじゃないか、そんな思いが脳内でこだましていた。時が経つ度、それは数を増やし、たった数日で私は身も心も病んでしまっていた。自分にこれほどネガティブだったのも、きっと歩んできた人生のせい。裏切られて、裏切られて、裏切られてばかりだったから、今回のことで極限に達した心の盾が破壊され、負の感情が心を侵食し始めたのだ。盾が壊れたあとの心はあまりにも脆い。すぐに侵食されてしまう。そしてやがてその感情さえも抜けてしまい、今の私に至ってしまった。
頬にやけに冷たい空気がぶつかる。そうだ、今は冬だったか。そんなことも忘れていた。でも、どうでもよかった。食べ物のみを求めてさまよう私の身体は、やがてコンビニにたどり着いた。店内に入ると、靄がかった視界に店員の姿が薄らと移り込む。その目はどのようだっただろうか。私を不快な目で見ていただろうか、哀れみの目で見ていただろうか、それとも見てさえもいなかっただろうか。どうでもいい。ただそれだけしか思えない私には知る由もない。
求めていた食料を手に入れた私は、ふらふらと外へ出る。道行く人は視線こそ向けるものの、何か行動をとろうとする人はいない。視線だけを私に突きつけ、歩き去る。実際、私がその視線を感じているはずがなかった。靄がかった視界では、そもそも通行人の姿もあまりはっきりとしない。私の中に小さく残る負の感情が、周りの視線を意識的に妄想していたのだろう。
しばらく歩いているうちに、私は靄がかった視界に、ふと違和感を感じた。はっきりと見えない視界の中に、一つだけ、いや、二つだけはっきりと見えるものがあった。ものというより人だ。それは見覚えのある人だった。くっついて歩く二人。何度も見慣れたその二人。数日前まで一緒だった二人。今も尚、私のことを心配しているのかもしれないと、削られ過ぎて小さくなった心の奥底で、そう信じていた。しかし、その小さな期待さえも、裏切られてしまった。二人はとても楽しそうに、まるでカップルのように、いや、もはやカップルだった。店長と先輩。その二人が笑いながら私の視界の中を横切っていく。手を繋ぎ、何かを話し、楽しく笑っている。やがて二人の姿は建物によって、私の視界から遮断される。そのとき、私に久しぶりに感情が戻った。しかし、それは全て負の感情。怒り、苦しみ、悲しみ、憎しみ、そんな負の感情に心が支配される。そしてその中にあった、悔しさ、の感情が私を動かす。
自分の部屋へと戻り、二人の光景を思い出す。そして、思う。いつか必ず復讐をしてやる、と。ただただ悔しかった。突き放された、裏切られた、それでいて何も出来なかった自分が悔しかった。その悔しさを抱きながら、私は……
私はそれでも、何も出来なかった。復讐を決意しても、簡単にその決意は揺らいだ。何かをすることも出来ず、ただ来るはずのないチャンスだけを伺い、数ヶ月を過ごした。
私は自分の無力さを実感した。何も出来ない。何かをするのが怖い。そんな自分が怖い。そして、生きることが怖かった。
数ヶ月後、私は自殺を試みる。
そしてその自殺は失敗に終わった。
結局聖也に全部話してしまった。
「なるほど、ね。姫奈にはそれだけ辛いことがあったんだね」
聖也が自分の顎を触りながらそう呟く。
「わかったような口聞かないで。あんたみたいなただ笑うだけで生きているようなやつに、私の気持ちがわかるはずもないでしょ」
私は話し終えた内容が内容だけに、少し気が立っていた。
「そりゃまぁ、人の気持ちを完ぺきにわかる人なんていないよ」
聖也が、もっとものように聞こえるが、少しずれている発言をした。それにまた私は腹を立てる。
「はぁ…そういう意味じゃないって、言わなくてもわかるでしょ?ほんと、ムカつくやつ」
「あ、バレてたか。てか、その前になんだって!?おれがただ笑うだけで生きているやつなんて言った?」
「言った。笑うだけで何でも誤魔化せる、何でも何とかなる、とか勘違いしてるクソ野郎」
私の暴言はだんだんとエスカレートしていく。
「ちょ、ちょ、待ってよ!クソ野郎って!それに…」
「それに?否定でもできるの?嘘つきヘタレ」
「いや、まぁうん。言ってもあんまり意味なさそうだからやめとく」
「やっぱりヘタレ」
私の吐き捨てた言葉にまだ食らいついてくる聖也を無視して、私は自室に駆け込んだ。さすがにそこまでは付いてこなかった。変わりにドアの反対側で未だに何かを抗議していた。私は誰もいない部屋でクスッと笑いをこぼす。まるで、誰かに見られた気がして、すぐに笑っている顔を真顔に戻す。
聖也に会ってから、何度も感情を揺さぶられている。まだ出会って数日しか経ってもいない。聖也に何か信頼できることがあるとか、そういうことも全くないのに、私は聖也といると何かと心が豊かになっていた。負の感情に支配されていたはずの心が、屋上で出会ったあの時から、うずうずと動いているのだ。何でかはもちろんわからない。でも、原因は確実に聖也であるとわかっている。ただ腹が立つことばかりなのに、いや、その腹が立つということも数日前まではほとんどなかった。とにかく、聖也の外部からの横入りが、私の心を動かそうとしているのかもしれない。
いけないいけない、と言い聞かせ、すぐに哲学的なことを考えようとする脳を自制した。
歩き疲れたのか急に眠気が襲ってきて、私はベッドに身を預けて瞼を閉じた。
「お兄ちゃん、これほしい〜」
「だめだよ、姫奈。大人になって、お金を稼げるようになってから」
「えぇー」
幼い兄妹が街道に並ぶショーウィンドウを眺めながら話をしている。
