06 銀狐のおねえちゃん
銀狐は奴隷だった。
小さい頃に自分の銀狐族が住む集落が襲われ、そして、家族からは引き離され、奴隷になった。
銀狐は幼過ぎて、もう、両親のことはほとんど覚えていない。ただ、母と父を何度も読んで、待って、と追いかけようとした記憶だけが鮮明だった。その時、両親は振り返りもせずに奴隷商の檻に入ってしまったが。
銀狐も奴隷になり、奴隷商に身柄を拘束された。焼き印を入れられ、檻に閉じ込められた。
奴隷商は珍しい銀狐族である銀狐を高く売りたいらしく、小さいが比較的綺麗な檻だった。しかし、そこにあったのは孤独だけだった。
銀狐は檻にいる間、ほとんど何もなかった。1日2回食事を持ってくる者と時々自分を見定めにやって来る客たちを見るだけで、ずっとずっと独りぼっちだった。
銀狐は寂しさのあまり、心を空虚にするようになった。何も考えない方が楽だと知ったからだ。銀狐はだんだん、空になっていった。
どれくらい経ったのかわからない。ただ銀狐の身体は少しばかり大きくなっており、今日も何も考えずにいた。
ある日、いつもなら朝晩と食事を置きに来るだけの奴隷商の召使が変な時間にやってきた。銀狐は何も気に止めずに檻の隅でぼーっとしていたが、その召使が檻を開けて何かを放り込んだのを視界の端でとらえた。
何も考えないようにしていたのに、なぜか銀狐にはそれが気になった。
軽く身を乗り出してみると、それは自分よりも少し年齢が上の女の子だった。
女の子は両腕に枷がはめられており、体中が傷だらけだった。
「ううっ……!」
女の子は呻き声をあげて、ゆっくりと目を開いた。
その瞳は金色で、この薄暗い場所で銀狐には何故か光って見えた。
「ここは……?」
女の子は傷があることなど嘘のように自然に起き上がると、周りを見回した。そして、自分の腕に頑丈な枷がはめられていることを知ると、盛大に舌打ちした。
「チッ! あいつらやっぱり奴隷商だったか! 私に手枷をはめるなんぞ、いい度胸だな!!」
忌々しげに吐き捨てると、こんな屈辱は久しぶりだ、と急に笑い出した。あはははは、という声が小さな檻に良く響いた。
「しっかし、あいつらは私が魔法を使えると知っていたんだろう? 私の実力を知らずにこんな仕打ちをするだなんて馬鹿だなぁ」
女の子は笑いを止めると、指をパチンと鳴らした。すると、彼女を拘束していた手枷はゴトンという鈍い音を立てて地面に落ち、体中の傷は消えていた。
「さあ、どう料理してやろうか」
女の子はにやりと黒く笑い、また指を鳴らした。すると、ふわりと風が起こり、服装がボロボロの布切れから綺麗なものに変わった。
「わぁ、すごい……!」
その美しさから、銀狐は目を見開き、驚きの声をあげた。久しぶりに心に何か満ちるものがあったのだ。
すると、女の子はこちらを向き、驚いた表情をした。自分以外の誰かがいたことに今気づいたようだった。光が零れる瞳をいっぱいに見開いていた。
「驚いたな。私以外に人がいるとは。まさか隠蔽の魔法でも使っていたのか? その歳で私を欺くとはやるな。お前は誰だ? ここの奴隷か?」
「ぼ、くは……」
久しぶりに言葉を投げかけられ、銀狐は言葉に詰まった。自分の名前がないのだ。
「ん? なんだ? 自分が誰だかわからないのか?」
美しい金の瞳に問いかけられ、銀狐は小さく頷いた。そのまま頭は下がり、俯むいてしまう。
女の子の質問に答えられなかったのが無性に悲しかった。
「そうか。まあ、お前は小さいからな。そういうこともあるだろう。ーーーじゃあ、私は行くな。あいつらに思い知らせてやらんと」
じゃあな、という言葉を聞き、銀狐は驚いた。もう、行ってしまうのか、と。それは嫌で、バッと顔をあげて、咄嗟に手を伸ばした。
