8羽目
翌日、母の様子はいつもと変わらなかった。
おはよう、と笑顔を見せる母に、僕もまた同じように挨拶を返した。
昨日、あれだけのことを言い放ったのだから、酷い仕打ちを受ける覚悟はしていた。しかし、良くも悪くも母は変わっておらず、僕の言葉で未帆への態度を改めてくれるなど思い上がりもいいところだったらしい。
結局、僕の存在もその程度だったのだ。
「母さん、何考えてんだろ。大人気ないにも程がある」
月曜日。学校までいつもの道を未帆と2人で歩く中、母への不満を零した。
悔しかった。僕の思いが母に届かなかったことが。
でも、軽くあしらわれたというわけではないのだろう。あの時、母は泣いていた。少なからず何かを感じてくれたはずなのだ。それなのにどうして。
僕が遠くを見つめていると、今まで黙っていた未帆が口を開いた。
「一希はお母さんを責めたりしたら駄目だよ」
僕は思わず「はあ!?」と大きな声を上げてしまった。
「なんで。だって未帆、分かってる? あれは普通じゃないんだよ。責めない方がおかしい」
一番傷ついてきたはずの未帆がどうしてそんなことを言うんだ。
未帆は眉尻を下げて柔らかく笑うと、僕の手のひらを握った。
「私には一希がいればいいの」
それは僕がずっと欲しかった言葉だった。そのはずなのに、あまり嬉しくないのは何でだろう。久しぶりに見た笑顔も、僕を必要とする言葉も、今はただ虚しく思えて。
僕が本当に望んでいたのは何だったのだろうか。
「なーに手つないでるんだよ」
耳に飛び込んできた声に僕と未帆は足を止めた。聞き覚えのあるその声に血の気が失せていく。
ゆっくり振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべる新がいた。
「朝会うなんて珍しいね」
そう言って僕はつないでいた手を振り払うように離した。
心臓が物凄い勢いで血液を全身に送り届けているのが分かる。その音が新にも聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいだった。
「一希達は朝早いからな」
あー疲れた、と腰に手を当て息を吐く新。どうやら僕達の姿を見つけて走ってきたらしい。
手をつないでいたことに関しては然程気に掛けていないようだった。それが分かると安心して肩の力がすっと抜けていった。
正直、自分がここまで動揺するとは思わなかった。手をつないでいたところを見られただけだというのに。
ああ、違う。そうじゃないんだ。何を見られたとかじゃなくて、新だったからだ。
「ごめん……私、先に行くね」
未帆は俯きながら言った。
僕が反応する間もなく、彼女は両手で鞄を抱え足早に去っていった。
まだ新と顔を合わせるのは気まずいのだろうか。それに引き換え新の方はどうだ。
ちらりと新の方を見た。彼は小さくなっていく未帆の背中を見つめていた。僕ははっとして目線を足下に移した。
新はまだ好きなんだ、未帆のこと。
「一希?」
新のそれに胸がどきりと音を立てる。顔を上げると彼が不思議そうにこちらを見ていた。
「そろそろ行こうよ」
僕は頷いてから歩き出した。
他愛のない話をしながら学校へと向かう中、ぐるぐるといろいろな思考を巡らせていた。
新はきっと想像もつかないのだと思う。僕と未帆が双子の姉弟ではなく、男女の関係にあるなんて。
では、それを知った時どんな顔をするだろう。やっぱり殴られるのだろうか。それとも、気持ち悪い、と軽蔑されてしまうのだろうか。
僕はそれが一番怖い。きっと、受け入れてはくれない。恋愛は自由と皆は言うけれど、僕と未帆はその許容範囲にあるのだろうか。
午後3時を回った頃、灰色の雲から重たい雨粒が落ちてきた。