少女がショーウィンドウの内側の洋服に指を指して、兄にダダをこねているようだ。
「それにひな、これ大人の服だよ。ひなにはまだ大きくて着れもしないじゃん」
兄が妹を説得すると、妹は拗ねたように口を尖らせた。兄が妹の手を引き二人はその場を立ち去った。
二人は一軒の家の前に辿り着くと、兄が背伸びしながらドアホンをならす。
「こんにちはー、山田さーん」
「山田おばあちゃ〜ん!お兄ちゃんとひなだよ〜!」
兄の丁寧な挨拶に続けて、妹が無邪気な声で家の主を呼び出す。
すぐにそのドアは開いた。
「あら、いらっしゃい」
70代半ばの白髪を生やした、老人が笑顔で玄関に立っている。彼女は二人を家の中に迎え入れ、オレンジジュースを二人にわたす。
「さぁ、今日は何をしましょうか?」
老人はそうやって笑顔で二人に問いかける。その質問に妹のほうが元気に答える。
「絵本がいいー!この前の続き!」
「僕も絵本でいいよ」
「よし、わかった。じゃあ、こっちに座って座って」
そうして老人は二人に読み聞かせを始めた。
無言でじっと耳を傾ける兄に対して、妹場面場面で色んな感想をこぼしながら聞いていた。
「はい、おしまい」
老人がそう言って、読み終えた本を閉じた。
「ひな、もうちょっと静かに聞いてよね」
「だって!狼さん可哀想だもん!」
「え、なんで?狼さんは悪いことしてたじゃん」
兄妹は絵本の感想で討論をし始めた。決して大人びた感想などではないが、老人は笑顔でそれを静かに見守っていた。
やがて二人はひとしきり言い合った後、老人に問う。
「おばぁちゃんはどう思う?」
「良いも悪いも、元々決まってることなんてないのよ。それを考える人によって決まるの」
おばあさんの言葉に妹は難しそうな顔をしていた。
「うーん……意味わかんない」
「だから、結局どっちでもないってことさ。ね、山田さん?」
兄がドヤ顔でこたえた。
老人が、そういうことでもないけどね、と微笑むと、兄は少し頬を赤らめた。それを見て妹はクスッと笑う。
そしてまた二人は言い合いを始めた。
「おはよう、ひな」
目を覚ました時には、やはり聖也がすぐ近くにいた。私は未だぼやける視界の中に確かに聖也の顔を確認する。そして、かわいた口を開く。
「昨日もそんな感じで座ってたよね。寝起きに気持ち悪いからやめて欲しい」
私はできるだけ冷淡さを意識して言った。
「じゃあ、明日からは隣で一緒に寝とくことにしよう」
「警察呼ぼうかな」
私の反撃のひとことにビビった聖也は、あわててあやまりだす。こんなやりとりにも少し慣れてきた。そして、少しだけ楽しく感じる。ただの何気ない会話のはずなのに。それにまだ、たった1、2日のことなのに。
「じゃ、じゃあ朝ごはんにしよう」
どうやらまた作ったらしい朝ごはんを聖也が並べる。いたって普通の目玉焼きや白ごはん。でも、まともに食事をとっていなかった日々のせいか、少しだけ特別な朝ごはんに見える。
「なんで醤油派ってわかるの?」
目玉焼きの皿の横には醤油の瓶が置かれていた。
「え、たまたまだよ」
「ふ〜ん」
私が質問したとき、聖也は少しだけ目を泳がせていた。
この男が赤の他人だとは到底思えない。私は知らない何らかの関係がきっとある。私はそう思っている。しかし、聖也はかたくなに私との関わりについて話してはくれなかった。
朝ごはんを食べ終えて家の中でくつろいでいると、皿洗いを終えた聖也が寄ってきた。
「姫奈、今日は行きたいところがあるんだけど」
「いってらっしゃーい」
私は寝転がったまま応える。
「いや、姫奈も一緒に…」
「昨日買い物行ったじゃん。どこ行くの?あんまり外に行きたくないんだけど」
私の言葉に聖也は少し黙った。諦めたと思ったが、そうではなかった。
「渕川さん家」
聖也はぼそりと言った。渕川、それは私を引き取った里親の苗字。今は美月さんと敦人さん、と下の名前で彼らを呼んでいる。私はしそうになった欠伸とともに動きを止めた。心臓も一瞬止まった気がした。
「やっぱり、美月さん達との関係があったんだね」
「うん、まぁ…」
「なんなの!出ていって!いやだ、絶対戻らないから!」
私は聖也を怒鳴りつけた。
私の苗字は今は渕川、渕川姫奈である。しかし渕川家の本当の子どもではない。私は幼いころ、ある理由で渕川家に引き取られ渕川家で育てられてきた。平凡な家族であり、生活に苦しさなどはなかったが、私はどこか寂しさを感じて暮らしていた。ある日、二人との喧嘩から、私はその家から抜け出しこの場所に住み着いた。それ以降、手紙やメールが何度も送られてきていたが、1度も見たことは無かった。二人はこの家の住所は知っていても、訪ねてくることも無かった。私は家を出てから、あの家とは一切関わっていなかった。手紙やメールでは諦めたのか、それできっと聖也を、様子見のために私の所へ送ったのだろう。これで、聖也が何者なのかだいたいわかってきた。
「頼む、姫奈。1度だけでも戻ってくれないか」
聖也はそう言って、手を合わせて頭を下げる。
「今まで黙ってたくせに!私を騙していたくせに!ちょっと仲良くなって、情に訴えようとか思ってたの?私は行かないからね。いいから出てって!」
「頼む、姫奈。時間が、無いんだ」
「うるさい!その名前をもう呼ばないで!あんたが出ていかないなら、私が出ていく」
私はそう言って玄関へと駆け出した。
「ま、まって!姫奈!」
聖也が追いかけてきたが、私が玄関を飛び出した時には、立ち止まって激しく咳き込んでいた。私はそのうちに急いで家から離れた。出来るだけ遠くに行こうと、聖也からにげようと、美月さん達から逃げようとした。
