9羽目「もう決めたんだ」
外に出ると変わらず雨が降り注いでいた。
僕は傘と鞄を手に持ち、自宅前の道路に出た。
未帆は何処へ行ったのだろう。あまり遠くに行ってなければいいが。でも、彼女が家を出てから5分も経っていないし、きっと近くにいるはずだ。
そんなことを考えながら辺りを見回した。
彼女を見つけるのにそう時間はかからなかった。
雨の中、とぼとぼと背中を丸めて歩く女性がいた。間違いない。あれは未帆だ。まだそれほど離れていない。
僕はすぐさま彼女を追い掛けた。
「未帆!」
走りながら名前を呼んだ。しかし、雨音に掻き消されて思うように彼女へ届かなかった。
そうこうしているうちに彼女が走り出したのが分かった。せっかく近づいた背中が再び遠のいていく。
僕は走るスピードを上げた。
雨粒が顔にかかって、前がよく見えない。普段なら何ともないであろう距離なのに、雨のせいで果てしない道のりに感じた。今日程自分の体力のなさを恨んだ日はない。
手を伸ばせば未帆に触れられる距離まで辿り着いた時には息も絶え絶えだった。
「未帆……待って」
僕は呼吸を整えながらもう一度名前を呼んだ。
それに気づいた彼女は足を止めた。
「風邪引くよ」
背中を丸めて俯く未帆に傘を差し伸べた。
「私……もう帰れない」
彼女は今にも泣き出しそうな声で言った。
僕はただ「うん」と返事をした。分かってる。それに、僕達はもうあそこへ帰るべきじゃないんだ。
僕は傘を差し伸べたまま未帆の正面に回り込んだ。
激しさを増す雨が僕達に容赦無く降り注ぐ。
未帆は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。母にぶたれて赤く腫れた頬の上を大粒の涙が流れていく。
僕は泣きじゃくる彼女を片腕で引き寄せた。雨に濡れた体は酷く冷たかった。
未帆を守ると、ずっとそう思ってきたはずなのに、僕は自分の領域ばかりを守ってきたんだ。
あれから僕達は行く宛もなく歩き続けた。あの家からただただ離れたかった。
正直、先のことなんて見えていない。鞄一つで飛び出してきたからお金もほとんど持っていないし、これから2人きりでどうやって生きていけばいいのかなんて検討もつかない。
でも、そんなこと今はどうでもよかった。未帆の側にいられるのなら全部どうでもいいんだ。
いつの間にか辺りは薄暗くなり、気温が少し下がったように感じた。
歩き続けていると辺鄙な場所に出た。
見渡す限り畑や田んぼだらけで、民家どころか建物自体ない。今は使われていないような古い木製のバス停があるだけだ。
道路脇を流れる小川がぴしゃぴしゃと音を立てていた。
「ここ……知ってる」
未帆は呟いた。
「小学生の夏休みに来たよ一回。何しにだったっけ……、えーと……」
何かを思い出そうと額に手を当て考え込む未帆。
次の瞬間、彼女はよろよろと膝から崩れ落ちそうになった。僕は慌てて彼女の正面に回り、体を受け止めた。僕に寄りかかる彼女は憔悴していた。
「ごめんね……ちょっとめまいが……」
「いいよ、休もう。無理させてごめん」
母にあれだけのことをされたんだ。肉体的にも精神的にも大分疲弊しているだろう。
僕達はバス停で休むことにした。
所々に蜘蛛の巣が張っていてあまり綺麗とはいえない場所だったが、この際雨風を凌げるのならどこでもいいと思った。
古びた木の椅子に腰を下ろすと僅かに軋む音がした。
「雨……止まないね」
そう呟く未帆は小さく震えていた。髪の毛も制服もかなり濡れている。このままでいたらきっと風邪を引いてしまう。つい最近熱を出したばかりなのに。
上着を貸してあげたかったが、あいにく僕の制服も濡れていた。
今はただ一刻も早くこの雨が止むことを願うばかりだ。
闇が一層濃くなった。
先ほどよりも周囲が静かになったと感じるのは雨脚が弱まったからだろう。
時間を確認するために携帯を開くと母からの着信が沢山あった。時は既に6時を回っており、辺りの電灯が濡れた地面を照らし始めた。
ふと、木製の壁に貼り付けられている色褪せたポスターが目に止まった。愛らしい河童が飲酒運転の危険さを訴えているものだった。
僕ははっとした。
そうだ。思い出した。未帆の言うとおり僕達はここへ一度来たことがある。
小学4年の夏休みに僕と未帆、新の3人で小川へ遊びに来たんだ。新がこの辺で河童を見たと言ったから、本当にいるのか確かめるために。
正直、僕は最初から河童なんて興味が無かった。ただ、3人で一緒にいたかったんだ。