「ま、まって!!」
銀狐の声に女の子は足を止める。その顔はとても不機嫌だった。明らかに自分と同世代の子供なのに、威圧感があって怖かった。
女の子は薄暗い檻の中でほのかに光っている瞳を細めると、低い声を出した。
「なんだ? 私に何の用だ?」
銀狐は今度は何か答えねば、と震える手をぎゅっと握った。
「た、たすけて!!」
「なぜだ?」
「そ、それは……」
銀狐は咄嗟に出た言葉の理由に詰まると、女の子はすたすたと銀狐に歩み寄り、そして、隅に寄り掛かっていた銀狐の頤をくいっとあげた。
「ん? 言ってみろ。私がお前を助ける理由なんて―――」
女の子は途中まで何かを言いかけると、急にぴたりと止まった。そして、光が零れ出る瞳を飛び出そうなくらい見開いた。一瞬泣きそうに見えたのは銀狐の幻覚かもしれない。
「……あるな」
女の子は一度目を瞑ると、突然にやりと笑った。その瞳は銀狐の頭の上を見ていた。
銀狐は美しい瞳が目の前にあり、たじろぐ。
「お前、助けてほしいのだろう?」
突然意見を変えた女の子に驚くが、すぐに頷く。この好機を逃せない。
「う、うん!」
「いいだろう。この私が直々に助けてやろう」
まずは許可が必要だな、と女の子は呟き、そして仁王立ちになった。
「まあ、少しの間一緒に暮らしてやろう」
そう女の子は言うと、また指を鳴らして先ほど着ていた服になり、そして傷も元に戻った。見ていて痛々しい傷ばかりだった。
これでよし、と女の子は頷くと、はっと思いだす。
「そういえば手枷もあったんだったな」
「あ、あの、だいじょうぶなの?」
あまりにも痛々しい傷に銀狐はつい声をあげた。不思議なことが次々と起こっているので、もっと聞きたいことはあったが、今はそれよりも白い肌に走った血の跡が見える傷が気になった。
しかし、女の子は何ということもなさそうだった。
「まあ、大丈夫だ。気にするな。それよりも、お前は栄養状態が悪いな。毛並みも悪い。メシは食っていないのか?」
「た、たべてるけど……」
「ああ、量が少ないんだな」
女の子は手をが軽く振ると、薄暗かった檻の中は急に眩しくない程度に明るくなり、銀狐の目の前に温かいスープとパンが現れた。スープから漂う香りが銀狐の食欲をそそった。
「食え。私はモフみのためには努力を惜しまんからな」
ポンッと銀狐は頭を撫でられ、涙がジワリと浮かんだ。久しぶりに感じた人肌だった。それは温かくて優しくて、少しくすぐったかった。
銀狐は空腹を満たすために勢いよくスープに飛びつくとがつがつと食べ始めた。その味は優しかった。
女の子は銀狐が食べきるのをしっかり見届けると、何か考えながら口を開いた。
「そういえば、お前、名前が分からないのだったか?」
おなか一杯になった銀狐は頷いた。
銀狐族は7つになるまで名前はもらえず、誰かと誰かの子、という風に呼ばれるのだ。小さい銀狐もそうであったので、名前はない。
それを聞いて女の子は納得したようにそれは不便だな、と頷いた。そして、あごに手を当ててまた何か考え込む。しかし、すぐに顔を上げた。そこにはいい笑顔があった。
「じゃあ、私が直々に名前を付けてやろう! 光栄に思えっ!」
「あ、ありがと……!」
銀狐は女の子の勢いに押されてしまったが、それを女の子が気にする様子はなかった。
「うーむ、そうだな。……イーフォ、がいいな」
「いー、ふぉ…?」
「ああ、そうだ。うん、それがいい。お前の名は、今日からイーフォ、だ」
「……イーフォ、かぁ」
銀狐――イーフォは自分の名前を口の中で転がすように何度もよんだ。奴隷商たちを銀狐を『あれ』や『それ』としか呼ばなかった。人生初めての名前があることがイーフォには嬉しかった。