聖也も私を騙していた。私を騙していた美月さん達のように。
聖也は私のことを知っていたんだろう。美月さん達からでも聞いたのだろう。そして、私を連れ戻すために美月さん達に送り出された。
私の知らない人の方が効果はあるだろう、なんて思っていたんだろう。
戻るものか。あんな、私の人生を騙していた人達のところになんて。
どれくらい逃げただろうか。
結局聖也は、玄関で咳き込んだ時から追いかけてくる姿は見えなかった。まだ昼前だというのに、妙に視界が暗い。かなり久しぶりに走ったせいか、息は荒く、心臓は激しく鼓動を打っている。
私はちょうど近くに公園を見つけた。
少しふらついた足どりでブランコまでたどり着き、一枚の浮いた板に座る。その公園で遊んでいる子どもはいなかった。それもそうだ。今は平日の昼前である。ほとんどの子どもは学校か幼稚園かに通っている時間だろう。
走り疲れた私は、しばらくぼーっと座っていた。
私が公園について、20分くらいが経過した。
すると、一人の少年が私の方へ歩いてくる。俯いていて顔はよく見えないが、身なりや身長からして中学生か、高校1年くらいだろう。
その少年は俯いたまま私の隣のブランコまでやってきて、そのまま座った。
私は目が合わないようにと、すぐに少年から目を逸らした。少年はずっと黙っていた。時々、鼻をすするくらいで、それ以外の音は立てていなかった。
私はその少年のことが気になり、チラと視線を向ける。
その少年はびしょ濡れだった。髪は湿っていて光沢を放ち、制服は水によって少し変色している。そして、泣いていた。
正直言って何にも関わりたくない気分ではあったが、いたたまれない気持ちになり、声をかけた。
「どう、したの?」
「大丈夫です…」
俯いたまま、変声期前の声で少年はこたえる。私は次の言葉が浮かばなくて困っていた。こういう時、なんと声をかけたらよいのか、全然わからない自分が悔しい。
すると、私より先に少年がまた口を開いた。
「よく、ここには来るんです。…僕の、逃げ場」
逃げ場、という言葉にひっかかった。私は意を決して問いかける。
「どうして、びしょ濡れなの?」
少年は始めて私の方をチラと見て、再び俯いてこたえる。
「落とされ、ました。でも、いつものことなので、大丈夫です」
少年はまた大丈夫ですと言った。大丈夫なんかないと、はっきりとわかる。きっといじめにあっているのだろう。少年は今にも声を上げて泣き出しそうな顔をしている。
「話、聞くから。話してみて?」
私の言葉に少年はまた私の顔を見上げた。そして、少し戸惑った後、意を決したかのように唾を飲んだ。
「いじめられてるんです。中学校で、みんなから。これも、そのせいで」
「どんなこ、と…?」
私はしまった、と思った。いじめの内容を、知らない人に話したいなどと思うはずがない。少年の心を少し傷つけたかもしれないと思った。
しかし、少年はあっさりと話してくれた。
「この前は学校のスリッパを捨てられてて、ゴミ箱に拾いに行ったら、落書きされてたり、壊されたりしてて。違う日には、朝教室に行くと鍵を閉められたり、黒板とか机にひどいこと書かれたり、女子の前で無理やり服を脱がされたり、掃除中に、集めたゴミの上に押さえ付けられたり。そしてさっきは水飲み場で、バケツの水に顔を付けられて、もがいたらそのまま全身にかけられて…。他にもいっぱいありましたけど…」
少年は言い終わると、また俯く。
ここでも私はなんと言ったらよいのかわからなかった。
「だいじょう、ぶ?」
そして意味の無い質問を投げかける。この言葉はかえってこの少年を傷つけるとわかっているのに。
「…はい」
少年は小さな声で返事をする。さっきよりもさらに悲しそうだった。
「学校から逃げて、いつもここに来るんです。もう、こんな生活、やめたくって…自殺、も何度かしてみようとしたけど…でも僕が死んだら…」
私は胸が締め付けられるような気持ちになった。少年の気持ちがわからないこともない。というより、他の人よりもよくわかっているかもしれない。
「自殺は、やめときなよ」
そんな私が言えたのは、たったこれだけだった。
「あなたに…」
少年は瞳を涙でいっぱいにし、くちびるを震わせながら言う。
「あなたには、わかりませんよ!僕がどれだけ辛いかなんて!」
少年は勢いよく立ち上がりそう言ったが、すぐに我に返ったように、またブランコに腰をかける。
「……ごめんなさい。でも、あなたは僕の話を聞いてくれたから、少しでも味方をしてくれたから、ありがとうございます」
そう言って少年は頭を下げる。私は少年の反応に怯んでしまって、何も言えなかった。
「自殺したら、あなたみたいな味方が増えてくれると思うんです。新聞に載った自殺者たちのように、僕も死ねば、学校中を、日本中を味方につけれるんだと思うんです。だから、遺書なんかを残して、日本中を味方につけて死にたい。今の生活じゃ、先生も、お父さんもお母さんも、誰も味方になってくれない。先生に言ったって、アンケートなんかで済ませて、かえってみんなにチクったのかっていじめられるし、お父さんやお母さんは忙しいって、何も聞いてくれなくて…」
少年の目から大粒の涙が溢れ出した。
「そっか。でも君はまだ学校に行ってる。偉いよ」
私だったら、学校になんかいってないはずだ。家で心を閉ざして、固まっているだろう。それも少し前の自分のように。
