本日のディアナ様は割と話を聞いてくれます。
「ディアナ様に、申し上げておきたい儀がございます」
「どうしたのよ、ラミア」
「はい。ディアナ様が下々の者を憂いて、そのように美味しいパンを提供できるようにされるということ、それは実に素晴らしいと思います。今よりも美味しいパンが食卓に並ぶようになれば、民は喜ぶことでしょう」
「ええ、そうでしょう? やっぱり、わたしがパン屋を開くしかないわ」
「それにあたりまして、この侍従より意見がございます」
「ええ、聞きましょう」
まずは褒めなければいけません。
ご自身は全く変なことを言っていないおつもりなのです。私には理解しかねますが、ディアナ様はこれを正しいと思って主張しているのです。
そんなディアナ様に話を聞いていただくには、まず褒めなければいけないのです。そうしなければ、へそを曲げて話も聞いてくれなくなるのですから。
何を言い出そうとも、まず私の仕事は褒めることから始まります。
褒めたうえで、その欠点を挙げるのです。そして、その欠点を補完する方法も同じく提示します。勿論それは、ディアナ様が大賢者としてこれからも国の魔導繁栄に務めることを前提としてです。
「現在、市井の民はそんなパンに対して不満を抱いていません。ディアナ様の好まれる柔らかいパンではなく、やや硬いパンを好まれる傾向にあるのだそうです。その理由としまして、市井の民の食事というのがスープとパンが基本だからなのだそうです」
「そうなの?」
「ええ。ですので、硬いパンをスープに浸して、スープをパンに染み渡らせて柔らかくするというのが基本的な食べ方だそうです。ですので、柔らかいパンはむしろ好まれない傾向にあるのだそうです」
「なら、市井の民にも知ってもらわなければならないわね。柔らかい白パンがいかに美味しいかを」
「はい。ですが、少々問題がございます」
「……問題って?」
おっと、ディアナ様の表情が若干不機嫌になってきました。
この気紛れな主人を、どうにかコントロールしなければいけません。ディアナ様が王宮から離れることは、それ即ち国の損失なのですから。
ディアナ様が大賢者ではなく、ただの市井の民の一人となってしまった場合、ディアナ様の行っている数多の仕事を他の大賢者がしなければならなくなるのです。国を囲む結界の定期的な修繕、神代からの遺物に関する研究、発掘された魔導具の解析、魔導兵器開発にあたっての監修など、その仕事は多岐にわたるのですから。
「単純に、経済の問題でございます。ディアナ様は以前、貯蓄は経済の停滞を生むと仰いました。消費が多くなればそれだけ活性化するる、貯蓄ばかりしていると経済が成り立たなくなる、というお言葉はよく覚えております。素晴らしいお考えですね」
「そうね。だから、わたしもできるだけ使うように心がけてはいるのだけど」
「その上で、もしも今ディアナ様が、柔らかな白パンを庶民の手の届く価格で出し、それが庶民の口に合うとなった場合……価格崩壊が発生いたします」
「どういうこと?」
「現在当家へと届けてくださっているランドワーズのパン屋は、かなり老舗のパン屋です。その柔らかさ、美味しさから王室御用達の看板を戴いているほどです。こちらの値段は、一般的に流通している黒パンのおよそ五倍ほどの値段がいたします」
「そうなの!?」
驚いたのか、ディアナ様が目を見開いています。
確かに美味しいことは認めます。ですが、美味しいものというのはそれだけ高いのです。ランドワーズのパン屋は王室や貴族に対しての配達を主にしており、一般市民に対して流通しているものはほとんどありません。
そんなものを、ディアナ様が一般市民に手の届く額で提供するようになれば、どうなるのかは一目瞭然です。
「確かに、ラミアの言う通りね。わたしがそんなお手頃で美味しいパン屋を出したら、わたしのお店にばかりお客さんが来るわ」
「そうです。そうなれば、周辺一帯のパン屋の経営が成り立たなくなります。一般市民でもちゃんと満足のいく量があるパンを安く購入できるからこそ、パン屋というのは経営が成り立っているのですから」
