1999年5月21日 『依頼』
今朝は、いつもの時間に目が覚めるも、少々眠たかった。昨夜、なかなか寝付けず、暫く天井を傍観していたせいだ。まるで、遠足前夜の子供である。
眠い目を擦りながら台所で日課をこなした後、珈琲を飲みながら新聞に目を通しているうち眠気も失せ、日常の朝へと切り替わった。約束の時間が迫る中、私は期待を胸に、よそ行きに着替えた。ついに、あの時感じた予感が実現する。実現するにはするが、その後のことは一切考えていなかったことに気づいた。気付いたには気づいたが、今更考えたところで答えなど出るはずもなく、潔く行き当たりばったりに身を任せることにした。そう気持ちの切り替えをし、足取り軽く待ち合わせ場所へと向かった。まるでデートでもするかのように年甲斐もなく気持ちは浮かれていた。
約束の5分前、約束の場所に着いた私は、その光景に立ち止まった。あれがデジャブと言うものだろうか……。いや、そうではない。昨日も確実に見た光景だ。彼は昨日と全く同じ場所で空を見上げていた。私は声を掛けるのも忘れ彼に釘付けになっていた。景色に溶け込むそのシルエットはごく自然に、存在感を共有していた。視線を感じたのだろうか、彼はゆっくり振り返り私を見つけると軽く微笑んで会釈した。
「何か見えますかな?」
「昨日、ここに
大きな虹が出てたのをご存知でしたか?」
高く蒼い空を見据えながら彼は言った。
「ええ……。見事な虹でしたね……」
私が答えると、彼は視線はそのままに微笑んでいた。ほんの数秒ほどして彼は口を開いた。
「では行きましょうか……」
言葉と視線で私に促し、私の二歩先を歩いた。
初デートのような緊張感の中、5分ほど歩いたであろうか、街中とは思えない程の緑溢れる公園に着いた。
「ここは……」
この街に十年以上住んでいるが初めて分け入る公園だった。数歩も進まず私は絶句した。
「こんな……」
そこには、都会のオアシスを模るかのような人工の自然公園が広がっていた。このような散歩にはうってつけの公園に私はなぜ、今まで足を運ばなかったのだろうか……。いや、違う。私はなぜ、公園の存在すら知らなかったのだろうか。十年以上住んでて気付かないなんてことがあるのだろうか……。そんな、些細で単純な疑問にも答えを見い出せはしなかった。
木々の間を縫うように小径を進むと、いきなり目の前が拓け大きな湖が現れた。呆然と立ち止まっていた私に気づき、彼がベンチへと誘ってくれた。景観に馴染んだそのベンチに腰かけると、息が切れていない自分に気が付いた。それがたまたまそうだったのか、それとも、彼が私に合わせて歩いてくれていたのか分からないが、何れにせよ、心地は良かった。
「私はこの街に10年近く住んでますが
この公園に来たのは初めてです。
ここにも、こんな素敵な場所が
あったのですね……」
「初めてでしたか。
それならお誘いした甲斐がありました」
そんな世間話をしつつも、彼は、急かすこともなく、私のタイミングで話に付き合ってくれた。心に温かな風が流れる感覚に、自然と笑みが零れ気持ちも解れた。
彼の名は『花に音と書いてカノン』、現在21歳で2歳下の妹と母親の3人家族だが、妹とは別々に暮らしているとのことだった。幼少期、彼は妹さんと留守番の際、火事に遭い、その後遺症で火事から遡ること1年間の記憶が無くなったらしい。つまり、彼には『十歳の記憶』が無く、妹さんも同様に『八歳の記憶』が無いとのことで、今現在も治療中とのことだ。母親は精神科医で、妹も、彼自身も彼女の患者であること、父親とは死別したと母親から聞かされていることなど、素性の知れない私に色々と話してくれた。その話の中で、気になった彼の病名。
『解離性同一性障害』
一般的には、多重人格で知られている。今でこそ、そこそこ知られる病名だが、症状が症状なだけに未だになかなか理解され難い難病のひとつだ。彼、花音君にも数人の人格が存在しているらしく、今分かっているのは
『カムイ』
という青年だけだということだった。この想像もつかなかった展開に私はさらに彼に惹き込まれた。会話の余韻に浸りながら、目の前の、漣に揺れる湖を眺めていると、さらに彼が口を開いた。
「昨日、今日、逢ったばかりで、
大変、おこがましいのですが、
お願いがあるんです。
何故あなたがいいのか
ボク自身、判らないのですが……。
あなたがいいんです。
身勝手なのは承知しております。
けれど、あなたがいいんです……。
どうしても……」
そう言う彼の眼差しは孤独の影が射しているように見えた。その温かくも冷めた眼差しは私を突き動かすには充分だった。
「私にできることであれば……」
すると彼の表情が一変した。期待する人の顔とはああいうのを言うのだろうか……。目が輝くとはよく言うがまさにあの眼差しがそれそのものだった。その表情のまま、彼はこう続けた
「本当ですかっ? 本当にいいんですかっ?」
「えぇ、構いませんよ」
するとほんの少しだけ彼の視線が泳いだが、一呼吸置いて再びこちらに視線を投げた。
「あの……では……。
ボクを観察してもらえませんか?
『ボクじゃないボク』の行動を
観察して欲しいんです」
と躍動を押し殺したかのような切望に近い声で私にそう言った。
あの事故以来、この1年間の間に記憶の飛ぶ頻度が増えたということと、入れ替わっている人格が『カムイ』では無いような気がすると言うことだった。つまり、花音君という人物がどういう風に変貌を遂げ、その間、何をしているのか……。それが知りたいのだと言うことだった。人間誰しも自分の不可解な行動、ましてやその間の記憶が無いとなれば、誰でも知りたくなるのは当然至極。ところが、知りたいと思うようになったのはここ最近ということだった。それまでは然程気にも止まらなかったらしいが、やはり、『カムイ』ではないかもしれないと言う得体の知れない不安が、彼の冷静なテリトリーを侵したのだろう。その不安や畏怖がどれほどのものなのか
正直、私には知る由もない。勿論、想像すら及ばないだろう。そう考えると、気の毒に思えた。今までの経験上、カムイという人格とは違いその人格が入れ代わる時は前もって幻聴などの兆しが現れるらしく、そのサインが出たら、彼が私にメールを入れ、それを確認した私が彼に連絡をし、互いの都合が合えば、今日待ち合わせをした公園の湖に沿う遊歩道の途中にあるベンチで待ち合わせるという段取りとなった。改めて考えると、不思議である。これがほぼ初対面の人間同士が無報酬ですることとは思えないが、私達二人の間には言葉にできない『絆』のようなものがあったとしか思えてならない。これが、何かの陰謀でない限り……。何れにせよ、私も非常に興味があったため快諾。連絡先を交換し家路へついた。帰る途中、行きつけの書店に立ち寄り解離性同一性障害に纏わる本を購入した。帰り着き、シャワーと夕食を済ませると、淹れ立ての珈琲を片手に、買ってきた医学書を手に取ってソファーに深々と体を預けた。専門用語と専門知識が羅列する内容に睡魔に襲われるどころか、いつの間にか、深く強く引き込まれていた。
珈琲のおかわりでもと時計に目をやると、なんと午前2時を少し過ぎていた。続きを読みたかったが、さすがにこの時間は翌日に影響が出るため寝ることにした。明日、また続きを読むことにしよう。