「だって、僕がそうしたら、また妹が…」
「妹?妹がいるんだね」
「はい。一歳下の妹がいがいるんです。妹は、僕の唯一の味方です。僕も、妹だけに味方をしてる」
そのときの少年の眼差しは熱かった。
「いい兄妹だね。ちゃんと近くに味方がいてくれてよかった」
私は自分自身、他人事のような言い方をしている気がして、少年に微笑みかけようとしてもできなかった。
「妹のために、僕は死ねない。死なない。また妹に不幸になってほしくないから」
力強い言葉だった。でも私はその言葉に違和感を感じた。
「また…?ってどういうこと?」
「えっと…」
少年は一瞬躊躇った様子だったが、すぐに続けてくれた。
「妹は僕と同じ学校で、一学期に僕の学年の女の子たちになぜか妹がいじめられてたんです。ある日僕がその現場を見つけて、その女の子たちに怒鳴りました。その時から、その女の子達には恨まれ、他の人たちからはシスコン兄とか言われて、だんだんエスカレートしていって、今度は僕が標的になりました。でも、そのおかげで妹はいじめられなくなったんです。だから、今の標的の僕がいなくなると…」
私は驚いていた。少年がいじめられている理由に、そして、少年の心の強さに。それから、憎しみが湧いてきた。少年をいじめる子達に対して。それに気付かぬふりする大人達に対して。そして、少年と私は似たようなものだ、なんて思った私に対して。
「君は……ほんとに偉いんだね。全部から逃げてきた私なんかとは違う。とても強いんだね」
「でも僕は…」
何か言いたげな彼の言葉を、女の子の高い声が遮った。
「お兄ちゃん!!」
少年と私は声のした方へ視線をむける。
そこには息を切らした女の子が立っていた。きっとこの少年の妹だろう。
「あぁ、今日も見つかってしまった。ごめんなさい、僕の話を聞いてくれてありがとうございました。少しだけ落ち着きました。では」
と言って頭を下げた少年は、妹のところへと向かっていった。
軽く手を挙げて少年の姿を見送る。その先では女の子もこちらに向かって頭を下げていた。
とても良い兄妹なのに、どうしてそんなに辛い日々を過ごさなきゃいけないんだろう。
私は心の中でそうつぶやく。
どうして私は…
「姫奈!」
兄妹たちが立ち去った直後、ここ数日で聞き慣れた声が私の鼓膜をゆらす。
違う入口から顔色を悪くした聖也がこちらへ向かってきた。
「何言っても無駄だからね」
私は聖也を睨みつける。
「お願いだよ姫奈。一度会って話を聞いてほしいんだよ」
聖也が息切れしながらそうせがんでくる。
「姫奈にどうしても知ってほしいことがあるんだ」
「もう何も知りたくないっ!!知らないっ!!もういいよ!!もう私をこれ以上騙さないで!!」
ブランコから立ち上がり、私は聖也に背を向けながら叫ぶ。
目尻には涙があるのがわかる。それを見せまいと咄嗟に後ろを見た。
「騙してなんかいないよ。お願いだ、時間がないんだ」
胸が張り裂けそうなほどに鼓動が痛い。そんな私に対して、聖也は息切れしながらも冷静な態度で言ってくる。
「姫奈……実はね」
「うるさいっ!!そうやってまた私の知らなかったことを教えて、騙してたことをばらすの!何のために!!」
そこまで言うのが精いっぱいだった。
言うと同時に私は走り出した。マンションから逃げ出した時と同じように。
背後からは私を呼び止めようとする聖也の声が聞こえた。
必死に走った。マンションから逃げてきた道を今度は戻っていく。
やがてマンションにたどり着いた。私は飛び込むように中へ入り、扉を閉める。そして鍵を閉めた。
鍵を閉めると一人の空間の中に入れたからか、ほんの少しだけ落ち着いた気がした。
それでも私の怒りはおさまらなかった。
憎かった。私を騙してきた人達、笑顔の裏に隠れていた私に知られていけない秘密。私を信用してくれていなかったから、きっと黙っていたんだ。
私は誰にも信用されていない。
だから私も、誰も信用しない。
とても憎かった。
何よりも憎いのは、あのときの悲しみ、苦しみ、怒りをほんのここ数日の間、忘れかけていた自分だ。
こんな自分は今すぐに消してしまいたい。
部屋の中の棚に薬の瓶を見つける。
私は迷いなくその瓶をあける。
そして、中の錠剤を直接、大量にのんだ。
目眩がして、足元がふらつき、私はその場に倒れ込んだ。
朦朧とした意識の中、鍵のしまったドアがガチャガチャとなる音が聞こえた。
「どうして!」
玄関口で両手を両親らしき人に捕まれた少女が、外の車に向かって歩く兄の背に向かって叫んでいる。
「お兄ちゃん!ずっと一緒って言った!どうして!!」
少女は大粒の涙を零しながらそう叫ぶ。
少女の叫び声を受ける兄の目にも涙が煌めいている。
「ごめん。元気でね」
兄はただそれだけを残して車に乗った。
「いやだ!!!私もお兄ちゃんと行くっ!!!」
手をほどこうとするも、非力な少女の手を離してはくれない。
やがて車が発進し、だんだんとその形が小さくなっていく。
まだ8歳にも満たない少女は、車の姿が見えなくなってもなお、泣き喚き続けていた。
胸を締め付けるような痛みに、意識が覚醒する。
私はベッドの上に寝かされていた。
酷く胸が痛い。まるで焼けているかのようだ。その上吐き気もする。でも、手や足の感覚はしっかりとあった。
視界には真っ白な天井に、白く光る蛍光灯、それに加えて一人の男性の顔があった。
「姫奈ちゃん…!よかったぁ。目、覚めたんだね」
そういって喜ぶ、いとこの啓司がいた。
「啓司兄さん…なん……で…」
