ディアナ様、おやすみなさいませ。
行きは準備に一日かかりましたが、帰りは特に準備することもなく終えました。
というのも、《時間移動》はあくまで時間移動をする扉を作る魔導なのだそうです。ですので、扉さえ作っておけば、あとは特に準備することもなく戻ることができるのだとか。私にはよく分かりませんが、ディアナ様は全てをご理解なさっているのでしょう。
と、いうわけで。
海賊船で三日間過ごしていたとは思えないほど迅速に、私とディアナ様はお屋敷まで戻ってきました。
それも、出発したその日の夕刻です。なんだか体の感覚と実際の過ぎた時間に齟齬があるせいか、なんだか曖昧に感じますね。
ハンスへと色々言ったのは昼前で、現在は夕刻ですし。時間の感覚が狂いそうです。
「ふぅ……まぁまぁ楽しかったわ、ラミア」
「お疲れ様でございます。ディアナ様」
まぁ、平和に終わって良かったですね。これで、しばらくはディアナ様も我儘を申されずにお仕事をしてくださるでしょう。
今回は私も振り回されてばかりでしたが、結果的には一日、この魔導陣を描くために消費した時間以外は全く経過しておられません。いつだったか、辺境の生産量が低いからと現地へ見に行き、七日間戻ってこられなかったことを思えば短いものです。あのときは本当に困りました。
とはいえ、私も少々疲れましたね。慣れない海の上での生活でしたし。食事も美味しくなかったですし。
「それじゃ、魔導陣消しておくわ。もう使わないし」
「ディアナ様、一つお伺いしたいことがあるのですが」
「どうしたの?」
「そちらの魔導陣なのですが……再び使用することは、可能なのでしょうか?」
私には魔導の知識が全くありません。
ですが、ディアナ様はよくご存知のはずです。何せ、何の資料もなくこの魔導陣を一人で組んだお方ですから。
ちなみに、魔導陣を描くのに必要なのは魔素といわれる魔力のこもった素材からできた白墨です。
「再利用? もちろんできるわよ」
「それは、別の時代でも大丈夫なのですか?」
「ええ。年代と場所さえ書き換えれば、そのまま使えるわ」
「承知いたしました。では、そのまま残しておいていただけますか? 年代と場所だけ消してくだされば」
「……? まぁ、いいけど。変なラミアね」
この広間は、普段使っていないし大丈夫でしょう。私の方からしっかり施錠をしておけば、誰も入らないでしょうし。
もちろん、これを残しておくことには理由があります。
またディアナ様が変なことを言い出したときに、今回のように昔に戻ることで解決できることが多々あるでしょう。その際に、魔導陣を描くのに日中まるまる失われては困ります。消さずに置いておけば、いざというときにこのまま使えるのですから。
そうすれば、最低限の時間の消費でディアナ様に満足していただけます。
「はぁ……今日はもう休むわ」
「夕食は如何なさいますか?」
「シェフに、今日はいいって伝えておいて。揺れる船の中だったから、ろくに寝てないのよ。今なら泥のように眠れる気がするわ」
ふぁ、と欠伸を噛み殺しながら、ディアナ様がそう言ってきます。
それなら私も助かります。あとは、ディアナ様が寝台に入るまで付き添えばいいのですから。早めにあがれますね。
帰り道で、『シュヴァリエ』のケーキを買って帰りましょう。今日は体重に関しては全てを忘れます。ワインもとっておきを開いてしまいましょう。ひとり酒ですけど。
「さて、湯浴みをするわ」
「はい。承知いたしました」
ディアナ様の湯浴みも、私の仕事です。
共に湯所へ向かい、ディアナ様のお召し物を取り、そのまま体を洗わせていただきます。
毎日、ちゃんとゆっくりと成長してゆくディアナ様のお身体をしっかり洗わせていただいて、寝る前のお召し物を用意いたします。簡素な作りながら、生地のしっかりしたそれを纏って、ディアナ様はそのまま寝台に入りました。
ちなみに、寝台のシーツもご用意したのは私です。ディアナ様にはディアナ様のお好みがありますので、ちゃんとそのあたりも分かっている者がしなければご不満を覚えるのです。
こう考えると、ディアナ様が海賊生活にご不満を覚えたのも当然かもしれません。
そもそもディアナ様の生活は、私たちが全力でご満足いただけるようにしているものなのです。寝台に対する拘りもそうですし、食事に対してもそうです。お酒にあたっても、最高級というだけではありません。ちゃんとディアナ様のお好みに合わせて用意しているのですよ。
それが、海賊船におけるろくに整えられていない生活です。
シーツどころか、ただ板に布がかけられただけの寝所でした。それも、今まで体も洗っていない男の海賊が寝ていたものでしたので、臭いこと臭いこと。私は耐えられなくて、座って寝ていましたからね。
食事も、ろくなものではありませんでした。日持ちするものをそのまま、不衛生な皿に並べただけの代物です。食器類など洗っているのかどうか分かりませんし、私はフォークを使えずに手で食べました。ちなみに、手を洗うのはディアナ様には《創水》を使っていただきましたので、ちゃんと衛生的ですよ。
お酒だって安酒ですし、それを飲むのは欠けたカップです。中にはカビの生えたものもあり、私は瓶のまま飲みました。蓋の締まっていた部分なら、まだ清潔だと思えたからですね。
と、いうわけで。
海賊船での生活は、最悪この上ないものだったのですよ。
私は七日ほど保つと考えていました。しかし、私でこれですからディアナ様が三日と保たなかったのは当然でもありますよね。
「それでは、おやすみなさいませ。ディアナ様」
「ええ、おやすみ、ラミア。はぁ……やっとまともに眠れるわ……」
すー、という寝息が聞こえてきましたので、お部屋を後にします。
そして、そこに転がっている今回の発端となった本――『海賊王ハンス』を持ち出します。ちゃんとこちらは、お屋敷の蔵書室に戻しておかないと。
その道中で、なんとなく懐かしいなと思いつつ、ぱらぱらとページを捲りました。
私がこれを読んだのは、まだ十歳にもなっていなかった頃です。内容、全然覚えてないですね。
実に懐かしいです。
「案外、覚えていないものですね……」
ええ、そうでしたそうでした。
悪い海賊の船に捕まったハンスは、海の女神ラケルススの加護によって、悪い海賊の船を得ることになるのです。
その後、女神ラケルススの導きと共に次の島へと向かい、そこで生涯の友ミロクとバベッジと会う――。
「……あれ?」
この話、全く覚えていなかったのですけど。
なんか、この流れさっき見た気がするのですが。