07 銀狐の朝
イーフォの朝は早い。
毎日山から日が顔を出す少し前に必ず起きる。
起きてからまずすることは姉の顔を見ることだ。姉は自分の隣で静かに眠っている。光が零れ落ちる金の瞳が閉ざされているのは悲しいが、あとでまた見れるので、と名残惜しくもベッドから静かに起き上がった。
部屋から音を立てずに出ると、一階に降りる。たった二人で住むには大きすぎる家だが、自分の要望をすべて取り入れて姉が作ってくれたのだと思うと自然と笑みがこぼれてしまう。
イーフォはお風呂場に向かうと、まず体を洗い、ついでに眠気も覚ました。髪や耳や尻尾は丹念に洗う。もちろん姉がふわふわを堪能できるように、だ。最初は身体に奴隷時代につけられた小さな傷がたくさんあったが、今は姉の魔法のお陰で綺麗な肌に戻っている。
身体を洗い、すっきりすると、お風呂から出て身だしなみを整える。髪にブラシを通したら、脱いだ服と洗うものを洗濯の魔法具に入れ、自分の魔力を流し込んだ。その魔力量はイーフォにとっては微々たるものだが、本来は魔力が少ない者だと魔力枯渇で倒れてしまうほどだ。しかし、イーフォは難なくその量を魔法具に流し入れ、動かした。
洗濯が終わるまでにすることは、料理だ。
最初のころは姉が毎日魔法陣で作ってくれたが、一緒に暮らし始めて半年近く経った今、イーフォが作ることがほとんどだ。姉の料理はとても美味しいが、自分でも手ずから姉に作ってあげたかった。
イーフォは料理などほとんどしたことがなかったので、姉に教えを請うたところ、『私は完璧だからな、教えてやろう!!』とすぐに料理教室が開催された。しかし、その料理教室はイーフォの想像していたものとは全く違った。
なぜならば、姉は料理が全くできなかったからだ。
一緒に過ごすうえで知ったことだが、回復の魔法が使えるが、薬の調合が趣味らしく、自分の研究室でよく薬を作っていた。薬草を切るナイフさばきは手慣れていた。
普段は研究部屋に出入りさせてくれないが、一度だけどうしても、とお願いして見せてもらった。その時には、ナイフを入れるたびに切断面から新しい根が出る薬草、鍋で蠢き、どんどん色を変えていく液体と驚くばかりだった。聞くだけだと不気味で、実際鍋で煮立っていた薬も危なそうな色をしていたが、姉の調合する姿は綺麗だった。鍋を混ぜると手から吹きこぼれる光の残滓。可憐な口から紡がれる呪文。次々と調合を進めていく姉にイーフォは見惚れるばかりだった。
だから、イーフォはてっきり姉が包丁も使え、料理もできるのかと思った。姉も教えてやろうと言ったのだ。作れないとは疑いもしなかった。
料理教室で起きたのは、まずは爆発。次に得体のしれない色の煙が上がるスープの作成と新しい生物の生成。そして、人体切断だった。
姉は包丁を持つと、野菜を切り始めた。それはよかったのだが、次見た瞬間、姉の人差し指と中指が半分の長さになっていた。姉は『てへぺろっ!』と意味の分からない言葉を言って魔法でくっつけていたが、イーフォは『ヴァアア゛アア゛ア゛……』とよくわからない唸り声が上がる鍋の横で青ざめるしかなかった。そして、誓った。もう一生姉に料理はさせない、と。ナイフを使うのは見惚れるほど上手いのに、なぜ包丁になると自分の指を切断してしまうのか訳がわからない。
イーフォは結局、姉に料理本をもらうと、キッチンからは退場してもらった。文字を読めないイーフォは図解を見て作るしかなかったが、その日出来たイーフォの人生初のスープはそこそこ美味しかった。
その日からイーフォは料理本の図解を手本に毎日頑張って姉に料理を作っている。その進歩はめざましいものだ。