うまく声が出なかった。それに、声を出そうとするとよけいに胸が痛む。
「無理しなくていいよ。姫奈ちゃんはここ3日間眠ってたんだ。それに記憶はあるみたいだ。よかった」
啓司はそう言って微笑む。
その笑顔が憎らしかった。
美月さんの弟である啓司と私は5歳ほど歳が離れている。小さい頃から私は、啓司を兄のように慕っていた。啓司もまた、私を妹のように扱ってくれていた。
小・中学生の頃は休日になると、私はよく家から近い啓司のところへと遊びに行っていた。
私が訪ねると啓司はいつも楽器を弾いてくれた。
啓司はいろんな楽器が得意だった。ギター、ピアノ、それに加えドラムまでも。
私は啓司の引く曲に合わせて歌ったり、踊ったりしていた。そういった時間が大好きだった。
私は一緒に遊ぶ兄妹もいなかったから、啓司のような遊び相手にはとことん甘えていた。啓司も私に対していつも笑顔で話しかけてくれる。
中学を卒業してからも、たまに啓司のところへ行っていた。
啓司といる時は、家族といる時のようで幸せだった。
そんな啓司の顔が今、目の前にある。
とても憎く思える。
「お腹空いてない?なにか食べるかい?」
こちらの気持ちは分かっているはずだ。啓司は分かった上で私にそう優しく問いかける。
「何もいらない…」
それだけ言って私は俯く。
そっか、と啓司は小さくつぶやく。
だいぶ声は出るようになってきた。それでも胸の熱は無くならない。
「…ねぇ、なんで黙ってたの?」
俯いたまま私は問いかけた。
「……大事な約束が、あったんだ」
私のいきなりの質問に啓司は戸惑いながらも答えた。
しかし、その答えは前に聞いた答えと同じだった。
私はため息をつき、 布団にもぐる。
「そうやって、まだ私を騙し続けるんだね」
私が自殺をしようと屋上に立った数日前のこと、私は職場の出来事により鬱になって、気を紛らわすためにでも実家に戻っていた。
ひどく暗い私に対して両親は心配をし続けていた。
私は特にこれといったこともせず、ご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って、寝るといったただの日常を過ごしていた。
そんなある日、私はひとつの書類を見つける。
そこには私の家系図があった。どうしてそんなものがあったかは覚えていない。
ただ、そこには私の目にしたことがない漢字の名前があった。
そしてそこには長男と書いてあった。
隣には長女の私の名前が書いてある。見間違いや、書き間違えかと思ったが、似た字、同じ読みの漢字の家族がいたわけでもない。
長男の枠に、確かに渕川光と書かれている。
その名前を何度も見つめ、指でなぞったとき、私は固まっていた記憶がいっきに蘇り、脳内に流れるのを感じた。
公園の砂場で遊ぶ私と、兄。
孤児院で一緒に食事をする私と、兄。
同じ布団で眠る私と、兄。
美月さん達に引き取られた私と、兄。
その日の夜、車乗り込み、去っていく兄の後ろ姿。
泣き叫ぶ私。
冬の風でさらに冷たく感じた涙や鼻水の冷たさ。
私の叫びに反応するかのように月明かりで輝く雪。
私の手を握る里親の手の熱。
その時に何もかもを思い出した。
幼かった頃の記憶を、私はその時まで忘れていた。
兄の優しさ、温かさを。
そして私は何もかもが憎くなった。
兄は私の家族だった。会えない存在ではなかった。それを知った時、同時に両親や、身内みんなが私にそれを黙っていたのだと、私を騙していたのだとわかった。
いつも兄に会いたいと両親に訴えていた。それは私の心からの切実な願いだった。
一人の時間が寂しかった。
兄妹がいる友達が羨ましかった。
でも私には兄妹がいた。もう家族でないのなら、会えないのなら諦めていただろう。
でも彼は、光兄さんは、私の家族であり、まだ生きている。
それなのにみんなは私に黙っていた。
私はすぐに家から飛び出し、目尻からこぼれる涙を拭い、啓司のところへと走った。
その日も啓司は楽器を弾いていた。
「啓司兄さん!!」
「姫奈ちゃん、どうしたの?」
困った時に頼れる人物、それが啓司だけなのだと私はいつも思っていたのかもしれない。
「これ…」
私は啓司に見つけた紙を見せた。
啓司はそれが何かを確認すると、俯いたまま黙ってしまった。
「…ねぇ、知ってたの?あなたも知ってたの?」
「…姫奈、そ、それには事情があってね」
彼は俯いたまま小さい声でこたえる。
「どうして!?どうして私には黙ってたの!?みんな知ってたんでしょ!私を騙して偽物の幸せな暮らしをしてた。ねぇどうして?」
怒りなのか、悲しみなのかわからない感情がこみあげてくる。
胸の近くをドス黒い何かが這いずりまわっているのを感じた。もはやそれは私では止められないほどにだんだんと大きくなっていく。
「…その」
「もういい!私はもう何も信じない!誰も味方だなんて思わないから!」
そういって啓司の前から逃げ去った。
啓司のところへ向かう時、私は少しだけ期待していた。啓司なら私と同じ立場で、私の味方かもしれないと。
しかし、その期待と裏腹にあった大きな不安、そちらのほうが実現したのだ。
わずかな希望ではあったものの、それさえも断ち切られた今は、私はただ独り、孤独の闇を脳内に射影している。
電車に乗り、自宅の最寄りの駅で降りる。
夏の暑さによりふきあげる汗が私の涙を隠してくれた。
しかし、嗚咽をこぼす私への視線は多く集まっていた。
電車にたまたま乗り合わせた赤の他人の視線でさえも、私を蔑んでいるかのように思えた。何もかもが嫌だった。この世界そのものが嫌に思えた。
