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エリシオン  作者: アルセーヌ・エリシオン
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1998年5月18日 『光景』

 今日、人間が産まれてから死ぬまでの間に

一度あるか無いかの奇跡の瞬間というものに

偶然立ち会った。

 早朝、聞き慣れた目覚まし時計の音にやんわりと目が覚めるとカーテンの隙間から陽の光が差し込み始めたところだった。ゆっくりと体を起こしベッドから降りお気に入りのガウンを羽織っていつも通り新聞と牛乳を取りに外へと出た。古びた門柱に備え付けの鉄製の赤いポストと木製の黄色い牛乳入れから朝刊と牛乳を手に取る。振り返ると朝日に薄く霞が掛かっており幻想的な光景が目の前に広がった。ここに住み始めて10年、初めて目にする光景だった。暫く見惚れていたが陽が昇るにつれ、日常の朝へと変貌を遂げた。少し得した気分と軽い高揚感に素晴らしい一日を予感した。

 部屋に戻ると、いつものように珈琲を煎れ、先程の牛乳を足し込みお気に入りの椅子にゆったりと腰掛け、フチなしの眼鏡をかけて新聞を開いた。小一時間程かけ新聞を読み終えた後、果物と牛乳で軽めの朝食をとった。

 定年を迎えて結構経つが、会社勤めをしていた頃より起きる時間が明らかに早くなり、平日の朝独特の憂鬱さも感じなくなった。社会のしがらみやストレスから解放され自由気ままな第二の人生とやらをささやかながら謳歌できている証だろうか。贅沢を言えば、この隣にかみさんがいればどれ程、満たされた余生になったことか。

 そんな朝のゆったりとした時間を自分のさじ加減で堪能しつつ、午前中の最後の日課をこなし、お昼を迎えた。今日は、うどんを茹でネギを散らし天かすを入れてシンプルに素うどんにしたが思いのほか美味しく満足の昼食となった。一人で食べる食卓の雰囲気にも気付けば、いつの間にか慣れていた。時の流れと言うものは優しくも残酷なものだ。

 食後、30分の休憩をした後、昼一番の日課である散歩へと腰を上げた。かみさんに買ってもらったベストを羽織り、お気に入りの帽子を手に取る。散歩の際の必需品のようなものだ。私は散歩の際、必ずその日の気分に合った楽しみを設けることにしている。それは、景色だったり風景だったり。出逢いや発見を期待してコースを選ぶ。お気に入りの散歩コースがいくつかあるが、そのいずれもひとつの交差点から分岐する。今日は、行き交う人々を傍観できる駅前の公園へと向かうことにした。ところが、その交差点に着くころには先ほどまでの目的が煙のように消えており、何故かこの時期にはあまり行かない桜並木で有名な道へと足が向いた。葉桜であろうその並木道にふと気持ちが揺れ動いた、そんな感覚だった。


今思えば、

ここが私の分岐点だったのかもしれない。


 この時期、桜も散り浅く青い空に散りばめられた明緑色の青葉達がそよ風に揺らめく。

その隙間から零れるように寄り添う柔らかい光と影を楽しみにたまに訪れることもあるが、今日は、そういう気分で選んだコースではなかった為特に何かに期待するでもなく、かと言って、不満がある訳でもなく……。そんな、ふわふわとした雲の上を歩いているかのような感覚だった。歩くこと15分程で目の前に現れたのは、全くの想定外な、過去にも例を見ないほどの満開の桜並木道だった。


「おぉ~これは……」


花吹雪でも舞っているかのように辺り一面が薄紅色に染まっている。満開の桜花が揚々と咲き誇る中、柔らかい光が降り注ぎ、安らぎに満ち溢れたなんとも心満たされる光景だった。ローカルのニュースでも、地元の新聞でもこの光景に触れてはいなかったため思いもよらぬ幸運に巡り合えた気分だった。休日ということもあり、人影も多かったが皆、知ってて見に来たというより、偶然通りかかり思わず立ち止まり見入っているという感じだった。


そんな至福の瞬間に惨劇は起きた。

一瞬で訪れた悪夢……事故だ。


それも目を覆いたくなるほどの大惨事だった。だが私が、いやその場に居合わせた全ての人々が驚いたのは、その惨劇の事故そのものではなく、その直後に起きた出来事だった。

 まさしく『青天の霹靂』だった。素人目にも誰が見ても、もう助からないであろうその若い女性に数人の人影が駆け寄った。微動だにしないその女性を囲み、皆がそれぞれに出来る事をしているなか、先ほど真っ先に駆け寄った青年は何度も何度も必死に声をかけていたが、その一生懸命さが彼女の反応の無さを一層際立たせた。私も遅ればせながらその人だかりに溶け込んだ。


