1999年5月23日 『驚愕』
今日は、朝から昨日の本の続きを読もうと息まいていたが、日課をこなしている途中で彼からメールが届いた。
『サイン有り』
本の続きも気にはなっていたが、『その時』の方が最優先。本は時間がある時にじっくりと目を通すことにした。
「おはよう花音君、山田です。
早速、サインがきましたか」
「おはようございます、山田さん。
サインきました。
ご都合はいかがですか?」
「私は、今すぐにでも出れますよ」
「では、すいませんが、30分後に
例の場所で」
「わかりました。では後程」
「気を付けていらしてくださいね」
「ありがとう」
午前10時過ぎのティータイムにそれを受け取った私は、早速連絡を入れ都合の確認をしすぐに着替えた。お気に入りのベストと帽子を身に着け、例の待ち合わせ場所へと向かった。5分程前に公園に到着。ベンチへと急ぐと既に花音君は来ていた。
「おはよう花音君。お早いですね」
「おはようございます山田さん。
流石に待たせるわけにはいきませんので」
見た目、体調は悪そうではなかった。今日は休みだったらしく、自分の部屋でサインを受け取ったとのことだった。合流して10分ほど彼の様子を伺ったが特に変わった所は見当たらない。彼自身、まだ意識はあり、軽い頭痛を感じてる程度だという。彼が彼でなくなるのに要する時間は一瞬のようで、いつそれが起きてもおかしくない状況だということだった。頭痛がすると聞いていた私は、なるべく話しかけないように静かに見守ろうとしたが、彼が気を遣ってか話しかけて来た。
「もし、
少しでも身の危険を感じるようなら、
すぐここを離れてください。
ボクは大丈夫ですから……。
ただ、今まで何回かあったんですが、
事件になってないとこを見ると
大丈夫だとは思うんですが……。
確証はありません。見てては欲しいですが、
まずご自分の安全を一番にお考えください」
彼はそう言うと透き通るような瞳で私を見た。その瞳に吸い込まれそうな心地よい感覚の次の瞬間、それはいきなり始まった。彼の体が小刻みに震え出したのだ。前もって聞いていたせいであろうか、不思議と畏怖は感じなかった私は、そのまま隣で見守る事にした。あの事故の日のように光に包まれるのであろうか……。想像すら及ばない出来事が起こるのであろうか、私は好奇心を胸にその瞬間を待ち望んだ。と、その刹那、それはもう終わっていたのである。時間にしたらほんの1秒程度……。
「なっ……」
驚愕した。私は片時も目を離してはいない。あるとすれば瞬きくらいだ。その一瞬でそれは終わってしまっていたのである。美しい白銀の長髪に美しい黒銀の瞳。明らかに『彼とは違う彼』が目の前にいた。が……、見覚えがあった。間違いない、あの時の彼だ。一年前、あの事故現場に花音君の代わりに女性に寄り添っていたあの異国風の青年だ。そして、彼を認識した瞬間、私はこちらの彼に会えることを望んでいたのだと思い知らされた。
「ん?
アンタ誰?
オレを知ってるヒト?」
まじまじ見つめる私に気づくと警戒心のカケラもなく話しかけて来た。声も話し方も私が想像していた通りの青年だった。
「はじめまして……。
キミを以前、見かけたことがありましてね。
それがきっかけでキミじゃないキミと
知り合えたんですが……。と言っても
信じてもらえんでしょうな」
「ほぉ~う。それはそれは……。
シオンだ……、よろしくな」
彼は何を聞くでもなく、疑う事も無くそれだけ言って、立ち上がった。
「あのっ……」
私は、状況が全く呑み込めなかったため、慌てて彼を制止した。
「好きにしな……」
と、全てを理解しているかのように、鋭くも優しい眼差しで私を見た。
「これから、どこに?」
「さぁな。
オレは導かれるままに、『そこ』へ
向かうだけだ。
付いてきたいなら好きにしな」
「では、ご一緒させていただきます」
彼はあたかも自分の居場所を把握しているかのようにそのまま迷うことなく公園を出たが、彼も花音君と同じで私との距離を離す事無く歩いてくれた。偶然なのか、気遣いなのかは判らないが、私が彼を見失う事はなかった……。10分程街を縫い歩き、明らかに『何か』に導かれるかのように『そこ』に着いた。
「アレ……か……」
彼が呟いた視線の先には、車いすに乗った少年と、それを押す母親の姿があった。彼は何の躊躇もなくその親子に歩み寄った。
そして子供には目もくれず母親の耳元で何かを囁いたのである……。
「……………………」
決して上から目線などではなく、悲哀すら感じる眼差しで彼は母親を見つめながら続けた。
「返事は今日じゃなくてもいい。
ただし、今日から3日以内だ。
気が向いたらここに連絡しな……」
そう言うと小さなメモをその母親に手渡した……。彼女は、怪訝そうな表情を見せることなく、そのメモを普通に受け取った。その親子が去ったあと、彼女らに何をしたのか彼に尋ねると、彼は優しい眼差しのまま答えた。
「魔法をかけたのさ……。ふっ」
そして小気味良く鼻で笑い、こう続けた。
「アンタが望むなら、
また逢えるだろうさ……」
そう言って、背を向け軽く右手を挙げた。そんな映画のワンシーンのような一連の動作を素でやってのけた。本当のハンサムとは何とも羨ましい。何をしても様になる。半ば、見惚れた状態のまま、街中へと消え去る彼の背中を見送った。なぜだろう……。私は後を追う必要を感じなかった……。彼の言った通り、また、逢えるという根拠の無い確信を私自身も感じていたからだろう。私は足取り軽く帰路についた……。