光兄さんが今も同じ家族と知ってから、何とかして本人に会うことが出来ないかを考えた。しかし、兄さんがどこに住んでいるのかも、生きているのかもわからない。両親や、啓司に聞こうかとも思ったが、彼らの言葉を信じられない今はそうすることも出来なかった。
何よりも私自身がそのことを許せなかった。
結局何もわからないまま自宅まで帰りついてしまった。
何をするにも気力が出ず、ただぼんやりと部屋の隅に座り込んでいた。
幼かった頃の兄との記憶が途切れ途切れに、まるで走馬灯のように浮かんでは消えていく。どの時間も私は幸せだった。
交通事故で両親を亡くし、孤児院に引き取られた私たちは、院内ではいつも二人ですごしていた。他にも友達が何人かいたけれど、最初の交流会の時以来ほとんど話したことがない。光兄さんが私の世話を全部してくれるので、二人ですごすことを許されていた。
光兄さんも幼い子供であったのに、彼はなんでもできた。何も出来ない私にとって光兄さんはスーパースターそのものであった。
でも、遊ぶ時はいつでも私にペースを合わせてくれたりして、非の打ち所のない素晴らしい兄だった。
そうして私たちは、両親を亡くしたショックはあったものの、幸せな時間をすごしていた。
その幸せが途絶えたのは、孤児院に引き取られて2年後の冬のこと。
引き取り先が決まったということで、私と光兄さんは車に乗せられ、引き取り先の里親の元へ連れていかれた。
引き取り先の家は立派な邸宅で、わりと裕福そうな家族だった。
後から知ったことだが、里親は長年子どもに恵まれず、孤児を引き取ることを決心したらしい。
車から出ると、光兄さんと手を繋いでいた私は家を見てすごいね、すごいね、と何度も彼に言っていた。
光兄さんは優しい顔で私に頷きかえしてくる。
その顔にわずかな寂しさが宿っていたことは、幼い私には気づくことなどできなかった。
手を繋いだまま二人で玄関まで行き、ドアをノックする。すぐに中から優しそうな夫婦が出てきた。
「こんにちは」
「こ、こんにちはっ」
光兄さんに合わせて私も挨拶をする。
「あら、いらっしゃい。あなたがお兄さん?」
「はい。妹をよろしくお願いします」
そういって頭をまた下げる光兄さんの言葉を聞いていたものの、私はまだ気づかなかった。
「とても立派なお兄さんね。姫奈ちゃんはいいお兄さんを持ってたのね」
そう言って美月さんが私に微笑みかける。
「うん!光お兄ちゃんはすごいんだよ!何でもできるんだよ!」
私の無邪気な返答に二人は優しく笑っていた。
「それじゃ、姫奈、元気にしてるんだよ」
「…え?」
そのとき私はやっとその場のやり取りに違和感を感じた。
光兄さんは私の頭を撫でると、後ろを向いて歩き出した。
「どうして!」
玄関口で両手を二人に捕まれた私は、外の車に向かって歩く兄の背に向かって叫んだ。
「お兄ちゃん!ずっと一緒って言った!どうして!!」
私は大粒の涙を零しながらそう叫ぶ。
私の叫び声を受ける光兄さんの目にも涙が煌めいている。
「ごめん。元気でね」
光兄さんはただそれだけを残して車に乗った。
「いやだ!!!私もお兄ちゃんと行くっ!!!」
手をほどこうとするも、非力な私の手を離してはくれない。
やがて車が発進し、だんだんとその形が小さくなっていく。
まだ8歳にも満たない私は、車の姿が見えなくなってもなお、泣き喚き続けていた。
それから私は里親の元で育った。兄のことは数日経つとすっかり気にならなくなっていたらしい。子どもにありがちなことだ。
小学校に通い始めたころには友達もできて、その時の充実感で兄のことを忘れ始めていた。
兄との思い出になるような品は私の手持ちにはなかった。それこそ写真でさえも。今でも兄と私を結びつけているのは私の記憶の中にある、あの日のさびしさだけ。
あの日から私は…私はずっと……
「私はずっと…自覚してなかったの?誰よりも、何よりも大切だった光兄さんは…」
家系図の書かれた紙の上に一滴の涙がこぼれる。その一滴を境に、私の視界はぼやけていった。
止まらない。涙が、悲しみが、怒りが。
どうして家族は誰も教えてくれなかったのだろう。どうして誰も兄のことを話さなかったのだろう。私が忘れていることを都合よく思っていたのだろうか。
両親は私しか養えないために、兄をどこか違うところへと追いやったのだろうか。兄はあの車に乗ってどこへ向かったのか。兄の優しさを一番知っている私は、兄が私のために自分を苦しめることだってするということをよくわかっている。
知っていたのに、気づけなかった。
兄は今も違う里親のもとで幸せに暮らしているんだろう、なんて呑気な考えを持っていた。
許せない。黙っていた家族が。笑っていたみんなが。兄を連れていったあの人たちが。そして………。
「姫奈…?…姫奈?大丈夫か?」
啓司が私の顔をのぞき込んでいた。
どうやらボーッとしていたらしい。
「もういいから。出てって」
私は無愛想に視線を逸らす。
「いや、だから姫奈…」
「姫奈ちゃん、お久しぶり」
戸惑う啓司を遮るように、お淑やかな声が聞こえた。
「美月さん……!?どうして!?」
「どうしてって、姫奈ちゃんが倒れたって聞いたから飛び出してきたのよ?元気そうでよかった」
「よかったって…なにを今さら…」
不機嫌になる私に美月さんは眉をひそめた。
美月さんと話したいとは全然思わない。むしろ今すぐに病室から出ていってほしいと望んでいた。
それでも私は聞いておかねばならないことがあった。