その時、アスファルトと何かが擦れる微かな音を聞いた。
僕は音がした方向に目を向けた。
2メートル程離れた所にある電灯の真下で自転車に跨る誰かがいた。傘を片手にこちらを見ている。背丈からして男だと思うけれど、傘の影が邪魔して顔がよく分からない。
僕は警戒しながらその人物をじっと見続けた。
沈黙が続く中、その人は傘を少しだけ後ろに傾けた。電灯がその人の顔を照らす。それと同時に張り詰めていた空気が一気に弾けた。
「あ、やっぱり一希だ」
新だった。彼とこんな場所で会うなんて思ってもみなかった。
「何でここに……」
僕は驚きを隠せないまま言った。
新は自転車から下りると、傘をすぼめながら近寄ってきた。
「ばあちゃんに用があって今から行くとこ。そっちは何してんの」
もう6時過ぎてるだろ、と彼はポケットから携帯を取り出して時間を確認した。
僕は何も答えなかった。答えられなかった。
新はずぶ濡れの未帆に気づくと顔色を変えた。普通ではない空気を感じ取ったようだった。
「……よし、来て」
彼はそう言って親指で自転車を指した。
「ここからなら、俺のばあちゃん家が結構近いから」
新の提案に僕は頷けなかった。
僕と未帆の問題だから他の人を巻き込みたくないと思った。
座ったまま動こうとしない僕を見て新は深い溜め息を吐いた。
「ほら、早く! 未帆濡れてんじゃん!」
怒ったように言う彼に肩がびくりと跳ね上がる。僕は反射的に未帆の方を見た。彼女の髪の毛から雫が滴り落ちている。さっきから彼女は黙ったままだし、体力の限界が近いのだと思う。
今はきっと新を頼るしかない。誰の力も借りず2人だけで頑張ろうと思っていたのに。こんな時に現れるなんて反則だ。
それから30分程歩くと新のお婆さんの家へ着いた。
瓦屋根の大きな家だった。広い庭には沢山の木が植えられている。
「ここに一人で暮らしてんの。だから、こうやってたまに様子見に来るんだ」
新は自転車を玄関前に止めながら言った。
お爺さんは大分前に他界したらしい。それからずっとこの大きな家に一人で住んでいるのだという。
家の中は外よりも大分温かかった。
「おーい、ばあちゃん」
新が玄関からそう呼ぶと、部屋の奥から「はいはい」と返事が聞こえた。
それから間もなくしてお婆さんがやって来た。小柄でどことなく優しそうな人だった。
「この2人、友達。途中で会ったんだ」
新は振り向いて僕達をお婆さんに紹介した。
「あら、そう」
不意にお婆さんと目が合った。
いらっしゃい、と日向のような暖かい笑顔で僕達を迎え入れてくれた。
ここには縛り付けられるような視線も、足を踏み入れる度に体が重たくなるあの感覚もない。
外は雨だというのに暖かくて優しくて、“あの家”とは大違いだ。
びしょ濡れの制服を乾かしている間、新はジャージを貸してくれた。
少し休んだら出て行くつもりだったけれど、「馬鹿言うな」と新に止められた。もう7時を過ぎ、雨も降っているということで、不本意だが一晩泊めてもらうことになった。
新がお婆さんと話をしている間、僕と未帆は客間らしき場所で座って待っていた。
僕は何となしに室内を見回した。
8畳程のその部屋には、足の短い大きなテーブルと振り子時計があるだけだった。時計は壊れているのか3時で止まったままだ。
「……自分が大嫌い」
未帆が唐突に話し始めた。
「私……邪魔じゃない? ……無理してない?」
静かな室内で、ぽつりぽつりと言葉を繋げていた。
泣きそうになりながら話す彼女を僕は抱き締めた。
彼女の発した言葉が頭の中でこだまする。胸がちりちりと焼けるように痛んだ。
「何言ってんの、馬鹿」
邪魔だなんて、そんなことあるはずがないのに。
でも、彼女がそう思ってしまうのはきっと僕のせいだ。
僕がもっと彼女の支えになっていれば、自分の気持ちを抑えていれば、こんなことにはならなかったんだ。
昔のように、ただの姉弟でいられたなら────。
誰かの足音が近づいてくる。僕は未帆の体をそっと離した。
「ごめん、待たせて」
新が湯気の立ったマグカップを両手にやって来た。
彼は持っていたそれをテーブルの上に置き、僕達と向かい合うように胡座をかいた。
「それで。何があったの」
彼は腕を組むと、真剣味を帯びた目で言った。
僕は返答に困った。僕と未帆の関係がばれて母の怒りが爆発した、なんて言えるわけがない。
「トラブルがあって……思わず家出してきた」