今朝は晴天だったというのに、天気というものは本当に分からない。
予期せぬ雨にずぶ濡れで帰る生徒が多い中、僕は鞄から折りたたみ傘を取り出した。折りたたみ傘はあまり場所を取らないのでいつも鞄の中に入れっぱなしだった。
廊下を歩いていると、向かいの校舎に未帆の姿を発見した。あんな人気のない所で何をしているのだろうと疑問に思ったが、理由はすぐに分かった。
彼女の近くには一人の男子生徒が立っていた。多分、告白されているのだ。
下駄箱の近くで未帆が来るのを待っていた。
雨は強くなる一方で、正門前の道路を行き交う車が水飛沫をあげている。
未帆が現れたのはそれから10分程経った頃だった。彼女は何やら疲れ切った様子で、溜め息まで零していた。
僕に気づき、あ、と声を上げる。
「待っててくれたんだ……」
「まあ、この雨だし。傘持ってないでしょ」
折りたたみ傘を目の前に差し出すと、未帆は「ありがとう」と顔をほころばせた。
一つの傘で肩を寄せ合いながら歩く。2人が使うには少し小さい傘。
僕は未帆の方へ傘を傾けた。寒い思いをしてまた風邪でも引かれたら困る。制服の片側が雨に濡れて色が変わっていたけれど、気にせず歩き続けた。
小さな雫が執拗に傘を叩いている。
そういえば、と僕は口を開いた。
「告白されてたね」
ごほごほと咳き込んで驚く未帆を横目で見た。
「し、知ってたの!?」
「たまたまだよ。偶然見ただけ」
そこまで焦らなくてもいいじゃんと思ったが、よく考えると僕に原因があるのかもしれない。
新の告白の件もそうだけれど、僕自身、無意識に彼女を威圧してしまうところがあるらしい。母のことをあれこれ言う前に自分も変わらなければ駄目だ。
「どうして私なんだろう。……もっといい人たくさんいるのにね」
未帆はぼんやりとした瞳で呟いた。
「未帆を好きだからでしょー。もっと自分に自信持ちなよ」
僕はそう言いながら、彼女の柔らかい片頬を親指と人差し指で摘まみそのまま引っ張った。
「ほら可愛い」
頬を摘まんだまま未帆の顔を覗き込んだ。
彼女は耳まで紅潮させ、「もう!」と僕の腕を軽く叩いた。
自宅を目前にした時、僕達の足が止まった。
見慣れた白い軽自動車が自宅の敷地内に収まっている。
母だ。母が帰っている。今日は仕事のはずだ。まだ4時を過ぎたばかりだというのに、どうしてもう家に居るのだろう。
一気に体が重くなったような気がした。
「別々に入った方がいいかな……」
先に口を開いたのは未帆だった。
その必要はない。僕は黙って彼女の手を引いた。
玄関の扉が妙に重たく感じた。
僕と未帆は家の中へ足を踏み入れた。開いていた扉が完全に閉まると雨音が遮断され室内が静かになった。
リビングの電気は付いていない。母はきっと自室にいるのだろう。顔を合わせる前に早く2階へ行こう。
そう思って階段に足を掛けた瞬間だった。
「2人共、食事の支度を手伝って」
母の声が僕達を引き止めた。
僕は耳を疑った。2人共ということは未帆も含まれる。いつもなら存在しないかのように扱うくせに突然何を言い出すのだろう。母が何を考えているのかますます分からなくなった。
けれど、もしかしたらと少し期待したんだ。母が未帆への態度を改めてくれたのでは、と。これはその最初の一歩なんじゃないかって。
僕はキッチンで野菜を切るように言われた。
未帆は食卓の上でサンドウィッチを作っている。母と一緒に。
キッチンと食卓の間には一枚の壁が存在しているため、こちらから2人の様子を窺うことはできない。また母が酷い言葉を吐くんじゃないかと不安で胸がいっぱいだった。
誰も声を発することなく時間は刻々と過ぎていく。リビングには包丁とまな板がぶつかる音だけが響いている。
「ねえ、未帆」