同時に気になった。女の子の名前をイーフォは知らなかった。彼女の名前を知りたいと思ったのだ。
「あ、あの、おねえちゃんのなまえは?」
「ん? 私か? 私の名前はもうないぞ。魔女とでも呼ぶがいい。まあ、おねえちゃんというのも悪くないな」
名がない、と聞いてがっかりするが、おねえちゃんというほうがしっくりくる気がした。
イーフォは嬉しさで頬が緩み、にへらと表情を崩して笑った。
「じゃあ、おねえちゃんがいい」
そうしてイーフォとイーフォのおねえちゃんの檻の中での生活は始まった。
イーフォにとって、おねえちゃんと居るのは楽しかった。
彼女が教えてくれることはとても面白いし、食事はおいしい。
「イーフォ、お前の種族はこの世界では珍しいのではなかったか?」
「うーん、よく、わかんない」
「そうか。じゃあ、私が直々にとある世界で珍しかった銀狼族の話をしてやろうっ!!」
「やったー!」
おねえちゃんはよく外の世界の話をしてくれた。
「おねえちゃんって、いつもこわいゆめみるの?」
「ん? どうしてだ? 私は完全無敵だぞ。怖い夢なんぞ見ない」
「ほんと?」
「どうした? 私を疑うというのか?」
「ううん。でもね、おねえちゃんってねてるときにいっつもうんうんいってるの。だからね、だいじょうぶかなって」
「……そうか?」
「うん。さびしそうだなって」
「………そう、か」
「だから、だいじょうぶ?」
「……ああっ! もちろんだ! 私は完璧だからな!! そんなことにはビクともしない!」
「よかったぁ!」
おねえちゃんはいつも一緒に寝てくれた。
「イーフォ、お前はここを出たらどんな家に住みたい?」
「いえ?」
「ああ、そうだ」
「うーんとね、えーっとね、ひろいばしょで、やまがあって、もりがあって、みずうみがあって、おっきいおうちがあって、おにわがあって、それで、おねえちゃんがいるところ!」
「随分と贅沢じゃないか」
「でもね、おねえちゃんがいればどこでもいいや!」
「そうか? 一番贅沢だな」
「そうなの?」
「ああ。だが、参考になった」
おねえちゃんはいつもイーフォの願いを聞いてくれた。
「イーフォ、見ろっ!! 今日はグラタンというのをだ!! これはとある世界の食べ物でな、素晴らしくおいしいぞ!!」
「わぁぁ、おねえちゃん、すごーい!」
「あはははは。当たり前だろう? さあ、食え!」
「いっただきまーす! ……あちっ!」
「ああ、熱かったか? 気を付けて食えよ」
「うん! ……おいしぃぃぃ!!」
「そうだろう! なんせ、私が選んだものだからな! まずいわけがないっ!!」
毎日が楽しく、イーフォはどんどん空っぽになった心を満たしていった。
しかし、それは1か月ほどで終わりを告げた。
「私は今日中にここを出ることにした」
突然、おねえちゃんは別れを切り出した。
イーフォにはそれは衝撃的だった。泣いて、泣いて、行かないでと泣き縋った。
「おねがい…! いかないでぇ!」
「まあ、イーフォ、落ち着け。私はお前を助けると言った。また会いに来る」
「ほんとぉに?」
「ああ、ここの神からお前を引き取る許可をもらった。その許可には条件があったからな。ちょっとばかし迎えに来るのに時間がかかる」
おねえちゃんが言っていることはイーフォにはほとんどわからなかったが、それでも、彼女が迎えに来てくれる、といったのが嬉しかった。
「イーフォ、お前は今、5つだろう? 私はいくつに見える?」
「えーっと、7さいくらい?」
「そうだな。じゃあ、今の私の歳まで待てるか?」
イーフォは指を折ってあと何年だか数えた。折った指は2本だったが、それはとても、とても長い期間に思えた。
