1999年5月20日 『再会』
今日は、何やら朝から胸騒ぎがしていた。お気に入りの牛乳入りの珈琲を片手に書斎の窓から空模様を伺うと、さっきまで降っていた雨も上がり、微かに陽が射していた。胸騒ぎのこともあり、午前中、傘を片手に散歩に出掛けた。
この時期のいつもの散歩コースではなく、桜の頃に楽しむ並木道へと自然と足が向いた。あの事故があった場所である。
「あれから一年……」
今では、事故があった形跡は勿論、人々の記憶からも消えているであろう。現場に居合わせた人たちを除いて……。そんな、去年とは違い例年通りの葉桜揺らめく並木道に踏み入ったとき、空を見上げて佇む一人の青年の姿が私の目に飛び込んできた。
「虹だ……」
その青年の透き通るような声に私も目が空を仰ぎそうになったが、私の目はその青年の黒髪に惹き付けられた。
「あの時の……」
私は抑えられない衝動にかられて思わず声を掛けていた。
「あなたは、一年前
ここでの事故の現場に居た……」
そう言い掛けたとき
「あなたも居たんですか?
あの時……」
「えっ。……えぇ」
「そうでしたか……」
と、あたかも話しかけられることを分かっていたかのように振り向くこともなくそう答えた。
「実は……、あの事故の途中から
無いんですよ」
「無い? 何が……無いんです?」
「記憶……」
「記憶……ですか?」
「えぇ……記憶です……」
「それは……どういう……」
「ボクにも、何がどうなっているのか……」
「それは、お気の毒に……」
この時は、それ以上、言葉が見つからなかった。そんな私を気遣うようにその青年はそっと口を開いた。彼が言うには、彼女の強い願いが心の中に流れ込んだ瞬間、自分の中の何かが弾けたとのことだった。次第に意識が遠退くなか光の中に人影をみた瞬間から家のベッドで目覚めるまでの記憶がすっぽりと抜けていたというものだった。しかも、あの事件以来、記憶が飛ぶ頻度が増えたと付け足した。
その話を聞いた私は尚更その青年に惹かれ、
図々しくもまた会う約束をさせてしまった。
「では明日、
今日と同じこの場所に
同じ時間でどうです?」
心地よい余韻を響かせた言の葉が声のトーンと相まってゆるやかに届いた。
「えぇ……是非」
「それでは、また明日……」
「また、明日……」
二つ返事で了承する私を見て、その青年は優しく微笑んだ。その場を立ち去る彼の後ろ姿が人ごみに消えるまで、ずっと見送った。と言うよりは、単に目が離せなかっただけだった。ふと見上げると、大きな虹が私達の再会を見守るかのように空高く弧を描いていた。この奇跡のような再会は、虹の架け橋による粋な計らいだったのだろうか。この再会はやはり偶然では無い。そう確信した一日だった。