出来るだけ言葉を濁して答えた。
それから僕は先回りをして、トラブルの原因を聞かれた時に述べる「嘘」を考えていた。だが、新はそう深くは突っ込んでこなかった。
「……いろいろあるよな」
その言葉に僕は胸を撫で下ろした。
そんな中、でも、と彼は付け足した。
「帰るんだろ」
心臓が小さく波打つ。
「うん……まあ、帰るかな」
新の目を見て言えなかった。今、目が合ったら全部見透かされてしまいそうで怖かった。
「ちゃんと帰れよ」
僕が煮え切らない返事をしたためか、彼は強い口調でそう言った。
「……うん」
僕は頷いて、分かった、という振りをした。
「ちょっと冷めたかも」
新は申し訳ないという顔をしながら、テーブルの上のマグカップを僕達に差し出してきた。
マグカップの中に入っていたのは温かいお茶だった。一口飲めば、体の芯がぽかぽかと温まっていく。
僕は心の中で彼に謝った。
こんな、恩を仇で返すような真似はしたくなかったけれど、もう決めたんだ。
あの家には帰らない。
午前5時を過ぎた頃、僕と未帆はなるべく音を立てないように外へ出た。
まだ辺りは暗く、静寂に包まれていた。幸いにも雨は降っていない。今度は濡れなくて済むなと安心した。
街中へと続く一本道を僕達は進んだ。これから駅へと向かい、始発電車に乗る。
泊めてくれてありがとう、と使わせてもらった布団の隣に置き手紙をしてきた。ちゃんとした挨拶も無しに去るのは失礼だと思ったが、早く地元から離れたいという気持ちの方が強かったためそうするしかなかった。
僕はポケットから携帯を取り出し、時間を確認した。
「5時25分か……もう少しペース上げるよ」
そう言って隣を歩く未帆に目配せすると、彼女は「うん」と短く返事をした。
その時だった。後ろの方で、ぱしゃぱしゃと水たまりを踏む音がした。未帆もそれに気づいたらしく、ちらりと後方を確認した。
「……誰か来るよ」
未帆に言われて振り返ってみると、駆け足で近づいてくる人物がぼんやりと見えた。
「……多分、新だ」
「えっ!?」
僕の言葉におたおたする未帆。
彼が追い掛けてくることは想定の範囲内だったけれど、まさかこんなに早く現れるなんて。
田畑に囲まれたこの場所では隠れることもできず、足を止めるしかなかった。
新は僕達に追いつくと両膝に手をついて息を整えた。
「こんな早く、どこ行くつもりだよ」
彼は姿勢を戻しつつ言った。
「……家に帰るんだよ」
「嘘つけ! 本当は帰る気なんかなかったんだろ」
それを聞いて、新はきっと最初から分かっていたんだろうなと思った。そうでなければ寝坊助の彼が今この場に居るはずがない。
「……新」懇願するように僕は言った。「もう、ほっといてほしい」
新は未帆が好きで、未帆は僕と姉弟よりも親密な関係で。これ以上近くに居ればいずれほころびが生じる。だから、もう────。
「無理」
新はぶっきらぼうに呟いた。
「ほっとけるわけないだろ」
そう続けてから、彼はズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
新は、どこまでいっても優しいんだ。……優しすぎるんだ。きっと僕達に行く宛などないことを分かって世話を焼いてくれるのだ。
「ねえ……他の人じゃ駄目かな……」
不意に、そう言ったのは未帆だった。顔を伏せて遠慮がちに地面へ向かって話し始めた。
「こんなこと言うの最低だって分かってるけど、でも……」
彼女の声は微かに震えていた。
「私にはもう一希しかいないから……」
さっきから冷たい風が背中を押している。
未帆……? 僕は心の中で呼び掛けた。彼女が放った言葉の意味がどうにも分からなかった。
「ごめんな、未帆」
新は落ち込んだ声で言った。
未帆が顔を上げて彼を見たため、僕も釣られてそうした。
「俺……傷つけてたな」
彼らしからぬ悲しみに沈んだような声がさらに聞こえてきた。
一人、蚊帳の外だった僕は何も言うことができなかった。
未帆も新も、何を言っているのだろうか。
新はそれきり何も口にせず、僕達に背を向けて来た道を戻っていった。
あまりにあっさりと引き下がったものだから、今度は僕の方が彼を追い掛けそうになった。だが、それは未帆によって阻止された。
彼女は僕の袖口を強く握って啜り泣いていた。どうして涙を流しているのか問いかけてみても返事はなかった。
新の背中がどんどん小さくなっていく。
気づけば、太陽が少しずつ顔を出し始めていた。