今日のメニューはパンとサラダだ。パンは昨日の夜に発酵させておいたのを焼くだけで、サラダは時停止庫に入ってる瑞々しい野菜を使う。姉が言うにはこの世界に存在しない野菜がほとんどらしいが、この世界の野菜自体あまり見たことのないイーフォには関係のないことだ。少し味見をしたり、時停止庫に磁石で貼ってある野菜の用途一覧を見て選ぶ。今日のサラダはマッシュマルートだ。マルートという芋をつぶし、姉が教えてくれたマヨネーズというソースを加えて混ぜる。あとは、緑を加えるためにキュウリ細かく切ってを加え、ボール状にしてプレートに置き、トメトで周りを飾ったら完成だ。トメトとは紫色のトマトだ。姉は『品種改良するなら名前も味もがらりと変えろよ、紛らわしい!』とよくわからないことを言っていたが、元はトマトという赤い食べ物らしい。イーフォにとってはトマトの方を後に見たのでそちらの方が違和感があるのだが、どちらも同じ味なので気にしないことにした。姉と過ごすにはいちいち気にしていたら体力が持たないと最近学んだのだ。
料理が出来上がると、イーフォは二階に上がる。もちろん姉を起こすためだ。
姉は朝に弱いのだ。起こさないと最長3日も眠り続けた。その時はイーフォが心配になって涙目になり、無理やり起こした。起こされた当の姉は『もう朝か』とのんきなことを言いながら欠伸をしていた。
その時ばかりはイーフォは姉に泣きついた。その3日間心配でならなかったのだ。ギンはいつものことだと教えてくれたが、イーフォはもう起きないのではないかと思った。わんわん泣くイーフォに姉は『心配かけたな』と初めて見る困った顔をしていた。完璧なはずの姉も泣く自分には弱いと知った。もちろんそれを盾に使う気は更々ないが。
その後聞いたが、姉曰く、起こされないと年単位で寝ることもあるらしいので、起こしてくれた方が助かるそうだ。なぜそこまで寝てしまうのか理由を聞いたら、千年以上好きな時に寝て好きな時に起きていたからだそうだ。姉が千歳を超えていることに驚いたが、その時にはこの姉ならもう何でもありだという思考がイーフォに確立されていた。驚きを超えて全て肯定して、納得できるのである。
「おねえちゃん、おーきーてー!!」
イーフォは姉の身体をゆすった。散らばっている紺色の髪が揺れる。細くて絹のように艶のあるその髪は姉の自慢なんだそうだ。
「おねーちゃん、ごはんだよー!」
イーフォが小さな肩を揺すると、うーん、というけだるげな声が聞こえた。
「私はねむい。だれだぁ? 私を起こすのは?」
姉は目も開けずに布団にもぐりこむと、文句を言う。同時に周りの空気が重くなった。姉がイライラしたことで大量の魔力が滲み出ているからだ。魔力の少ない者ならば、この空気に圧倒されて気絶してしまうが、イーフォにはこの程度はどうってことなかった。これが日常茶飯事だからでもある。
「おねえちゃん! ごはんさめちゃうよ? きょうはおねえちゃんのすきなパンをやいたよ?」
「うーん、…パンだとぉ?」
「うんっ! ふらんすぱーん!」
「なんだとっ!」
大きな声と共に強い風が吹き、姉がかぶっていた布団は飛んでいった。窓の外に。相当強い風だったので、既にどこにあるのか見えないくらいの彼方だ。きっとアールか二号が回収してくれるだろう。
「フランスパンだとっ!?」
姉はさっきまでは開きもしなかった瞳をカッと開け、イーフォを見つめた。金の瞳からは相変わらず光が零れていた。
姉はフランスパンが大好きなのだ。 『完璧な私の歯に逆らってくる感じが癖になる』といつもバターをたっぷりつけて食べている。
姉に食べてもらうためにイーフォはかなりフランスパンを作る練習をした。姉はフランスパンの硬さに並々ならぬこだわりを持っていたので、何度も何度も失敗しては作り直した。姉が手伝いだすと生地から新種の生物が発生するのでもちろん横で眺めてもらうだけにしたけれど。