「そうね。わたしはこれ以上お金が必要なわけじゃないし……パン屋を下手に経営することで、他のパン屋の迷惑になってしまうということなのね」
「はい。お分かりいただけましたら良かったです」
すっ、と頭を下げます。
ディアナ様は聡明なのです。ちゃんとこちらが正しければ、それを分かってくださるだけの聡明さはお持ちなのです。
だというのに何故、時折ちょっとだけおかしくなるのでしょうか。
うんうん、とディアナ様が頷かれて。
「それじゃ、パン屋はやらない方がいいわね……。でも、あんなパンで一般市民の皆が満足していると思うと……やっぱり、わたしは不満なのよ」
「実にお優しいと思います。素晴らしいお考えです」
「ええ。でも、他のパン屋の経営を成り立たなくさせてまで、わたしはやりたくないわ」
「はい。そのお考えも実に素晴らしいです。では、どうなさいますか?」
ディアナ様は決して、大賢者という仕事がお嫌いというわけではないのです。多分。
ただ、市民のことを憐れんだだけのことです。こんなにも品質の悪いものを食べているのか、と。市民の皆様が聞いたら激昂するかもしれませんが。
ですので、聡明なディアナ様は私の言葉に納得なさって、そのまま手を叩かれました。
「そうね……それじゃ、ランドワーズのパン屋に、作り方を聞いてみましょう」
「どうなさるのですか?」
「大体、材料はほとんど同じでしょう? なら、ランドワーズのパン屋だけがそんな値段で出しているのはおかしいわ。製法を聞いて、その上で他のパン屋に教えましょう。ランドワーズのパン屋はずっと作っているから技術的な部分では出遅れるかもしれないけど、他のパン屋も製法さえ分かれば真似できるはずよ」
「なるほど」
今度は、御用達のパン屋が破産しそうな案件を出してきました。
ですが、残念ながらあくまで製法については、知的財産ですので教えてくれないでしょう。ディアナ様がお立場を持って頼めば教えてくれるかもしれませんが、それでも他のパン屋への流出は防ぐように誓約書を書かされるのは間違いありません。
ただ、ディアナ様のお言葉は確かに正しくもあります。
材料はほとんど同じで、ランドワーズのパン屋だけが王室、貴族御用達として好まれて儲けているというのは、市民を憂うディアナ様にしてみれば納得のいきかねることでしょうから。
「しかし、ディアナ様」
「やっぱり駄目ね。さすがに、秘伝の製法を他のパン屋に教えると言って、良い顔はしないでしょうし」
「それがお分かりいただいているのでしたら……」
「じゃあ、こうしましょう」
ぽん、とディアナ様が手を叩かれました。
そして、こういうときには大抵ろくなことがありません。ほとんどの場合、私が約束をしていた場所に謝りにいくことばかりです。
ディアナ様にとって、自分の気分こそが一番なのですから。
私はただ振り回されるだけです。
いいんです。それだけのお給金は貰っていますから。
「市井のパン屋を全員、この屋敷に集めて頂戴。そこで、ランドワーズのパン屋がどんなパンを売っているのか教えることにするわ」
「……どういうことですか?」
「製法を教えたくないのなら、現品を見せればいいのよ。そうすれば、その品質に近付けるためにパン職人が努力することになるわ。そうすれば、いつかはランドワーズのパン屋で出しているものと同じ品質のものを、安価に提供できるようになるかもしれない。そのために試食会を開くのよ」
「なるほど」
「こうしてはいられないわね。ラミア、すぐにランドワーズのパン屋に、追加で注文をしておいて。それから、わたしの名前を使って、国内のパン職人をできる限り集めなさい。ううん、それだと場所が足りないかしら。国王陛下に、広間を貸してくれるようにお願いしようかしら」
「承知いたしました。恐らく、国王陛下もディアナ様のお言葉でしたら否とは言わないでしょう」
「ええ。それじゃ、今日中にお願い」
「は」
国王陛下は突然の要請に、戸惑うかもしれません。
ランドワーズのパン屋は商売の妨害に、泣くかもしれません。
パン職人たちは突然の招集に、不安を抱くかもしれません。
ですが、私にとってはこれでいいのです。
これで、ディアナ様は大賢者を続けてくださるのですから。