「光兄さんはどこにいるの…?」
その質問への答えはなんでもよかった。なんと答えられようとも、私の中の怒りや憎しみはおさまらなかったからだ。
しかし、美月さんは黙ったまま答えなかった。
「また黙ったまま?…どうして教えてくれないの?私に知られたくなかったの?私に知られちゃいけないことだったんでしょ?ねぇ?答えてよ!!」
美月さんの反応は前と同じだった。私が実家から出ていく直前、私は美月さんに同じ質問をしていた。
少しだけ期待していたのかもしれない。もしかしたら、あの時は美月さんも混乱していて、と。
そんなものもつかの間、美月さんは私のわずかな期待を裏切った。
私は窓側を向いて、布団にもぐりこんだ。
しばらく病室に沈黙が続いていた。
五分ほど経って、啓司が出ていった。
病室は美月さんと私の二人きり。美月さんはまだ黙って座っているようだ。私への視線は感じない。
どうして美月さんは私と兄を切り離したのだろう。二人を養えないとしても、それならば私だけを引き取ればいいだろうに。それが出来なかったのかもしれないが、どうして私たちを選んだのか。
引き取られるまで会ったことはないはずだった。何か繋がりがあったという話も聞いたことは無い。
最初から兄妹二人ということを知ってて私たちを引き取ったのだろう。
でもどうして、どうして兄と私を…。
私はやはりその結論として、私の両親の遺産のためだという答えしか思いつけれなかった。
私の両親はかなりの遺産を私たちに遺したと聞いたことがある。それはきっと今までの私の生活、これからの生活でも使い切れないだろう。
彼らが遺産の話をしているところも見たことはない。
まるでなかったもののように。そもそも自分の物のように持っているのだろう。
そうとしか考えれなかった。そう考えるしかなかった。
そして私は家から逃げ出した。両親から逃げ出した。啓司からも逃げ出した。
もう何を信じればいいのか。どこに帰ればいいのか。
私を迎えてくれる本当の家族はもういない。
とっくの昔にいなくなっている。
そう思うとまた心細くなっていく。
私を快く迎え入れてくれる人がいないこの世界で、私は独りぼっちだ。誰も頼る人なんて、心の拠り所なんてなかった。
だから、本当の家族たちがいるあっちの世界に行こうと思った。
そして自殺を試みたのに…。やっとこの独りぼっちの世界から抜け出せれると思ったのに…。
あいつが邪魔をした。あいつが…聖也が私の邪魔をした。
…そうだ、聖也どうなったのだろう。私を追いかけてきたはずだけれど、病室には顔を出していない。
美月さんに聞こうかと考えた。聖也は美月さんと何かつながりがあるような発言をしていたから、きっと美月さんは聖也のことを知っているはず。
でもどうして、美月さんと話したいなんて思わないのに。聖也のことを聞きたいと思っている。
よくわからない。この感情がよくわからない。
なにかドロドロとしたものが胸の奥で渦巻いている。
「ねぇ…あいつ、聖也はどうしたの?」
布団にもぐりこんだまま問う。
「え…?聖也?って…?」
美月さんの素の返事に私のほうも少し驚く。
「誤魔化そうとしなくていいから。私のとこに送り付けてきたあいつだよ」
私は寝返りを打って、美月さんを真剣に見つめる。
「あら…そういうことだったのね」
そういって美月さんは薄く微笑んだ。
その微笑みを睨みつける。
「そんな怖い顔しないでちょうだい。それにあの人は私が送り付けたんじゃなくて、自分からあなたのところに行くって言ったのよ」
「は?カウンセラーかなんかなの?はっきり言ってよ」
私の握りしめたシーツに皺がよる。
「あの人は、あなたのお兄さん。光お兄さんよ」
「えっ……」
大きな驚愕とともに、心の奥で渦巻いていた何かが少しだけ薄れた気がした。
「そんな、そんなわけ…もう嘘はやめてよ!」
怒鳴る私に美月さんは悲しい瞳を向ける。
「嘘じゃないわよ」
認めたくない。認めたくないけれども、聖也が光兄さんだったとしたら、辻褄が合うことがたくさんある。
出会った時の違和感。初対面だとは思えないあの感覚。私がオムライスを好きだと知っていたこと。ときどき聖也に抱く、なんとも言えない複雑な感情。義母とのつながりがあること。
それでも、信じれなかった。認めたくなかった。
長年願い続けた兄との再会を気付かぬうちに終わらせていたなんて、思いたくなかった。
私の幼いわがままが、それを認めさせようとはしなかった。
「じゃあ…じゃああいつは、聖也はいまどこにいるのっ?!」
まるで美月さんに縋るかのように、なきながら袖にしがみつく。
「あの人なら……隣の病室にいるわ」
消え入るような美月さんの声。その言葉を聞くや否や、ベッドから起き上がる。
強いめまいと吐き気がした。
点滴スタンドを杖代わりにして立ち上がる。
美月さんが支えてくれてるのがわかった。
私の病室をでてからすぐ隣にもうひとつの病室があった。
私は扉の前でへたり込んだ。
渕川光、そう書かれたネームプレートが、私に真実を告げた。
「ほんとうに…」
目の奥が熱くなるのを感じる。
でも、涙は流さない。まだ流せない。
扉の奥で待つ、私と兄の本当の再会までは。
美月さんに立ち上がるのを手伝ってもらいながら、私は扉に手をかけた。
やけに重く感じた。
ゆっくりと病室の扉が開く。
私の病室とは広さも違い、器具の種類も多さも違った病室だった。
まるで末期の患者の病室のよう。
そこにあるベッドから、真っ白な腕が見える。
震える足取りでベッドに近づく。
