名も無き英雄
夢とか希望とか愛とか、そういった目に見えない、しかし、実際に存在する非科学的なものをひとまとめにすることができたなら、どれだけ身軽な人生が送れただろうか。
爛れることのなく、悲観的になることのない、健康な、満足した、享楽的な人生が送れただろうか。
今になってそんなことを考え出すだなんて、遅すぎることで、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
ぐちゃぐちゃになった身体の中で、ここまではっきりとした意識を保てていること自体が奇跡なのだから。
生きていることが、奇跡なのだから。
けれど意識はあっても、痛みを感じない。痛覚が死んでいる。
だから実際に自分がどのような惨状になっているのか、想像するしかない。手足があらぬ方向を向いているのだろうか。それとも、頭部だけ崩壊しているのだろうか。現実的なことは何一つわからない。何者もわからせてはくれない。教えてはくれない。
神を信じるわけではないけれど、こんなとき、神は僕にどんなことをしてくれるのだろうか。どういった救いの手を差し伸べてくれるのだろうか。
正直、命が惜しいわけじゃない。むしろここで死んだって良い、目的は果たしたから、僕自身がどうなったって構わない。
でも唯一願うとしたならば、もう一度だけ、彼女に触れることができたら良かったと思う。細く華奢な身体を抱き締め、柔らかな髪の毛を撫で、優しく温かい可愛いあの声を耳元で聴けたなら、それ以上のことは望まない。
そのために一人でわざわざこんな危険地帯にまで足を運んだのだから、叶ったって罰は当たらないと思うのだけれど、現実はそう良心的ではないようだ。
何故だろう、さっきまで異様な達成感に支配されていた筈なのに、彼女のことを思い出すと、心臓がぎゅっと締めつけられたかのように胸が苦しくなる。
言い言えぬ不安感とこの世への嫉妬が僕の心を支配する。
目的は果たした。果たしたのだ。今まで誰にも成し得られなかった偉業と言うレッテルを貼られた超難易度クエストを踏破したのだ。
なのに何故、こうも生きたいと願うのか。
僕にはわからなかった。誰もわからせてはくれなかった。教えてくれる人はいなかった。
悲しい。精神が壊れるような感覚。求めてはいけない幸福を求めてしまった僕への罰なのだろうか。
彼女は一国の王女様で、僕は冒険者の端くれ。そんな天と地ほどの距離のある二人が出会い愛を育むことが、それほど神は気に食わないのか。それとも、わざと引き離さんとしているのか。
もしそうならば、僕は神を糾弾しよう。
己のエゴで縛りつける薄汚い掌の上で踊らし、嘲笑う目に見えぬ彼らに呪いをかけよう。
怨念という言葉では言い表せぬほどの魂の邪気を、聖なる存在であるとほざく馬鹿げた愚か者どもにお見舞いしてやろう。
……なんて、馬鹿げた愚か者がほざいてみるのは、誰もが見ても滑稽に見えることだろう。
それで良い、それで良いのだ。滑稽な愚か者になれば、きっと彼女は僕のことを覚えていてくれる。ずっと記憶の片隅に居座らせてくれる。多分、その他の人々にも、だろうけれど、それで良い。
ちっぽけで弱々しい、何の力も持たない非力なたった一人の冒険者の端くれが、ここまで強くなったのだ。小さな英雄になっても良いと思うのだけれど、如何せんそうはいかないだろう。英雄になるのには、僕はちょっぴりいろいろとやり過ぎた。
僕はここにいるぞ。
誰にも到達できたことのない、未踏だった地に、僕は今いるぞ。
なんて心の中で満足気につぶやいてみた。少し、虚無感が生まれて、寂しくなった。
ああ、意識が遠のいていく。そろそろこの美しき残酷な世界ともお別れだ。
無神論者ではあるけれど、たまには神を信じてみても良いんじゃないだろうかと、今になって思い始めた。
本当に僕は馬鹿げた愚か者だな。
じゃあね、世界。またね、神様。
どうか彼女に、幸せな時間を送らせてください。彼女は少し頑張り過ぎてしまうところがあるから、僕が居なくなったことで少しでも悲しんでくれるといいな。そうすればほんのちょっぴり休んでくれると思うから。
大好きな彼女にまた死なれたら困るもの。僕がこんなところまで来た意味がなくなってしまうもの。
ああ、色を失っていく。
さようなら、僕の心を潤してくれた愛しき人。
いつまでも、僕は貴女を思っています。
いつかまた出逢えると良いな。
そうしてすっと、眠りが来た。