「どうかね?」


「…………」


その青年に声をかけたが彼の耳には届いてはいないようだった。全神経が、彼女に集中していたのだろう。まるで身内を思わせるほどの狼狽ぶりで何度かの呼びかけに対する無反応さと脱力しきっているその体躯にその青年の懸命さが終息を迎えた。失意なのか、無力感なのか……、若しくは本当に身内か知り合いなのか、彼が天を仰ぎ涙したその瞬間、辺り一面が眩い光に包まれた。

 どれくらいの時が刻まれたであろうか……。恐らくは一瞬の出来事だったのであろうが、微かに景色が鮮明になるにつれそこにいた皆が目を疑った。


『何が起きた……?』


私を含め皆がそう思ったに違いない。何せ、そこに立っていたのは、今の今まで微動だにせず瀕死の状態だったはずのあの女性だったのだから。服は破れ血だらけだったが、彼女自身は見た目では無傷だったのだ。彼女は自分の手から体へと目を走らせ一体自分に何が起きたのか、必死に把握しようとしている様子だった。本人も含め、そこに立ち会った皆が困惑し狼狽していた次の瞬間、その場の時間という概念が静止した。ただでさえ、彼女の生還に充分過ぎるほど私の寿命は縮んだのだが、その『絶対的な間』を創り出し、皆の目を釘付けにしたのはその女性と背中合わせに立っているもう一人の方の存在だった。強制的に認識させられた、そんな感じだった。そこに居たのは、先ほどの青年ではなく完全なる『別人』だったのだ。いや……。正確には青年の容貌が変わったと言うべきか……。先ほどと服装は変わっていない……と思う。ここの記憶はほぼほぼ曖昧である。何せ、注意力が女性に向いていたためである。ただ、いくらよそ見をしていたとは言え、あのほんの一瞬、瞬き程の時間で別の人間と入れ替わる余裕など無い。となると『青年が変貌した』と、認識せざるを得ない。そこにいた皆がそう把握したからこそあの『間』が生まれたのだろう。

 確か、声を掛けていた青年は短い黒髪の端整な顔立ちの青年だった。が、女性に寄り添って立っているのは、あまりにも美しい白銀の長髪、しかも目が釘付けになるほど美しくそれでいて精悍な顔立ちをした異国を匂わせる青年だったのだ。


私は孤高なる神々しさというものを

初めて垣間見た気がした。


だが不思議と彼に……というか、その光景に畏怖は感じなかった。強いて言うなら違和感とでも言うのか……。おそらく、そこに居た皆が、同じ感覚だったであろう。あの瞬間、誰一人動くこともせずその光景に囚われたかのように視線を外せずにいたことがその証ではなかろうか……。そんな、現場が騒然としてるなか、ほんの何回かの瞬きの隙にその青年だけの姿が忽然と消えていた。


『あれは……』


隣の他人に声を掛けている者、辺りを見回している者、茫然自失状態の者など、私を含め何人かはそれに気付いていたようだが、何しようもないのは皆同じだったようだ。そう混迷している現場に、どこからともなく聞こえてくるサイレン。次第に近づくその聞きなれた音に、罪悪感のような妙な感情が膨らんだ。その思いを他所に俊敏な灯台のような動きで、赤色灯が辺りを照らしながら近づいてきたが先に到着したのは予想に反しパトカーだった。状況が状況だっただけに、そこにいた皆からパトカーより、救急車。という空気は無く他人事のようにゆるりと道を開けた。ものの、10秒もしないうちに救急車も到着。警察官と救急隊員が各々、手際よく自分の役割を果たしていた。救急車が一応彼女を乗せ走り去ると、人だかりははらはらと自然消滅した。

 あまりの出来事が重なり、頭を整理出来ずに家路についたが、どう帰ってきたのかすら記憶にない。しかし、なぜだろうか……私はあの青年にいつかまた逢えるような気がしてならない。今夜はあの光景が夢に出るか、一睡もできないか……。もしかしたら、夢の中で彼に逢えはしないだろうか……。そんな初恋にも似た感情に戸惑いながら明日を迎えるのを楽しみに床に就くことにする。

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