ベッドの上で聖也が静かに眠っていた。
酸素マスクを付け、身体中にチューブが繋がれている。
聖也の胸はほとんど動いていなかった。
その姿を見て、目の奥を熱くしていたものがいっきに溢れ出す。
「どうして……どうして?やっと…会えたのに…」
泣き叫ぶ私の背中を美月さんがさすってくれる。
静かに、静かに涙を零し続けた。
「姫奈ちゃん、光お兄さんに、姫奈がここに来たらこれを聞かせてって、頼まれてたの」
目に涙を浮かべながら、美月さんはひとつの音声レコーダーをとりだした。
そこには、聖也の…いや、光兄さんの声が録音されていた。
『ひな…お久しぶり。お母さんからいろいろ聞いたよ。寂しい思いさせてごめんね。おれがお母さん達にお願いして、おれのことはひなに言わないようにって頼んでたんだ。
幼かった頃、病気が見つかってさ、長くてもあと10年くらいだろうって、言われたんだ。とてもショックだった。自分の運命を憎んだよ。でもその時に決意した。ひなを、周りの人を悲しませない生き方をしようって。お母さんとお父さんは、そんなおれのことを知ってて引き取ってくれた。両親の遺産だけでなく、あの人たちのお金もおれの治療費へ回してくれていたんだ。本当に本当にいい里親に引き取ってもらえたんだなって思えて幸せだった。何よりも、ひなが安心して暮らせることにほっとしたよ。
看護師さんが世話をしてくれるときや、お母さん達がお見舞いに来てくれる時も、おれは必死に笑ってた。大丈夫だって、おれは元気だって、嘘でもそう伝えたかった。みんなに悲しい顔して欲しくなかったんだ。でも、ひなはおれの嘘なんて見抜いちゃうかもなって思って、伝えないようにしてもらったんだ。おれが病気なんて知ったら、ひな学校行かなくなったりするだろ?ひながずーっと病室にこもっている姿が思い浮かぶよ。ひなが幸せに暮らすこと、それが一番の願いだった。おれのことはどうにか忘れて、悲しませることがないようにって。
…ごめん。それじゃダメだったよね。わかってたんだ。ひなが本当に幸せになるにはこうすることが正しいはずがないって。何度も打ち明けようと考えたりもしたよ。お母さんがお見舞いに来る度に、そう思った。でも、お母さんの少し悲しそうな顔を見るだけで怖かった。ひながこんな顔してたら、相当苦しいなって、怖がってた。みんなに悲しい顔してほしくないから、ただただずーっと笑顔を続けた。みんなに嘘をつき続けた。そんな顔見せないでくれって、笑ってくれって訴えるように。
そうしているうちに、本当の笑顔も忘れてしまったよ。楽しい気持ちってどんなだったか忘れてしまった。それでもおれは笑い続けた。やがて気づいたんだ、悲しい顔をしてほしくなかったのは、おれが励ましていたのは、自分自身だったんだって。結局、自分のために生きてたんだなって、後悔した。自分のためにひなに寂しい思いをさせたんだなって、絶望した。自殺しようって思ったりしたよ。
でも、そんなとき、お母さんがある写真を見せてくれた。ひなの成人式の写真。写真の中のひなはとても幸せそうに笑ってた。そしたらなぜか、おれもだんだん嬉しくなってきた。久しぶりに本当の笑顔をつくれたよ。
そのときに、ひなに会いたいって思ったんだ。ひなに会うために、リハビリがんばったよ。ただ寝てただけでこんなに体力って落ちるのかって感じ。
やっと外出の許可もらって、お母さんに連絡したんだ。でもなぜかお母さんは慌ててるし、ひなが出ていったって聞いた時は驚いたなぁ。けんかでもしたんだろってくらいにしか考えてなかったからさ、屋上でひなを見つけた時正直焦ったよ。でもなぜか、ひなは本当は死ぬ気なんてないってあの時思ったんだ。ひなもおれと一緒だ、なんて思ったのかもしれない。
怖かったんだよね。死ぬときの痛みとか、誰かへの配慮とかじゃなくてさ、思い出を裏切るのが怖かったんだよ。幼い頃のおれたちは、たしかに幸せだった。どんなに嘘をつかれても、どんなに裏切られても、過去だけは、あの頃のおれたちだけはずーっと味方でいてくれる。その唯一の味方、思い出を捨てるのが怖かったんだと思うんだ。だからおれも、ひなの写真を見た時に笑顔がこぼれた。結局は、あの幼かった頃に、ひなに救われたんだなって。そしてひなを救ったのも、あの頃のおれだったんだなって。
今まで寂しい思いをしてたんだよね。本当にごめん。
そしてこれからも寂しい思いをさせてしまう。悔しいよ。もっと…生きたいよ。ひなの笑顔をもっと見たいよ。もっと笑っていたかったよ…。
……兄がこんなんじゃだめだよな。笑う。おれは最後まで笑うよ。だからひなも顔を上げてくれ。おれはいなくなるけど、ひなはもう支えてくれてる人を見つけたんだ。独りぼっちじゃない。おれも、死んだってそばにいるよ。お母さんもお父さんもきっとひなが笑顔なほうが好きだと思うよ。おれもそうだ。
…ごめん。ほんとは出会ったあの日に伝えるべきだったよな。また逃げちゃった。ひなに会ったら、別れを告げるのが怖くなっちゃったんだ。
でも、もうお別れだ。後戻りはできないんだよね。
…ちくしょう、もっと生きていたかったよ。
ひな、最後のお願い。
おれの分まで、幸せに生きてほしい。
じゃあ、元気でな』
その日、光兄さんはこの世を去った。
ご愛読ありがとうございました。
まだまだ産まれたてほやほやの新人ではございますが、これからもっと頑張ります!!
でも、趣味感覚ってのは変わりません(笑)
次はファンタジーものを書こうかな〜って思ってます
それでは、またいつか!