「うん。サラダもつくったから、はやくいこ」
「そうだな」
イーフォが急かすと、姉は目をごしごし擦り、大きな欠伸を一回だけして、伸びをした。そして、指をパチンと鳴らすと姉の服と髪型が変わる。薄いピンクのスネ丈のワンピースに黒いタイツ、そして、緩めの三つ編みになる。姉はどんな服でも似合うので、今日の服もとてもかわいい。
「おねえちゃん、にあってるよ!!」
「当たり前だ!! 私はなんでも似合うからな!!」
あはははは、と姉は手を腰に当てて高らかに笑った。
「じゃあ、行くか。メシだ、メシ」
イーフォは姉に手を引かれてダイニングへと向かった。
「そういえば、イーフォ、もうすぐ8歳になるんだったか?」
朝食の席で姉はフランスパンを手に持ち、たっぷりバターを塗ると、思い出したかのようにイーフォに聞いた。
「うん。あとちょっとで」
イーフォが嬉しそうに答えると、姉はイーフォの頭にポンと手をのせ、耳と髪をもふもふすると何かを考える仕草をした。
「うーん、…そうか。じゃあ、そろそろ魔法を習うか? ノートに書くだけの勉強も飽きてきただろう?」
イーフォはここに来てからずっと姉に文字の書き方から計算、そして、イーフォの母国ではない言葉を数か国語習っていた。姉がどういった意図でそうしているのかわからないが、何かができると姉が褒めてくれた。それに、勉強を教えてくれる間はずっと一緒にいれるのでイーフォは勉強の時間が好きだった。
だが、イーフォもずっと不満に思っていたこともあった。姉はずっと魔法を教えてくれなかったのだ。まだ早い、と言っていたが、旦那様の息子はイーフォより年下でも魔法を習い始めていた。だから、早いはずがないのだ。それに一刻も早く姉のように魔法を使えるようになりたかった。しかし、姉は頑なに教えてくれなかった。お願いしても断られるのにイーフォはいつも落ち込むだけだった。
だから、この提案に嬉しくなり、イーフォはガタリと立ち上がった。
「ほんとに!?」
「ああ、もう大丈夫そうだしな。他にもやりたいことはあるか?」
姉はイーフォの頭を絶えず撫で続けながら聞いた。少しくすぐったく思いながらイーフォは思案する。
「えーっと、うーん、……じゃあ、けんもやりたい!!」
「剣術か?」
「うん。おねえちゃんもできるってギンがいってた!」
「ほう、ギンがか?」
急に姉の声が低くなった。同時にイーフォの頭を撫でていた手も止まる。姉は庭の方を睨むように見ていた。そこは普段ギンがくつろぐのにお気に入りの場所であった。
「それ以上は聞いたか?」
少し冷たい声で聴かれ、イーフォは目をしばたかせてたじろいだ。
「う、ううん。けんができるってことだけ」
「…そうか。それならまあ、いい」
姉は何か考えていたが、それよりも、と話を変えた。
「それよりも、魔法の話だったな。いつから始めたい?」
「す、すぐがいい!!」
「すぐ、か。そうだな。わかった。じゃあ、2、3日出てくる」
「えっ?」
「イーフォに教えることになるんだからな、この世界で最高の魔導士を攫っ……連れてきてやろう!」
「お、おねえちゃん…?」
イーフォの焦りは見えていないのか、じゃあ、行ってくる! といって姉はすぐに二号を呼ぶと、その背に乗って去っていった。
あっ、と咄嗟に伸ばした手は空を切り、イーフォはその手を見つめた。しかし、直ぐに気を取り直す。この半年で学んだのだ。姉の行動はいつも唐突で突拍子もない、と。時々数日出かけるので今回も同じようなものだろう。イーフォは変わらず待つだけだ。追いかけたくてもその力はない。
だが、予想外だった。まさか、魔法を教えてくれるのが姉ではないなんて。