唐突に、母は未帆を呼んだ。いつものような冷たく低い声ではなく、優しくて落ち着いた声だった。
僕は手を止めて耳を澄ました。
「な、何? お母さん……」
震え声で答える未帆を気遣うような温かい声で母は信じられない言葉を続けた。
「たまには話をしない?」
あまりの衝撃に僕はしばらく静止していた。
こんな日が来るなんて思いもしなかった。母は変わってくれたのだ。僕はもっと早く言うべきだった。そうすれば未帆だって傷つかずに済んだかもしれない。
「学校はどうなの?」
「ふ、普通……ううん、楽しい」
「そう」
2人は自然な親子の会話をしていた。心なしか未帆の声が明るくなった。
今、部屋の中には温かい空気が流れている。こんな風に温もりを感じたのは何年ぶりだろうか。
僕は再び手を動かし始めた。多分、僕が本当に望んでいたのはこれだ。よかった、もう大丈夫だ。
そう思い始めた矢先だった。
「一希とは相変わらず仲が良いのね」
いつもの冷たさを取り戻した母の声が聞こえてきた。
僕は振り向いて壁越しに食卓の方を見つめた。脈が次第に速くなっていく。
何か言い返さなければ。僕は必死に言葉を探した。
何故だろう。思うように頭が回らない。
「本当……、気持ちの悪いくらい」
僕は包丁を置いて2人の元へ駆け寄った。
僕の目に青ざめた顔の未帆と母の背中が映った。彼女の様子から母がどんな顔をしているのか容易に想像できた。
「知ってるんだから……」
母は怒りに満ちたような声で言った。
未帆は椅子から立ち上がり母から距離をとった。
「知ってるんだからね。私がいない間にこそこそお互いの部屋出入りしてること」
その瞬間、僕は目を見開いた。
母は────気づいている。震える指先を隠すようにぐっと手を握りしめた。
母も椅子から腰を上げ、未帆との距離を詰めていく。
「ねえ、仲良く何をしてるの? 勉強? 違うでしょ? ねえ、何してるのよ!」
母は歪んだ笑みを浮かべながら未帆の肩を勢いよく掴んで激しく揺さぶった。
「母さん!」僕は慌てて2人の間に割って入った。「落ち着いてよ!」
しかし、怒り狂った母を止めることは不可能だった。僕は呆気なく弾き出され、壁に背中を強打した。呼吸が一瞬できなくなる。
「ふざけないで! 何なのよあんたは!」
そうして母は次から次へと暴言を吐き散らした。
僕は目の前で起こっている出来事を呆然と見ていた。
愚かだった。何が「変わってくれた」だ。そんなことあるわけないじゃないか。
母は力任せに未帆を突き飛ばした。「きゃ」と小さな声が未帆の口から漏れる。
床に這いつくばるような体勢になった彼女を母は鋭い眼光で見下ろした。
「出て行って」
静まり返った室内で母は言った。未帆は恐怖におののき、声すら出ないようだった。
母は舌打ちをすると片手を振り上げた。
「私の前から消えろ!」
そんな母の怒鳴り声と共に乾いた音を聞いた。頬を手で押さえる未帆。咄嗟に彼女を庇おうと伸ばした右手が虚しく宙に浮かんだ。
未帆はよろつきながらも自分の足で立ち上がり、無言でその場から去った。
少しして玄関の扉が開閉する音がした。僕は行き場をなくした右手を下ろした。
もう、無理だ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕が余計なことを言ったから? なら、どうすれば良かったんだ。これからも未帆が傷つけられるのを黙って見てろとでも言うのだろうか。
母に対する恐怖が失望へと変わっていった。
リビングから出ようとした瞬間手首を強く掴まれた。
「どこに行くの?」と母は不安そうにこちらを見据える。
「ごめん……母さん。もうこの家にはいたくない」
そう言って母の手を振り払った。