「そんなにぃ?」
「ああ、そうだ。だが、それまでの我慢だ。できるか?」
おねえちゃんは真っすぐイーフォを見つめ、答えを待った。
出会った日から変わらないその光が零れる瞳は真摯にイーフォを見つめていた。それは、絶対に迎えに来ると瞳で語っているようだった。
イーフォは頑張って言葉を絞り出した。
「わかっ、た……。ぼく、おねえちゃんを、まつ」
「そうか。偉いぞ。まあ、でも、本当に辛いときは呼べ。解決くらいはしてやろう」
おねえちゃんはわしゃわしゃとイーフォを撫で、そして同じ手を軽く振ると、イーフォの手首に細い腕輪が現れた。それはおねえちゃんの瞳と同じ透けるような金色だった。
「これはイーフォが命の危機にさらされた時に私に知らせてくれるものだ。それまでは私は何もできん。耐えろ。わかったか?」
「うん!」
腕輪があるだけで、おねえちゃんが迎えに来てくれると安心できた。
「じゃあな。私は面倒ごとを片付けてくる」
おねえちゃんはそういうと、来た時と同じように手枷を外し、服を変え、にこりと笑うと去っていった。
イーフォは去る姿が見えるわけではなかったが、ずっと手を振り続けていた。
イーフォが売られたのはそれからすぐだった。
イーフォの奴隷生活は辛かった。
辛い、その一言に限った。
イーフォはとある貴族の奴隷となった。その貴族は珍しい種族のコレクターで自分の箔になるからと侍らせたり、愛でたりしていた。イーフォもそのコレクションの一員になった。
最初はどうなるのかと体を強張らせていたが、イーフォはきれいな服を着せられ、行儀作法を身につけさせられ、主人の向かう仮面パーティーなどに付き添うだけだった。これならばおねえちゃんが迎えに来てくれるまで耐えられると思った。しかし、それは最初だけだった。
その主人にはとある性癖があった。
それはものを傷つけて喜ぶ、というものだった。
嗜虐心が強く、奴隷たちを痛めつけ、いたぶった。
イーフォもその対象の一人になった。
毎日鎖でつながれ、鞭で打たれ、暴力を受けた。
それでも主人はパーティーに連れて行くことはやめなかったので、体の見えないところは傷だらけになった。
パーティー客の前では何もないふりをしろと言われたので、痛くても涙を吞み、歯をくいしばって耐えた。
腕についている金の腕輪をさすって。
大丈夫だ、おねえちゃんが迎えに来てくれる。
それが自分を奮起させるための魔法の呪文だった。
毎日毎日毎日それを唱え続けた。
そして、何日経ったかわからない頃、―――おねえちゃんは迎えに来てくれた。
朝、いつもと変わらない固いベッドで目を覚ました時だった。
声が、聞こえた。
「待たせたな、イーフォ」
それは待ち望んでいた言葉だった。
飛び起きて、ベッドの脇を見ると、あの日と変わらないおねえちゃんがいた。
その金の瞳からは相変わらず美しい光が零れていた。
嬉しさが全身から込み上げてきた。昨日も鞭の日だったから、体中が痛いはずだったが、全く気にならなかった。
イーフォはおねえちゃんに飛びついた。
「おねえちゃんっっ!!」
おねえちゃん、おねえちゃん、と何度も呼び掛け、抱きしめ、これが現実であると実感する。
「イーフォ、よく待てたな。偉いぞ」
「うん、うん……! ずっと、ずっと、待ってた…!」
「そうか、さすが私の弟だな」
ぽふっとおねえちゃんはイーフォの頭に手をのせると、優しくなでた。それは初めてあった日と同じで温かくて、やっぱり少しくすぐったかった。
腕の中に抱きかかえられていると、さっきまで寝ていたはずなのに、また眠気が襲ってきた。なんだかとても心地よかった。
「じゃあ、行くか。私たちの家に―――」
イーフォのその屋敷での記憶はそこまでだ。